2014年4月23日水曜日

「母の昭和史」


 高校3年生の時、日本史の授業で「母の昭和史」を書くという課題が出たことがありました。これは実際に母親に聞き取りをしてそれぞれが提出し、全員分のが冊子になりました。ずいぶん前に探した時その冊子がどうしても見つからず、「とっておけばよかったなあ。」と思っていましたが、家の整理をしている時自分の原稿が出てきました。書いてから母に渡したのでしょうか、母がとっておいたのです。今読むと、こんな走り書きでよかったのだろうかと思うのですが、貴重な記述なので残します。

 私の母は、昭和三年に七人兄弟の最初の子として福島の曾根田でうまれました。当時、日本は金融恐慌がしずまったばかりで日本経済は恐慌、不況の状態が続いていました。そのため、満州権益を維持するために差山東出兵が行われ、続いて満州某重大事件(張作霖爆死事件)が起こったころのことです。それに続く世界恐慌、満州事変、五・一五事件などは幼かった母の記憶にはありません。母の父は福島区裁に勤務しており、母は男子師範付属小学校に二年までいましたが、二本松勤務になり二本松第一小学校に通うようになりました。二本松は城下町でしたから、封建的伝統が残っており、少し違和感を感じたそうです。週に何度か拘束を言わせられました。それは、「真面目で根気よくあれ、素直でしとやかなれ、みんなとともに正しく進め」というものでした。また、四大節には、校長先生が奉安殿から天皇陛下の御写真を恭しく取り出し壇上に飾り、生徒たちは紅白のまんじゅうをもらって喜んで帰ったりなどしました。昭和十一年には二・二六事件が起こり、五・一五事件によって崩壊した政党内閣が、軍と一体化となり軍部ファシズムの体制は固まりました。また、国外においてもイタリアのエチオピア併合、ドイツのヒットラーの独裁体制、再武装宣言と、次第に戦争の機運が高まってきました。昭和十二年にはついに、蘆溝橋で日中が衝突し、日中戦争が始まりました。そのころ小学四年生だった母は、子供ながらも、ただならぬ気配を感じたそうです。当時、上海や南京など中国の都市が陥落するたびに、それを祝って旗行列や燈灯行列が行われ、戦争は美化されました。教科書も「ススメ ススメ 兵タイ ススメ」とか、「水平の母」などといった戦争を賛美するものでした。日本松第一小学校を卒業する時に母は大内大佐遺族賞としてお免状と硯箱を戴きました。大内大佐というのは、二本松出身で大佐になって戦死した当地では有名な人なのでしょう。

 昭和十四年は、第二次世界大戦が始まった年ですが、その翌年に母は福島県立福島高等女学校に入学しました。当時の願書には、氏族または平民と記入し、また宗教を書く欄もあり、今考えるととてもおかしい気がします。義務教育は小学校までで、その後は高等科に入ったり、町立の実科女学校に入ったり、あるいは就職、家の子守など様々でした。女学校では良妻賢母の教育を受け、母は特に修身の時間がきらいでした。ある程度批判的にではありましたが、女大学的精神を教えられ反発を感じたそうです。昭和十六年には日本は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が勃発。二本松から汽車で通う生徒たちは、上級生が先頭になって一列に並んで学校まで行くことになっていましたが、その朝、民報社の前には「八日未明、真珠湾において米英両国と戦闘状態に入れり」と大きく書かれ、生徒一同は来るべきものが来たかという感を強くしました。母は二年まで福島にいましたが、その時に、東京女高師を出たばかりの若い先生にお習いし、その影響を受け、女子高等師範でのお話を聞いて、母も断然行きたくなってしまったのだそうです。しかし結局、迫る戦争の危険と経済的理由のためにこの夢は実現しませんでした。後に先生になってから受けようと志したのですが、子供に真剣に教えようとすれば自分の勉強をする時間などなく、また母の給料でうちを助けていましたから、とうとうあきらめてしまったのだそうです。だから母は私たちに
「行きたいところに行きなさいなんて言われて幸福だわね。」
と言います。私はそんなことは当たり前のことのように考えていましたが、よく考えてみると本当に幸福だと思います。世の中にはかなわぬことが多いのですが、でもやはりこういったことは格別つらいことのように思われます。
(続く)