剣呑な時代になったとつくづく感じます。19世紀から20世紀にかけての帝国主義の時代もすさまじい時代でしたが、大国によるなりふり構わない領土的野心の実現を目指す動きを目の当たりにすれば、今この時も新たな帝国主義時代に入ったといってよいと思います。暴力的な動きは国家にとどまらず、人種や宗教の衣をまとった憎悪の表明により無辜の人々の命が失われています。現状を解説する多くの言葉が語られ、知らなければならないことがあるのも確かですが、氾濫する情報に、「所詮人の言葉だ。疲れる。」と外部の音を遮断することもあります。
聖書は世界で一番売れている本だと言われます。読む人それぞれに受け止め方は百人百様かもしれませんが、私がこの頃強く感じるのは、「これは人の言葉ではない。」ということです。もちろん人間に読めるよう、ヘブライ語なりギリシャ語なりで書かれていますが、人間にこんなことが語れるはずがないという言葉が全編を通して随所にあります。神から言葉を託された人がいて、その人は望むと望まざるとにかかわらずそれを語らないわけにはいかなかった、そういう言葉なのです。
獅子がほえる
誰が恐れずにいられよう。
主なる神が語られる
誰が預言せずにいられようか。
(アモス書3章8節)
最近あらためて気づいたのは、人の罪に染まった町ソドムを神が滅ぼそうとした時、アブラハムが示したとりなしです。アブラハムは「もし50人の正しい人がいても町を滅ぼすのですか。」と問うて、「正しい人が50人いたら町を滅ぼさない。」という答えを得ます。その後さらに、アブラハムの必死の食い下がりでこの人数は10人まで下がります。神がアブラハムとの度重なるやり取りの中で、アブラハムの提案を常に受け入れ10人まで譲歩したということは、「正しい者を悪い者とともに滅ぼさないでほしい。正義を行う方がそんなことをなさるはずがない。」というアブラハムの主張を認めたということでしょう。人はとかく人数の多寡で判断し町のほとんどが悪人ならば滅ぼされても仕方がないと考えるだろうと思いますが、正しい者のゆえに悪い者の多い町を許してほしいというアブラハムの主張を神がよしとしたということです。これは世界中で行われてきた空爆と全く逆の考えです。実際、空爆によって何か解決したことがあるかといえば、むしろ憎悪の連鎖を生み出し事態をいっそう悪くしただけでした。神というと、裁きの神の印象が強い気がしますが、ここで示されているのはむしろ赦しの神です。
わたしに尋ねようとしない者にも
わたしは、尋ね出される者となり
わたしを求めようとしない者にも
見いだされる者となった。
わたしの名を呼ばない民にも
わたしはここにいる、ここにいると言った。
(イザヤ書65章1節)
世界初のベストセラーはルターのドイツ語訳聖書だと聞いたことがあります。庶民が教会で聴くだけだった聖書が個人の所有になるとは驚天動地のことだったでしょう。その数十年前に発明されたグーテンベルクの活版印刷のおかげですこれがなければ宗教改革も成功しなかったかもしれません。。初めて自国語で書かれた聖書を手にした人々はどんな気持ちで読んだのだろうかと想像して、長い時の流れに胸を打たれます。折しも来年は宗教改革から500年です。