2021年8月30日月曜日

「皮膚感覚」

  私はデジタル機器が苦手です。スマホは非常用に保持しているだけで、常にGPSは切って自宅に固定、帰省する時は持っていきますがそのまま机上に置いてあります。先日、友人から「テレビ通話できれば・・・」と話があったのですが、まずやり方がわかりません。機種によって簡便に使えるもの、アプリを入れて使うもの等さまざまあるようです。ラインはもう社会インフラになっているなどと言われて、これなら初心者でも簡単にテレビ通話ができるのだそうです。しかし、以前いろいろと問題になったように、使い始めると同時に電話帳が抜き取られたり、文字や通話の情報が漏れなく開発企業に送られて集積されたりするようなものを、よくみんな平気で使えるなと言うのが率直な感想です。いずれにせよ何らかの利便性を享受しようと思えば同様のことが起こるのですから、もはやどこのリトル・ビッグブラザーを選ぶかの違いしかないともいえるのですが・・・。テクノフォビアとしては少しでも安全そうなデジタル通信機器を用い、ごくごく必要な時しか使うまいと決めています。

 そうは言っても、ありがたく使っている機能もあります。感染症の不安がある中、教会のオンライン礼拝が聴けることは以前には享受しえなかった恩恵です。もちろん会堂での本物の礼拝とは全く違いますが、とにかく同じ時間を共有することができるのは有難いことです。しかし、ZOOM等による双方向の会合には一度も参加したことがありません。どうしてもそういう気になれないのです。どうしてかなと考えても、感覚的に無理と言うほかない気がしていました。

 先日、皮膚について研究されている傳田光洋氏の本を読んで、なるほどと思うことがありました。ちょっとうろ覚えですが、それによると、類人猿の中で人間だけ体毛がほとんどないという普段見過ごされがちな事実から、人間が体毛を失っていった時期と人間の脳が巨大化していった時期が同じであるということに注目して独自の理論を展開されています。それは皮膚から入る膨大な情報を処理するために大きな脳が必要になったという説です。なんとなく、人間の健康を左右するのは「腸」という臓器であると聞いた時と同じ既視感がありますが、傳田氏は皮膚を「思考する臓器」と考えておられるようです。また、「コンピュータが人間の意識を持つことはない。なぜなら電脳空間には皮膚がないからだ」という趣旨のことも述べておられましたが、私がZOOMを使う気になれない理由としてこれほど腑に落ちた説明はありません。画像や音声は伝わっても、今のところ触ることはできない。中枢としての脳とは違い身体のあらゆるところを覆う皮膚が、人間史上では脳に先行するものであるという指摘には考えさせられるものがあります。


2021年8月28日土曜日

「紅春 186」


 8月下旬、帰省して台所でガサゴソやっていると、りくが起きてきました。こちらから起こすと寝ぼけてお漏らししてしまうことがあるので、最近は自然に起きるのを待つようにしています。やって来たりくは「あ、姉ちゃんだ」と私を認めましたが、これといったリアクションはありません。「りく、今日なんか感動薄くない?」と言ってみましたが、りくの中では様々な記憶が混ざり合って、私が家にいるのが日常と思ったのかも知れません。

 晴れた日にお風呂に入れた時も、さほど嫌がりませんでした。もう風呂桶に入れるのは無理なので、普段の格好のままさっと洗いましたが、りくはボーッと立ったままおとなしく洗われていて、騒ぎ出す前に終えることができました。楽と言えば楽ですが、これでいいとも思えません。

 今朝は散歩していて、いつものように草地をクンクン嗅いだ後、普通に歩き出そうとしてコロッとこけました。前の右脚がカクッとなって右脇腹を地面につけるように倒れたのですが、これには本人もびっくりしたようです。幸いケガはなく、いつも通り歩き始めたので安心しましたが、傾斜のある場所でもない平地でこんなことが起きたので、私も少なからず驚きました。やはり認知的なことも含め、いろいろな面で少しずつ弱ってきているのは否定できません。そのくせ本人は「散歩大好き!」なのですから、脚でも折ったら大変です。「ゆっくり気を付けて歩かないと・・・」と、大事に至る前に気づけて良かったと思いました。


