いや、驚きました。東京オリンピックのことが何もわからない。「えっ、確か7月開催じゃないの?」と、日本人は誰もが呆然としているはずです。個人の予定でさえ8月くらいまでの分は決まっているというのに、4年に一度の国際大会についてまだ何も決まっていないとは! 関係者は皆ババを引きたくないのかIOCの言いなりで、もはや誰の目にも明らかな事態を前に思考停止の様子見状態。国民は情けなさにうつむき、世界はあきれています。でも・・・・。
世界には本当に驚くほど様々な国があり、日本はどうしてこうも弱いのかと感じている人は多いでしょう。鵜の目鷹の目の猛禽類のカモにされ、押し売りや嫌なことを強要される。反知性的妄執と事実歪曲の言いふらしがお家芸の集団ヒステリーに小突き回される。ルール無用のハードパワーを背景に傍若無人の立ち居振る舞いで、お為ごかしの自己中に踏みにじられる・・・。日本は何をされてもじっと我慢の、まことに羊のごとく弱い国です。
なにゆえ、国々は騒ぎ立ち
人々はむなしく声をあげるのか。
(詩編 第二編一節)
こういった国々が常にトラブルの種を発掘し、それをビジネスにしようと無理難題を言ってくるのですからたまったものではありません。時々、「とても付き合いきれない」と疲れてしまい。鎖国して貧乏になってもいいんじゃないかと思うのは私だけでしょうか。ただ普通に静かに暮らしたいという人間は、こういう状況がほとほと嫌になり、引きこもりたくもなろうというものです。どうして穏やかに生きられないのでしょう。社会で人が生きるのに大事なものの筆頭はまず「信頼」でしょう。約束を守り、誠意と節度をもって対面することがなければ、親しい付き合いなどできません。現状では、まっとうな人が付き合ってはいけない人がいるのと同様、「付き合っちゃいけない国ってあるよな~」と思わざるを得ません。
「そだね~」は、平昌五輪でその愛らしさから一挙にお茶の間の話題をさらったカーリング女子日本代表の言葉ですが、LS北見の選手の銅メダル獲得以上に、あの天真爛漫な無条件の信頼感に接して人々は胸を突かれました。どんなことでも絶対に否定から入らない、まず相手の言うことを受け止めるという、かつて知っていたのに日常生活で忘れかけていた信頼の姿勢を思い出させられたとも言えましょう。こういったものは今の世界ではまずひとたまりもなくひねり潰される類のものでしょう。でもそれはまだかろうじて存在していたのです。
確かに日本はだめなところも多い。リーダーシップはとれる人も、はっきり物が言える人もいません。普通に見たらダメダメの国です。しかし、リーダーシップがとれてはっきり物が言える人がいた時は、ろくでもないことをしてきたことを日本人は知っているのではないでしょうか。そして、そのダメダメの国で未曽有の原発事故が起きた時、全電源喪失という暗黒の海に投げ出された原発村の現場指揮官は部下を束ねて最後まで踏ん張り、沈没船を捨てて逃げることはなかったことを日本人は知っているのではないでしょうか。津波ですべてを失った避難所で、名もない人々が互いに譲り合って過ごし、また、国中が困難な時期をいつも通りの治安の良さで協力しながら乗り切ったことは日本人が誇るべきことではないでしょうか。
年々きつくなる社会状況の中でたびたび陰鬱な事件が起こります。それでも日本人は信頼を基本に据えて、相手を思いやって生きようとしています。そうでなければ、忘れ物や落し物がちゃんと戻ってきたり、訪日外国人の多くがリピーターになるようなことはないでしょう。シンカンセンがなかなか外国に売れないのは、過密ダイヤを定時に運行できる芸当は勤労と相互信頼の賜物であり、一朝一夕にできるものではないことをどの国も知っているからではないでしょうか。
古来から日本の社会形成の要諦は、まず何をおいても「敵をつくらない」ことにありました。東にめだかの学校あれば、生徒も先生もみんなでお遊戯しており、西に我先にと豆を食べに来る鳩あれば、「みんなで仲良くたべにおいでね」と言い、南にカニの床屋あれば、春は早うから働いて(たぶん)チョキンに励み、北に冬場凍結する池あれば、どじょっこもふなっこも共々に、「天上こ張った」の「夜が明けた」のと、驚いたり喜んだりする。そうやって彼らは生きてきたのです。そういうところに私も住みたい。
日本は世界で最弱の国で、おかれた立場に大いに苦しんでいますが、恐らくそれでいいのです。なぜなら敵を作らないということこそ、文字通り「無敵」だからです。ふと、どこか全然別なところで同じ話を聞いたことを思い出しました。不思議なことにこれは、歴史や文明圏を全く異にする二千年前の中東に生きた人が記していることと同じです。初期のキリストの伝道者だったパウロは、持病の苦しみを取り去ってくれるよう、三度も神に願ってかなえられませんでした。
「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」
(口語訳聖書 コリント人への第二の手紙12章9節)
なるほどなあと、今まったく違った文脈で私はその言葉をかみしめています。