2022年5月14日土曜日

日本的メンタリティ ―仏教とキリスト教(1)―

  少し前に『古事記』を読んで感じた日本的メンタリティについて書きました。これは神道に関わることでしたが、もちろん仏教、特に鎌倉時代に日本的変化を遂げた仏教も日本における重要な宗教体系ですので、これについても少し知りたくなりました。とはいえ仏教は宗派も多く、浄土宗と禅宗では全く違う宗教のように感じますし、とても全部を把握することは無理に思えます。そこでここに一つキリスト教という軸を立てて考えてみることにしました。たとえば『日本的霊性』で高名な鈴木大拙に若くして師事していた岡村美穂子(「鈴木大拙館」の名誉館長)が、禅仏教を海外に紹介した鈴木大拙に同行した時の話でこのようなものがありました。講演の後に聴衆から、聖書の創世記に記されるアダムの堕罪について、「人間はどうすれば罪を犯さないようになれるのか」との質問があり、これに対して鈴木大拙は「もう一度アダムが罪犯せばいいのではないか」と答えたと言うのです(「大拙先生とわたし」2017年5月14日Eテレ)。これは「罪の自覚が出来ないから罪を犯すのだから、罪の自覚をするためにもう一度でも何度でも罪を犯せばいい、罪を自覚すれば人間は罪を犯さなくなる」という意味のようです。キリスト者からすれば絶句するほかない言葉で、禅宗との間にはほとんど接点がないと感じざるを得ません。体験を通して一瞬のうちに宇宙存在を把握する悟りを得るというようなことが仮にあるとしても、それはキリスト者にとって何の救いにもならないことは確かです。

 その点で、キリスト教と浄土真宗は似ているとよく言われます。東京拘置所医務部技官をしていた加賀乙彦は、精神的動揺をもたらす宣告を受けた死刑囚のうち、わずかながら泰然自若として過ごす者たちがいることに気づき、それらの人々は決まってキリスト教か浄土真宗を信じる者であったと述べています。なにしろ1549年に日本に初めてやって来たキリスト教(カトリック)の宣教師が、布教活動をする中で「日本にはルター派の異端信仰がすでに入っている」と言ったくらいですから、バテレンの目から見てもキリスト教プロテスタントと浄土真宗は信仰の在り方において非常に似ていることは間違いないでしょう。浄土真宗とプロテスタント信仰の違いを考える時、こういう問題はかなり昔に表明された考えでも何らかの手掛かりが得られると思い、四十年近くも前に行われた上智大学での9名の方々の講演録『親鸞とキリスト教―現代人に信仰を問う』(門脇 佳吉編、創元社1984年)を読みました。驚いたのは「この二つの違いを言い切ることは相当な難問らしい」ということと、探求を極めた信仰者ほど謙虚で、互いの信仰に対してシンパシーを感じているということでした。

 これまでの浅い仏教理解から、最初私は仏教とキリスト教の違いを挙げるのは容易だろうと簡単に考えていました。浄土真宗も仏教の一派であるので、一部「悪人正機」などの独自の教えはあるものの、基本的にそう変わらないだろうと思ったのです。例えば仏教の特徴を問われてすぐ頭に浮かぶのは、①人が死ねば仏になる、②仏は限りない慈悲により全ての衆生を救う、③天台宗や真言宗など或る種の修行によって救われるとする自力系と、浄土系仏教のような念仏を唱えることで救われるとする他力系がある、などです。しかし親鸞の信心とルターの神学を知るにつけ、両者の違いはなかなか一筋縄ではいかないと分かってきました。親鸞は六角堂での聖徳太子の夢告、ルターは落雷に打たれた体験から真の信仰を求め始め、それまで受けていた宗教的教えに背を向けて、己が信じる道へと踏み出していきます。その後の両者の困難な歩みを知るにつけ、本物の信仰者とはいかなるものかを突きつけられる思いです。

  仏教の伝来は6世紀の欽明天皇の時代だとされているものの、それは儀礼的仏教で合って、日本的霊性の覚醒は平安時代を経て鎌倉時代まで待たねばならなかったと鈴木大拙は述べています。うろ覚えですが、稲荷神に油揚げを供えて願いを取り引き的にかなえようとしたり、自分の好きな事物を断つのと引き換えに何らかの願掛けをするといったことは「断じて宗教ではない」という趣旨のことも述べていますから、鈴木大拙の念頭にあるのは、或る種の水準に達した体系をもつ宗教なのです。インドでも中国でも生まれなかった日本に独自の禅宗および浄土系仏教が出現してくるのは、まさしく京の都で育まれた貴族文化の時代から、大地に根差した武士の時代へと移り変わる戦乱期においてです。1173年生まれの親鸞はまさにこの激動期を生きた人ですが、私が驚いたのは9歳で比叡山延暦寺の慈円について得度したという事実です。ちなみに「明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは」という句は、夜遅く叡山に着いた際に「得度式は明日にしてはどうか」と言う慈円に対して答えた言葉と言われています。それから29歳で叡山を捨て法然のもとに走り、「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」(『歎異抄』)というまでのすさまじい気迫で弟子になるわけですが、その事情は容易に推察されます。

 慈円は天台座主に4度もついた人であり、その生涯を慮るにこのようなことは『白い巨塔』以上のえげつない学内外の政治力学に秀でた人でなければできないことに違いないからです。『愚管抄』を著した慈円は摂政関白・藤原忠道の子にして摂政関白・九条兼実の弟です。すなわち貴族文化の末期において権力の中枢に最も近いところにいたのです。1156年に起きた保元の乱とは、皇位継承に関して崇徳上皇と後白河天皇が、また摂関家においては藤原頼長と藤原忠道が対立し、それぞれが源氏及び平家の軍を頼んで戦い、武士の軍事力による統治を招いたとされる内乱です。後白河天皇側の藤原忠道は勝利側になりますが、忠道の子である慈円も乱世の到来を肌で感じたことでしょう。そしてやや年を経て、おそらくは悪い予感通りに、1221年(慈円66歳)に承久の乱が起こり、鎌倉幕府打倒のため挙兵した後鳥羽上皇は敗れて配流され、名実ともに鎌倉幕府の絶対的支配が決定的となります。これにより何とか公武の協調を模索してきた慈円の企図は崩壊し、兄兼実の孫で慈円が後見人となっていた九条道家の、甥の仲恭天皇は廃位となるのです。いずれにしても慈円は徹頭徹尾現世の中で生き、現世利益を求めた人です。直接の師として慈円をいただいた親鸞が彼を俗世の権化のように見ていたとしても頷けます。現存していないだけかもしれませんが、両者とも書き残した文に相手に関する言及が全くないという事実は、そのあたりの事情を雄弁に物語っているのかも知れません。