感染症の中で日常への復帰が模索され、生活が少しずつ戻りつつある今日、先日は教会で礼拝後に小さな会が開かれました。比較的同年代の方が出席される会で、対面で開かれるのは久々でしたので、互いに近況の報告などをしました。様々なことがありながらも、教会の方々がそれぞれの場で朗らかに前向きに過ごしていらっしゃることがわかって気持ちが明るくなりました。
私が話したことの一つは、友人から受けた祈りに関する相談でした。その友人はだいぶ前に大病をなさったのですが、今は元気で信仰生活に励まれている方です。「5人部屋の入院で、その後3人が亡くなり、もう一人の方も緩和ケアに入られた。時々メールのやり取りをしているが、どのようにお慰めしたらよいか」という相談でした。改めて祈りについて考えてみると、私がそれまでしてきた祈りの多くはクリスチャンの間で交わされるもの、クリスチャンから「祈ってください」と言われた場合のことが多く、クリスチャン以外の友人・知人のための祈りは健康やご家族の無事などを願う一般的な祈りでした。また、祈りはそもそも神様に対してするものですから、祈りの言葉を当人に話すことはありません。一般の方のための具体的な祈りや当事者へのお慰めの言葉を求められたことはほぼなかった、ということにその時初めて気づきました。友人のすごいところは入院中も自分がキリスト者であることを言い表していたことで、それで特にどうということはなくても周囲の方はそのことを十分ご存じだったのです。
友人と顔を突き合わせて話すうち、これは難問だと二人とも唸ってしまいました。相手がキリスト者であれば掛ける言葉はいくらもありますし、自分が同じ立場になってもキリストにある平安を得ることができることは確かです。しかしそうでないとすると、いくら考えても、例えば「痛みが和らぐこと」、「家に帰りたいというご本人の希望がかなうこと」くらいしか考えつかず、本当に不意を衝かれた感じでした。友人にとってもメールのやり取りで気分が沈むことは避け難く大変さが推察されましたが、私は「祈り続けていることは知らせた方がいいのではないか」と告げて、自分も祈ることを約しました。
そのことをつらつら考えながら過ごすうち、思い出すことがありました。もう二十年も前のこと、父が秋から春にかけて半年ほど入院したことがあり、私も金曜夜の新幹線で毎週帰省して見舞っていた時のことです。病院でクリスマスをしたいと思った父は、病院の許可を取りスタッフの助けを借りて、クリスマス会をしたというのです。おそらく父が自分の言葉でキリストの誕生を語り、皆がよく知っているクリスマスソングを一緒に歌い、ケーキと一緒にお茶をいただいたというような会ではなかったかと想像するのですが、来られる方はどなたでもと食堂に招いたのでしょう。その後、年末年始はご自宅に帰られる方で病院は寂しくなりましたが、或る方が声をかけてきて「私はもう駄目なんです」と話されました。父が「あなたはこれまで家族を愛し、周りの方々のために一生懸命働いてこられたんでしょう。すばらしいことです」と言葉を返すと、その方の顔が明るくなられたと。これらの話を私は断片的に聞いていたのですが、今考えると、その方は父がクリスチャンだと知って弱音を吐かれたのでしょうし、父は「人と人との関係の中」だけで生きてこられた方のために、その人生の最良の部分に触れた言葉を返したのでしょう。「神と人との関係の中」においても生きてこられた方であるなら、また別の言葉があったでしょうが、今それが語れない以上、父の言葉は最善の言葉だったと思います。大事なのはそれを語っているのがクリスチャンだと相手が知っていることです。それでどうということも無いかもしれませんが、何か伝わるものがあるかも知れません。
その会で私の次に話された方はつい最近家族を看取った話をされました。感染症対策のため身内も病室に入れない看護体制で1カ月ガラス越しに辛い時を過ごされましたが、亡くなられた時に看取りの場にいた看護師さんが「私はクリスチャンなので祈らせてください」とおっしゃって、祈られたのだそうです。キリスト教主義の病院ではなく、また亡くなられた方はクリスチャンではなかったのですが、「どれほど家族の慰めになったことか」とおっしゃっていました。神様の御計らいとしか思えない出来事です。
「慰める」ということについて思い巡らすと、漢字というのは非常にすばらしい文字で、「慰める」の中の「尉」の文字は「火熨斗ひのし」を表しますから、これは今のアイロンのことです。だから「慰める」ということは、「クシャクシャになった心」に、「アイロンをかけて真っ直ぐ平にする」、「シワを伸ばして元の状態にする」ということです。ほんのちょっとしたことでも気持ちがめげて凹んでしまい、ギザギザハートからなかなか立ち直れないのが私たちです。本当の意味で「慰める」などということは神様にしかできないことではないでしょうか。考えさせられることの多い会で、恵みの時を与えられました。イエス様を通して神に出会い、生きる時も死ぬ時も平安の中におかれる方々の多からんことを祈ります。