2014年4月25日金曜日
「母の昭和史」(続き)
さて、三年生になって須賀川に引っ越し安積高等女学校に転校しましたが、ここの校風は質実剛健で福女では許可されたレインコートも贅沢だとして注意を受けました。ここでは、担任の先生が出征し、戦死して校葬を行うという悲しいことがありました。集会では時局講話というものがあり、戦争状況の説明を聞きました。当時の学校の状態は今から見るとのんびりしていて、試験発表は一週間前でしたが、それより前に始める人はまれで、また答案も返されませんでした。女の先生は洋服と着物の先生が半々くらいだったそうです。四年になって卒業式には、仰げば尊しは歌いませんでした。おそらく戦争状態においてセンチメンタルだという理由でしょう。
母は先生になりたかったし給付制度もあって学費も出してもらえたので、師範学校に進みました。全寮制で、上級生・下級生の区別が厳しく、何かと狭い範囲にとらわれていました。このころ食料が悪化し、山に雑草を採りに行って、それを賄いのおばさんに作ってもらったりしましたが、だんだんおかゆになってゆき、水とんになったりもしました。
昭和十九年、サイパン島の日本軍は全滅し、戦況はいよいよ悪化し、学徒動員が行われ、母も前橋の中島飛行機工場で旋盤工といっしょに働くようになりました。福島を発つときに教会の先生のところに挨拶に行き、
「いつ帰りますか。」
と聞かれて、母は教えられていた通りに、
「勝利の日まで。」
と言ってきたのだと恥ずかしそうに言いました。中島飛行機工場には桐生高校の生徒たちも動員されていて、飛行機のねじの一つを作り皆は一機でも多く作ろうと意欲に燃えていました。というよりは燃やされていたという方が適当でしょう。しかし実際には大部分がおしゃかだったということです。工場で作業していて空襲警報が出ると防空頭巾をかぶり、薬や食料の入った袋をさげて逃げたのですが、一度などは敵機が頭上にあって機銃掃射を受けるのかと死を覚悟したこともあったそうです。うちからは配給のだんごなどを送ってきましたが、軍送の途中で中身が抜き取られて無事に届くということはめったにありませんでした。中身がとられてガサガサになったものを受け取る時、せっかく無理をして送ってくれたのにと、情けなく悲しい気持ちになるのでした。
やがて材料も尽き、福島に帰って沖電気で受信機のはんだ付けをしばらくしましたが、前橋が空襲にあったのはそれからしばらくでしたから、実に危ないところだったのです。その頃の話を二、三あげると、特高の思想統制が厳しく、教会にも土足で入ってきたそうです。或る教会員の方は、「眼鏡をとれ。」と言われ、殴られるのを覚悟しましたがたまたまその上司が教会員だったために免れたということです。また、母のいとこが東北帝大の理学部にいたのですが、三日間不眠不休で殺人光線の研究をさせられて、朦朧となってよろけた拍子に電流に触れ感電死してしまったということもありました。
昭和二十年、アメリカ軍の硫黄島、沖縄上陸で日本の敗戦はもう必至でしたが、広島ついで長崎に原爆が投下されついに終戦を迎えました。その時母は、平和通りを広くする作業をしていたのですが、重大発表があるということで集められ、「各自仕事に励むように」という話だろうと思っていると、それが敗戦の知らせでした。母は「この先日本はどうなってしまうのだろう」という気持ちでいっぱいでした。皆は黒い長袖の服から白い半袖の服に着替えて、「現金なようだね。」などと話しながら、洗濯場でゆっくり洗濯したそうです。当時はイギリス人、アメリカ人は冷酷無残なものとして「鬼畜米英」という考えが植え込まれていて、米英の手にかかったら舌をかんで自害するようにと教えられていました。戦争直後が一番ひどい時期で、食べる草もなくなり、教生に行った最後の日に懇談会をもった時には炊くものがなくて、敗戦によって不用になった掛図を燃やして語り合ったことが印象に残っています。
翌二十一年は天皇の人間宣言があった年ですが、その三月に卒業し、須賀川第二小に赴任しました。戦後はあらゆるものの価値観が変わりましたが、教育もそれに漏れず形式的にもあれ民主化され、そういう混乱期に母は十九歳という若さで子供たちを教えたのでした。母は国語と図工を教え、また先生がいなかったため免許なしで音楽も教えたそうです。その頃アメリカから、衣類や脱脂粉乳など多くの物資が宣教師の先生のところに送られ、その援助を受けて本当に助けられたそうです。アメリカから宣教に来ていて戦争状態が悪化したため本国に帰っていた、ミス・アンダーソンも再び日本にやってきて再会を喜び合いました。
そこに四年半くらいいて小名浜二中に転勤。さすがに浜の方は気が荒く、先生は容赦なく生徒を殴ったので、母は初めてそれを見たときには、びっくりして泣きそうになり家に帰ってしまったことがあるそうです。しかし生徒はそれを当然のこととして平気でしたし、現代と違って親から文句が出るということもなく、逆にそれを肯定するくらいでした。また親の方も先生だと思って、そんなに若かった母にも生徒のことばかりでなく家庭の事情や経済的なことを相談に来たりしました。食料事情はまだよくなく、農繁期には学校が休みになってその間に職員旅行をしたそうです。個々の人柄は、率直で奔放で裸の付き合いと言いましょうか、とにかく思いで深いところでした。
(中略)
今まで、戦争の時代を歩んだ母の歴史をざっと綴ってきました。最後に私は政経の先生がおっしゃったことを試してみました。
「教育勅語言える?」
「もちろん、言えるわよ。」
「言ってみて。」
「朕惟フニ、我ガ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト・・・」
と威勢よく始めた母でしたが、二行目から三行目を飛ばし四行目にいってしまいました。私は笑いながら、
「間違ったわよ。よかったわね。忘れているということは幸福であるということで、はっきり覚えているということは、それだけ戦争の傷が深かったということなんですって。」
と言うと、母は
「そういうことになるのかしらねえ。ちゃんと覚えていたんだけど、もう三十年もたったのね。」
としみじみと言って、なにはともあれ、母と私は現在の幸福を感じたのでした。
今読むと、まるで小学生の作文で愕然としますが、この単純で平易な二分法思考こそ、うらやましいほどの幸福な時代の証だと、今懐かしく思います。