2021年8月27日金曜日

「無知蒙昧を恥じる」

 コロナ問題を考えていて、厚労省の2020年の人口動態統計を調べたところ、5歳刻みの年齢別死亡原因が第1位から第5位まで載っているのに気づきました。この中にコロナによるものはありませんが、インフルエンザが死亡原因の第5位になっている2つの年代層がありました。1歳から4歳までと5歳から9歳までの子供たちです。合計で10万人当たり30人の死亡数なので、この年代の全体数がわかればインフルエンザによる死亡の実人数もおおよそわかります。少子化の進行が進んでいるので、1歳から9歳の子供の数はおそらく900万人に満たないとして、それでも2700人近くはインフルエンザで亡くなったことになります。季節性のインフルエンザは冬が流行の時期ですが、仮に10カ月で割ったとしても一日9人近い死亡者数です。これだけ10歳未満の子供が死んでいても、インフルエンザの場合それにフォーカスされなかったのです。今、私は不明を恥じています。

 さらに見ていくと、40歳から上の世代では、90歳~94歳の心疾患、95歳以上の老衰を除いて、死亡原因の第1位はすべて悪性新生物〈腫瘍〉だということがわかりますが、これは思った通りです。ところが、その間の世代、10歳から39歳までの死亡原因に目が釘付けになりました。この層の死亡原因の第一位がすべて「自殺」だったのです。思わず、文字通り腰が抜けた感じで、すとんと尻もちをついていました。なんと痛ましいことでしょう。まさしく、学校や社会で学んだり働いたりするど真ん中の世代でおびただしい数の人がじさつしているのです。ここにこの国の不幸が端的に示されています。コロナ問題など吹っ飛ぶほどの衝撃でした。

 しばらく呆然とするうち、頭に浮かんだのはなぜか『グレート・ギャツビー』の冒頭部分でした。

 In my younger and more vulnerable years my father gave me some advice that I've been turning over in my mind ever since.

 'Whenever you feel like criticizing anyone,' he told me, 'just remember that all the people in this world haven't had the advantages that you've had.'

 ぼくがまだ年若く、いまよりももっと傷つきやすい心を持っていた時分に、父がある忠告を与えてくれたけれど、爾来ぼくは、その忠告を、心の中でくりかえし反芻してきた。

「ひとを批判したいような気分が起きた場合にはだな」と、父は言うのである「この世の中の人がみんなおまえと同じようには恵まれているわけではないということを、ちょっと思いだしてみるのだ」 (野崎孝訳)

 「生まれる国や家庭を選べる人はいない」という、言い古された言葉がこれほど心に迫ったことはありません。どこにもセイフティ・ネットがなければ、まだ人生の基盤を築いていない、あまりに脆い年齢層の一部は、いつしか死に飲み込まれてしまうのでしょう。痛ましいというほかありません。この歳まで生きられて、そんなことも知らなかったとは、私は本当に大馬鹿者です。


2021年8月25日水曜日

「通院しながらコロナについて考えた」

  東京の新規感染者五千人超が続いた日、しかたなく眼科の通院に出かけました。2月に予約をキャンセルして取り直してもらったためもうキャンセルはできない。なにしろ10カ月ぶりなのです。今思えば2月の感染状況など可愛いものだったと思い返しつつ、このところ体調が良いので免疫力が上がっているこの時を逃す手はありません。実際、病院内に入る前の自動検温では平熱ながら高めの体温でした。自然治癒力は高まっているはず、今通院せずにいつするのかと、変な自信がありました。

 私の中ではこのところコロナ問題に関する考えが徐々に変わってきているのですが、その第一の理由は、厚労省の発表で「2020年の国内の総死亡数が前年より9373人減少した」ことを知ったことによります。何しろ日本では高齢化の進行に伴い、2010年から2019年まで10年連続で総死亡者数が増加、しかもこの間の増加幅は年平均約2万4千人であったというのに、コロナによって総死亡者が増えるどころか、9千人以上減ったというのは物凄いことではないでしょうか。

