親鸞とその信心
さて他方親鸞の出自ですが、知らずにいて仰天したのは、親鸞が源氏の親族で、源頼朝の甥にあたるということです。そして、保元の乱において崇徳上皇方の軍として戦い敗れた源為義は、源頼朝の祖父であり、保元の乱で相手方・後白河天皇の軍として戦った長男の源義朝の手で処刑されています。つまり源頼朝の父(親鸞の立場からすれば祖父)の義朝は父殺しをした人だったのです。
これを知った時、私の中で多くのことが氷解しました。親殺しはどんな宗教、どんな社会でも重罪ですが、特に浄土宗ではそうです。浄土教の根本経典である『大無量寿経』には、四十八願という48の願がありますが、これは法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行時の名)が仏に成るための修行に先立って立てた願のことです。(阿弥陀仏とは何か、まだ私にはよく分かっていませんが、この時代から百年後くらいに書かれた『徒然草』の243段「八つになりし時」には、子供の頃の兼好法師が「仏は如何なるものにか候ふらん」と問うと、父が「仏には人のなりぬるなり」と答えたという話があるので、そのように考えられていたのかと思います。もっともこの話は最初の答え方のせいで、父がドツボにはまる話でしたから、「人が仏になる」という理解でよいのかわかりません。)
四十八願の第十八願は特に有名で、『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』の現代語訳によると、「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗(そし)るものだけは除かれます」との願で、阿弥陀仏がいかに真摯に全ての人を浄土に救い入れたいと願われていたか察せられる言葉ですが、それでも五逆の罪を犯した者は救われないと言っているのです。五逆の罪とは、父を殺す、母を殺す、阿羅漢(=最高位の仏教修行者)を殺す、仏身を傷つけて血を出す、僧の和合を破る(=教団を分裂させる)の五つで、父殺しはその筆頭の大罪です。親鸞にとって祖父がその罪を犯しているとなれば、その血が自分にも流れていることを認めないわけにはいかなかったのではないでしょうか。紀元前5世紀のインドで父王を殺した阿闍世王に関して、教義的に救われる道はないかと探求した親鸞の強い思いもこれで理解できました。血統というものは自分ではどうにもならないのですから、この視点から眺めると「悪人正機」までの飛躍も納得できます。
浄土宗を信じて法然同様流罪となり、大地に這いつくばって生きる民と生活を共にして、親鸞の信心はなおさら強まったのでしょう。親鸞は、信じて「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰もが救われるという信心をさらに発展させて、「信じきれない」ことについての問いへと深化させていきます。『歎異抄』に、「念仏を唱えても喜びが起こらない。また、急いで浄土へ行きたいとも思わない」という弟子の唯円に対し、親鸞が「私も不審に思っていたが、お前もそうであったか」と答える箇所がありますが、信仰者としての親鸞の度量と包容力を感じ、実は私はここを『歎異抄』の白眉なのではないかと思うほどです。(原文:念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」 と申しいれて候いしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり。) そして親鸞はさらに驚くべきことを口にします。「大喜びすべきところを喜べないのだから、なおさら往生は間違いない。喜べないのは煩悩のせいであるが、阿弥陀仏は何もかもご承知の上で煩悩具足の凡夫を助けるとおっしゃったのだから、まさしく他力の悲願は私たちのような者のためであったのだ、とわかっていよいよ頼もしく思った」と言うのです。(原文:よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを 喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり。喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたる ことなれば、他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけり と知られて、いよいよ頼もしく覚ゆるなり。) これによれば、信じられなくても阿弥陀仏が救ってくださるのであるから、これ以上のことはありません。「信じられない心=悪心」と考えれば、悪人ほど救われなければならない人になり、ここから「悪人正機」が導かれます。しかしこれが誤解され行き過ぎてしまうと、本願誇り(阿弥陀仏の救いがあるのだからと平気で悪事をしてしまう、救いを確かにするためにいっそう悪事を重ねるというほどの意味か)をすることもあり得るし、実際そのようなこともあって、本願ぼこりは救われないとの考えも出てくるのですが、『歎異抄』によればそれさえ親鸞は「こんなことを言っている者は、阿弥陀仏の本願を疑い、前世で行った善悪の業を知らない者である(この条、本願を疑う、善悪の宿業を心得ざるなり)」と退けています。そして唯円に「お前はわたしの言うことに従うと言うが、私が千人殺して来いと言ったらそうするのか」と、無茶ともいえる問いをぶつけて、状況によっては誰も悪行を犯してしまうものだと説くのです。
阿弥陀仏とキリスト教の神について考える時、どちらも全ての人を招いて救いたいと願われていることは間違いなく、さらに、キリスト者が神から呼びかけられてそれに応えたり、また神に「アッバ(父よ、お父ちゃん)」と呼びかけたりする人格的な関係であることはよく知られていますが、浄土系仏教の「南無阿弥陀仏」の念仏も、仏の名号を唱えることで阿弥陀仏への帰依を表明するだけでなく、阿弥陀仏の招きと阿弥陀仏への呼びかけでもあるようです。呼びかけと応答という点ではキリスト教と変わらないようにも思えます。全ての人が平等に浄土へと往生することができるためには、難しい修行ではなく誰でもできる念仏の唱名でよい、唱名ができない状況なら信じるだけでよい、信じることこそ難しいのだから信じられなくてもよい、どんな悪行をしても阿弥陀仏の大悲により救われる、いや悪人こそが救われるはずだ・・・と突き詰めていった結果、時に「浄土真宗は仏教ではない」と言われることもあるほど特異な教えになったのでしょう。