2014年4月2日水曜日

「高齢化社会の悲哀」


 2月、3月はいわゆる「ご不幸」が相次ぎました。父、叔父、ドイツの母Erika エリカ。このうち葬儀をしたのは父だけで、叔父は献体のため、エリカは葬儀を望まなかったとのこと。(ドイツでの葬儀は日本の納骨に当たります。)

 人間の寿命が伸びて自分の葬られ方について考える時間もでき、個人の希望によるそれぞれの葬られ方が一般的になりつつあります。宇宙葬や樹木葬に惹かれる気持ちも分かります。キリスト教では特に死というものを天国に移されると考えるので悲惨なイメージはなく、どちらかというと明るい気持ちでうけとめることができます。しかしそうは言っても、この世で親しく時を過ごした人がいなくなるというのは悲しいことに違いありません。

 ヘルベルトが亡くなったとき、私は入院中で病院のベッドの上で動けませんでしたが、エリカも火葬には立ち会っていないはずです。悲しすぎたのです。悲しいことが嫌いな人でした。およそ三週間後に行われた葬儀(納骨)ではお会いできましたが、消え入りそうな様子で耐えていました。自分の葬儀を望まなかったのはそのせいかもしれません。

 高齢化社会というのは人の死が日常化する社会です。老人の比率が増えて活気がなくなるとか、労働人口が減って産業を支えられないとか、年金や医療費がかかりすぎて制度が破綻するとかいう以上に、まず何よりも、この「日常茶飯事としての人の死」というものがどれだけ人々の心に変化をもたらし社会に影響を与えるかを想像すべきです。この静かな悲しみに満ちた人の死が誰にとっても日常的に起こる社会では、やはりなにがしか陰鬱にならざるを得ないでしょうし、現在の世帯構成のあり方からして適切な葬りがなされない事態も多発するのではないかと考えると、これが今後日本社会における暗雲の最も根本的な源になる気がしてしかたありません。

 いま親族の手元にあるエリカの遺灰が今後どうなるのかわかりませんが、ドイツには○○家の墓といったものはないのでヘルベルトと一緒のところに埋葬されることにはならないかもしれません。私も父の納骨の準備をする頃合いとなりました。信夫山の墓地に眠る母とヘルベルトのところに一緒に入れてあげなければと思います。5月24日の予定で計画を進めようと思います。