 インフルエンザの年間死亡者数はおよそ1万人と推計されているようですが、2021年8月24日のコロナに関する厚労省発表のデータでは、国内のこれまでの陽性者数は累積1,314,531人、死亡者数は累積15,656人です。これは2020年2月18日~2021年8月22日までの約1年半の累積数ですから、1年間のコロナ死亡者数はおよそ1万人強ということになり、インフルエンザと変わらないことになります。症状のあらわれ方は多少違えど、よく取り沙汰されるように感染症5類に分類されてもおかしくない弱毒性であることは確かです。さらに驚いたのは、私が知らなかっただけかもしれませんが、コロナの場合、報告を速やかに行うために「新型コロナウイルス感染症の検査陽性者が入院中や療養中に亡くなった場合、厳密な死因を問わずコロナによる死に計上する」旨の事務連絡が2020年6月18日に厚労省から出ていたことです。インフルエンザの場合にも、その流行の間接的な影響による死亡を考慮に入れる超過死亡概念により、死亡者数の推計が行われていますが、コロナの場合はかなり無茶苦茶なことになっているように私には思われます。これによると、他の疾病で入院・治療していた場合でもPCR検査で陽性となれば、亡くなった場合コロナにカウントされますし、さらに、コロナ感染を回避するための病院不受診や生活習慣の変化に伴う持病の悪化による死亡もコロナによる死亡にカウントされるというのは、随分変な話です。

 それにもかかわらず、コロナによる死亡者がインフルエンザ程度にすぎず、なおかつ前述したように、日本の昨年の総死亡者数が1万人近く減っているのです。これらの数字を冷静に考えれば、昨今の騒ぎはいかなることか、何か相当おかしなことが起きていると感じないわけにはいきません。この事実が意味することを誰もが噛みしめる必要があるでしょう。いずれにせよ、今は軽症どころかかなり重症とみられる場合でも入院先がない状態ですから、一般人がすべきことは、毎日の食事、睡眠、運動によって免疫力を上げておく、これしかないでしょう。そして、もはや症状が出ても放置されるかもしれないと腹を括って、食糧その他の備えをしておくことです。そう言えば、私はもう十年以上そうやって暮らしてきました。コロナに関しても、間違ってもお上に頼ろうとしないこと。頼りがいがないからではありません(それもあるけど)。自分の身は自分で守るという強い気持ちが感染症に打ち勝つカギになるだろうと思うからです。


2021年8月19日木曜日

「チャリンコ騒動」

 朝、いつも運動する公園に行こうとしてふと見たら、キーホルダーに自転車の鍵がない! 仰天して鍵探しを開始し、自転車置き場から玄関までを往復しましたが、見つかりません。朝の予定はキャンセルし、がっくり肩を落として家に戻りました。普通、スペアキーがあるではないかと思われそうですが、驚くなかれ、私の自転車は二十年来の代物なのです。全体に錆が出て、いかにも古くみすぼらしい。高さが調節できるサドルも一度ポロっと取れましたが、はめ直して金属用の強力接着剤で固定してあります。そう言えば、以前、自転車盗難防止キャンペーン中の警察官に声をかけられたのはあまりにボロい自転車だったせいなのかと、今頃になって合点がいきました。ネットで「自転車の鍵をなくしたら」を検索してみると自分にはできそうもない奥の手も紹介されていましたが、その他には「交番で鍵を開けてもらう」、「自転車屋で鍵を交換してもらう」という的外れの答えしか見つかりません。そこまで運ぶのが第一関門なのですから。結局、スペアキー探しに逆戻りです。

 これまで自転車を買い替えなかったことには理由があります。東京に出てくる時、田舎から持ってきた新品の変速自転車がほどなく盗難にあったのです。とても気に入っていた自転車だけに、あの時の失望と悲しみは何十年たっても忘れません。こういうのを心的外傷と言うのでしょう。私が盗人に対して非情なのはそのせいです。今思い出しても、せっかく買って持たせてくれた両親に申し訳ない気持ちでいっぱいになります。それ以来、新品の自転車には乗れなくなりました。「いや、それより今はスペアキーっ・・・」と、何十年も前の出来事を思い出してさえずーんと気が沈みかける自分を叱咤して、心当たりを探すことにしました。あれからスペアはどこへ行ったやら~。

