今から30年ほど前、ジャン・ジオノの『木を植えた男』(もしくは『木を植えた人』)という本が話題になりました。一人で黙々と植林した人物の行いは、確かに立派な行為であると思ったものの、心のどこかで当たり前のことが何故そんなに話題になるのか、腑に落ちませんでした。私が休日によく歩いた奥多摩の美しい山々はどこも手入れが行き届いた植林の山だったからです。あれがどれほど大変な作業だったか、今では想像がつきます。毎月帰省して手入れするごくわずかばかりの敷地の庭でも、帰って来ると草茫茫になった様子を見て、気持ちが萎えるほどですから。
森林は人間にとって、まず食料源、および居住空間や木造船などの移動手段を作る原料として重要でしたが、それにもまして、燃料という最初のエネルギー源として用いられるようになって、どんどん姿を消すようになりました。植林というメンテナンスがなされず、伐採されるだけだったため、元来森林が豊かだったパレスチナやギリシャはすっかり禿山、荒地となりました。二千数百年前に作られたソロモン神殿やフェニキア人の木造船にはレバノン杉が用いられ、それはまさしく富の象徴だったのです。日本でも植林がなされるようになったのは最近のことにすぎず、古代の都が奈良から京都に移ったのは、木の伐採が進んでもはや奈良ではエネルギー源が確保されなくなったことが大きな要因の一つだと言われています。
内閣府の将来推計人口によると、2060年に日本の人口は8,674万人になると予測されており、そのうちおよそ4割が65歳以上の高齢者です。これほどの人口減少と高齢化が予想されている中でコンパクト・シティ構想が出てくるのでしょうが、一方、郊外の里山や森林、山林はどうやって保持していくのかという問題は、あまり顧みられていないように思えます。
ところが、聞いて驚いたのですが、今現在日本の国土がどれくらいが本当に日本のものなのかわからないという、さらに仰天の大問題があるというのです。地籍がはっきりしていないことに加えて、土地の所有権の売買が個人間の取引で済んでしまうため、水源地を含む山林地帯や港湾をもつ地方の土地が大量に外国人の手に渡っていると言います。これは全く法律に則って行われているのですから、外国人を責めるわけにはいきませんが、一度外国に売られた土地はまず買い戻せません。そのうえ、外国人に限りませんが、所有者が転居しても届け出が義務付けられていないので、固定資産税の支払い請求書が転送されず、課税逃れが横行しているようです。こうなってくると実際に土地を所有しているのは誰かを突き止めるのは至難の業で、相手が日本に居住していない外国人であればなおさらでしょう。世界各国の土地制度は様々で、一片たりとも外国人には売らないという国もあれば、外国人が買える土地の種類や用途を厳密に規定している国がありますが、フリーパスというのは日本だけです。何百年も自国内で完結していた土地所有の意識が、社会の変貌、流動化についていけず、法整備が追い付いていないのです。さらに驚くのは、政府内や地方自治体の中に、「外国企業が地域おこしをしてくれて、経済的に潤っているのに、何か問題でも?」という意識の人が少なからずいて、ネットオークションで離島の販売もされているというのですから、恐ろしいことです。今や「40年後に果たして日本という国は存在しているのだろうか」と、他ならぬ外国人にまで心配されているのです。
もはや日本の消滅は人間が先か、国土が先かという様相を呈しています。ここで思い出すもう一冊の本は、フォレスト・カーターの『リトル・トリー』です。「トリー」がTreeのことだと知ったのは読んでからでしたが、これは自然と共存しながら、山に生きるチェロキー族の血を引く子どもの成長の記録です。子どもに自ら生きる力をつけさせるため、祖父母がとった見守りの教育は見事としか言いようがありません。ネイティブ・アメリカンは地中の虫さえ殺さぬよう熱湯を土に捨てたりしないと聞いたことがあります。まことに思慮深く知恵に富み、自然を敬う高潔な人々でしたが、結局開拓者に土地を奪われてしまいました。彼らにとって土地は生活の基盤、自然そのものであり、それゆえ「土地を所有する権利」という意味が理解できなかったのです。現代人とて空気や水といった自然の恵みを享受せずに生きられる人はいないのですから、土地の所有は或る意味矛盾であり、無意味なことだと思う人も少なくないはずです。しかし、世界の大方のルールが別なのであれば、何か抜本的な手を打たなければ、現在日本列島に住む人々もかつて北米に住んでいた原住民と同じ道を辿るほかないでしょう。40年後に自分はいませんが、日本人がネイティブ・ジャパニーズとして、使い出のない狭苦しい「居留区」に閉じ込められて、観光業で生きるほかない姿を想像したくありません。居留区だけではありません。その地に愛着を持って、自然を慈しみ、共存していこうとする強い意志なくしては、土地はあっという間に痩せた荒地になってしまうでしょう。自然や土地を換金物としか見ない人々が適切なメンテナンスを施したことはこれまでなかったのですから。世界中の、使い捨てにされ、放置され、荒廃した土地と土壌の歴史から多くを学ばなければならないと思います。津波で塩害があろうと、原発事故で放射能汚染があろうと、なんとかして健康な土壌を取り戻そうとする人々の努力を決して馬鹿にしたり、笑ったりしてはならないのです。