 それから15分、「もしやこれでは?」と思われる鍵が2つ見つかりました。キーの番号が違うのでそれぞれ別の自転車の鍵らしいと分かりました。勇んでそのうちの1つを自転車ロックの鍵穴に入れると、回すまでもなく途中からポキント折れ、先端が鍵穴に残ってしまいました。「ひえー、もうだめかも」と思いつつ、部屋に取って返し、とげぬきを持参。中で変に曲がってはいなかったようで、何度か試すうち先端を取り出すことができました。ついで恐いもの知らずのようにもう一つの鍵を鍵穴に入れ、鍵に負担がかからぬようロックのつまみを指で押しながら回しました。「カチン!」と音がして開いた時には信じられないような気持ちでした。

 実を言うと、これまで何度か自転車を買い換えようかと思わなかった訳ではありません。しかし、古い自転車を捨てられないもう一つの理由は、昔の製品は万事がちゃちな今の物とは違い、本体が非常に頑丈にできていることです。満身創痍であってもまだ使える物は捨てられない。寿命を全うさせてあげたいという思いから、これまでもタイヤの交換等は適宜してきました。今はまず鍵を交換すること、それからついでにライトをLEDに換えてもらうこと(ライトは自分が見るためではなく、相手から見られるためにある)が必要と決めて、自転車屋さんへ。数時間前のことを考えれば、文字通りここまで来られたこと自体が夢のよう。自転車屋さんはものの10分で二つの作業を終了しました。疲れたけど、何はともあれ感謝! 時々こういう活が入るのも悪くないかも。


2021年8月13日金曜日

「免疫力を上げるには?」

  燎原の火のようにコロナ・ウイルスの感染者が広がっています。緊急事態宣言にお構いなく活動する人がいる一方、人員・医療品不足が深刻化する医療現場からの悲痛な叫びが聞こえています。6月に二度目のワクチン接種が済んでいるという高齢者が感染して亡くなったとの報道もあり、「自分の身は自分で守る」ことを改めて呼びかけられています。

 結局のところ感染症に対峙するには免疫力を上げるしかないのですが、これは普段の生活における「食事・睡眠・運動」を高いレベルに保つという地道な努力によって成し遂げられるものです。感染症にかかった人の多くが「だるい」という症状を意識しますが、これは血液中のリンパ球の数が減少していることを示しているのでしょう。この辛さはよくわかります。私の持病もだるさが半端ない病ですが、いつもリンパの値が大変低く、これまで努力の甲斐もなく改善が見られませんでした。

 コロナ以後は開院時間まで病院に入れないところも多いのではないかと思いますが、先日の通院でそれを忘れて早く着いてしまい、開院時間まで並んで立って待てるか心配だったのですが、比較的元気で乗り切れました。そう言えば最近、暑さにもかかわらず横になっている時間が減っている気がしていました。すると驚いたことに、その日の検査の結果ではリンパ球の値が急上昇していることがわかりました。「リンパ球が多いと体がこんなに楽なのか」という実感です。医者も不思議がっていましたが、私にも原因はわかりませんでした。これまでもできることは全部してみても改善はなかったのです。

①食事は野菜中心、大豆、卵、動物性タンパク質、乳製品をバランスよく摂り、発酵食品、海藻類、きのこ類、果物も欠かさない。主食はご飯(金芽米)、パンや麺類は一日一食までにする。

②早寝早起き、疲れたら休む、無理をしない。

③雨でなければ、早朝の公園までウォーキングを含め小一時間の運動をする。

 そうやってなんとか体調を維持してきたのですが、それでも画期的な変化はなかったのです。急にリンパ球の値が改善したわけはわかりませんが、まさかと思うことがあります。通院まで数週間ずっと、大好きな福島の桃ジュースと友達が手作りした美味しい梅ジュースを飲んでいたことです。熱中症対策の水分補給の一つとして、お茶やコーヒーと同じように飲んでいただけなのですが、何かそれまでとの違いを挙げるとしたらそれしか思い当たりません。多分偶然なのでしょうし、自分の体にいい物は一人一人違うのかもしれません。自分でも半信半疑ですが、相性のいい食べ物が見つかったのならうれしい。睡眠と運動はこれ以上変えようがないと思うので、今後も様子を見ながら、免疫力を上げる食事を探していけたらいいなと思いました。


2021年8月9日月曜日

「紅春 185」

 


 どこにも行けないような暑さが続き、りくと早朝の散歩をする以外は家にいる毎日です。8時にはすでに暑いのですが、まだ風の取り込みと扇風機でしのぎ、10時過ぎころから冷房を使っています。この冷房が電池を交換してもリモコンで調節できず、本体のスイッチを背伸びしながら押すと28℃の冷気だけは出るという代物で難儀しています。

 とはいえ真夏にはエアコンなしには過ごせず、スイッチを入れて一息ついていると、そのうち寝ていたりくが出ていきます。見に行くと、信じられないことに明らかに暑い廊下や隣室で寝ているのです。夏でも毛皮を着ているだけ犬の方が暑いと思うのですが、これはいったいどうしたことか。思い当たるのは一つしかありません。父に鍛えられたのです。徐々に分かったのですが、父は冷房や扇風機の風が嫌いで、自分一人の時は使っていなかったのです。私が帰省してスイッチを入れると、場所を移動したり「風の向き換えて」と言って、眉根を寄せて不機嫌そうでした。りくに選択権はありません。この父のもとで育ったりくは人間より暑さに強い犬になったとしか思えません。事実、りくが普段寝る場所は冷房の風が当たるところなので、最近そこを避けて寝ています。様々のことに対する動物の耐性は、きっと子どもの頃に養われるのでしょう。恐ろしいほどです。

 今年はりくを連れて遊びに行くのは無理かと思っていたのですが、ドライブくらいならということで出かけることになりました。りくが気配を察してあたふたと家の中を駆け回っている間に、お出かけ用の水筒や飲み物、カメラ、りくのトイレ用品を用意し、出発。「今日はクリニックじゃない」とわかるらしく、りくもうれしそう。以前のりくは車の中でも窓の外を見ようと動き回ったものでしたが、今ではだいぶおとなしくなりました。途中、山際を走る山形新幹線の車両が通り、絶好のシャッターチャンスがあったのですが、りくを膝の上で抱えているのでカメラを取り出せず、残念。目的地はやはりあづま運動公園の駐車場、オリンピックの野球の試合はないはずなのになぜか「許可証ありますか?」と聞かれ、「無い人は手前の方に止めてください」とのことでした。車をほんのちょっと降りただけでも暑いので、りくのトイレだけ済ませてすぐ退散。そのまますぐ帰ってきました。もともとドライブのつもりだったので、まあこれでよかったのです。帰りにコンビニで冷たい物を買い、家でゆっくりして、りくの夏休みは終わりました。



2021年8月7日土曜日

「虫屋さん」

  帰省して冷蔵庫を開けたら、昆虫ゼリーなる不気味な袋が入っていました。これから人口爆発時代の食料危機を救うのは昆虫と言われており、一瞬ぞっとしたのですが、「これ、なに?」と兄にきくとカブトムシのえさとのこと、胸をなでおろしました。虫が苦手という人は多いと思いますが、私もその一人です。子どもの頃は裏庭の杉の木の根元から地蜘蛛を捕まえたりできたのですが、もうまるで駄目です。写真に撮るくらいはできそうですが、傍で羽ばたかれたりすると「ひい~っ」と絶叫してしまいます。たぶん、都会の台所に時折出没するあの黒光りする忌まわしい虫を思い出すのでしょう。

 さてカブトムシはというと、角のある雄で、土手の橋のたもとを照らす街灯の下に落ちているのを猫から守るために拾い、虫用の透明の箱に入れて裏の小屋に置いてあるとのこと。兄は一匹では可哀そうと思い、雌を買って来たところ何故か入れておいた雄がいない・・・という話は帰省した日に聞いていました。その後、休日の午後、息せき切って兄が帰って来たので何かと思えば、水場のある自然公園まで車で行き、五十メートル先の林の樹にとまっている点を見つけ、「執念で採ってきた」と、カブトムシ2匹、クワガタ1匹を見せてくれました。私はというと、「テカテカと光る黒い冑の殻はやはり気味悪い」という気持ちと、「子どもの頃はカブトムシとクワガタは平気だった、どっちかというと好きだった」という気持ちで葛藤がありましたが、なんとか触れました。兄は「昔採れた所にはもういなくなった」と言っていたので、気候や環境の変化で虫の植生が変わっているのかも知れません。カブトムシは大き目のガムシロップのような容器に入った昆虫ゼリーを1日1個食べるそうで、いま冷蔵庫の一角をこの袋が占拠しています。

 もう一つ、小屋から兄が持ってきたのはキイロアシナガバチとコガタスズメバチの巣です。思わず「げえ~っ」という感じでしたが、前回の帰省時に自転車を出そうとしてハチの襲撃にあったことを伝えておいたので、退治してくれたのでしょう。私はたまたまカッパを来ていたので無事で、以後は蚊取り線香を炊いて様子を見ていたもののどうなったかと案じていたのです。ハチは両方とも天井に巣を作っており、小さな穴から殺虫剤を噴霧したらすーっとハチが落ちてきたそうです。標本のように紙にテープでとめられた2種のハチの死骸も見せられ、こちらは本当に「ひい~っ、無理!」というほかありませんでした。昆虫愛好家というのはそれ以外の人から見ると理解しがたいものがありますが、こんな近くに虫屋さんがいるとは思いませんでした。


2021年8月2日月曜日

「若い力に励まされ」

 オリンピックはほとんど念頭になかったのですが、帰省してテレビがあるとついつい見てしまいます。オリンピックに出るくらいなのですから、本人の努力はもちろんですが、天性の才能があり、周囲に支えてくれる人々がいる恵まれた若者たちなのだと思いつつ、勝っても負けても必ず感謝の気持ちを口にする真摯な姿勢に心打たれています。

 近頃の若い人は変わったなと思うところが一点あります。以前はぎりぎりの競った場面では日本は必ず負けるという印象があったのですが、最近は競り勝つことが多いと感じます。それは思うに、様々な競技において世界と闘った経験を持つ選手が増え、どっちに転ぶかわからない接戦を制する勝ち方を知っているためではないでしょうか。アスリートの身体にとって最大の脅威は間違いなく恐怖感でしょう。個々の技にしても相手の力にしても、失敗するのではないか、負けるのではないかと思って少しでも体がこわばると、途端にその通りになるのです。闘い慣れ、恐怖に耐性ができた身体は、迷いなく最高のパフォーマンスを保証してくれるに違いありません。

 さて昨夜は、普段ならとうに寝ている時間を超えて、29年ぶりの決勝トーナメントを決めた男子バレーの試合を最後まで見てしまいました。第三セットを惜しくも落としたところでがっくり来ましたが、選手は後がなくなり開き直ったのか第四セットを取り返し、メンタルで負けていないことを証明しました。15点先取で勝ちとなる第五セットについては、勝負は時の運としか言えませんが、これを制したのは本当にすごいことで、若い選手の成長の軌跡を見せてもらいました。テレビの前の若い方々にもこの試合が勇気となって届いていることを願っています。

 翻って社会の現状を見ると、どこもかしこも酷いとしか言えず、今50代以上の人は皆この現状に何らかの関わりがあるのですから、「申し訳ない」と謝るしかないとの思いが募ってきます。究極まで行き詰った現状を打破し、これからどのような社会を作っていくか、若い方々に任せた方がよいのではないかと、全然違うことを試合を見ながら考えていました。老齢の者は応援だけで力を使い果たし疲労困憊。唯一、頑固な頭の命ずるところでは「民族的慣習以外のタトゥーを入れている者は出場停止にすべし」ということです。何かで隠せるならそれでもいいですが、見たくないものを見せられる立場に立って考えてほしいです。