2016年8月30日火曜日

「コーヒーの結論」

 コーヒーは独特な飲み物です。焙煎した豆からそのうまさを抽出して飲み物にするのにこれほど情熱を注がれてきた飲み物があったでしょうか。とはいえ飲み物として抽出する調理法としては、「煮る」、「蒸す」、「浸す」、「注ぐ」あるいはそれらを組み合わせるくらいしかありません。

 おそらくコーヒー豆がとれる地域では古来様々なやり方で飲まれてきたのでしょうが、やはり近代コーヒー(こんな言い方があるのかどうか?)は、煮出してその上澄みを飲むという、真っ先に思いつく飲み方のトルココーヒーが始まりだったようです。とすれば、この飲み方ではあとは沈殿する豆殻をどうやって取り除くかという問題を解決するだけです。布を用いて濾したのがネルドリップで、これが18世紀初めにフランスで確立したらしい。

 これがその後、煮出すではなく上から熱湯を注ぐドリップ式へと発展したのが19世紀初頭のようです。やってみればわかりますが、煮出したものを布で濾すのは結構時間がかかるものです。何杯カ分が全部落ちる頃にはコーヒーは少し冷めてしまいます。熱湯であれば少しずつ注ぐことで煮出すのと同等のコクを引き出せますし、落ちも早い。また、その前に蒸すという時間をとることもできます。濾す部分にペーパードリップが開発されたのは意外にも20世紀に入ってからのことで、今はこれが一番簡便な方法として広く使われています。

 蒸気圧と気圧の差を利用して水を移動させ、二つの容器の間に濾過布を置いたのがサイフォンで、諸説あるようですがこれは1830年代にドイツで考案されたようです。ドリップ式では、まずコーヒー粉を蒸すという時間が大事な「要素ですが、サイフォンの場合これがある程度自動でできる、液体が下の容器に落ちるのは重力の法則としても、気圧差を利用して水が行き来してコーヒーが出来上がる過程は抽出されたコーヒーのうまさに視覚的な驚きを伴ったすばらしいものだと思います。コーヒー好きの科学者が考えついたのかと想像すると楽しくなります。 エスプレッソマシーンは20世紀に入ってからイタリアで、開発されました。本当のコーヒー好きはエスプレッソが最高だと言うようですが、これは好みの分かれるところです。私はちょっと苦手です。言い忘れていましたが、例のトルココーヒーの発展形としてのフレンチプレス式コーヒーの豆殻除去の課題は、濾過するフィルター部分にサイフォンの濾過布をつけるという方法で一応解決しました。短時間で淹れるコーヒーとしては悪くないです。ただ、どこまでも澄んだ液体をご所望の向きには若干不満が残るかもしれません。

 あとは温度の問題ですね。ドリップ式なら95度がおいしいとか、水出しコーヒーはまろやかに仕上がるとか、いや60度で淹れて急冷するのはもっとおいしいとか、いろんな人がいろんなことを言っています。味覚はそれぞれですから、コーヒーに関して「これが一番うまい。」とは言えないでしょうが、あえて言うならやはり熱を加えるというのは文明の第一歩だという気がします。個人的には総合的な観点からサイフォンが一番というのが私の結論です。時間のない時は無理ですけど。


2016年8月26日金曜日

「平和の可能性」

 私は安倍内閣の御用放送局と成り果てたNHKに期待することはもう何もないのですが、今年の終戦記念日のNHKスペシャルは期待していなかっただけに秀作だと感じ、まだこのような番組を作る力があったのかと少々見直した次第です。今年の放送は、8月14日が「村人は満州へ送られた~“国策”71年目の真実~」で、8月15日は「ふたりの贖罪(しょくざい)~日本とアメリカ・憎しみを越えて~」でした。前者は、国策に翻弄されて村人を満蒙開拓団に送って戦死や集団自決の悲劇を生んだ自責の念から後に自殺した旧河野村(現豊丘村)の元村長、胡桃沢盛の日記を扱ったもの、後者は、太平洋戦争で相手国を憎みぬいた日米の軍人(真珠湾攻撃の総指揮官淵田美津雄と名古屋大空襲を実行したアメリカ陸軍航空隊のジェイコブ・ディシェイザー)が終戦後いかにして憎しみから解放されたかという軌跡を扱ったものでした。

 前者について、これが今現在も形を変えながら日本中の役所や企業や学校や病院で見られる構図であることは一度でも勤めたことがある人なら深く同意するでしょう。ということは、ひとたびまた戦争という方向に向かう時には同じことが起こるということです。

 後者について私が思い出すのは、「アメリカ社会でキリスト者として生きるということはエイリアンとして生きるということだ。」と語ったあるアメリカ人の言葉です。そうだろうと思います。市民社会において銃の所持が権利として認められ、国際社会では世界最大の軍事力を保持し正義の名のもとに他国の市民の頭上に爆弾を雨あられと降らしてきた国なのですから。そういう中にあって「キリスト教」ではなく「キリスト」を信じていきるとすればエイリアンにならざるを得ないでしょう。私は以前「日本のクリスチャン」について、人口の1%に満たないというのは案外妥当な数字かもしれないと書きましたが、真にキリストの平和を求めて生きるアメリカ人もきっと数的にはそんなものだろうと思うのです。

 今回の放送では、相手国の国民をできるだけ多く殺したいと思っていた二人が、同じイエスの言葉(「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」)に出会うことにより自分の罪を認めるに至った経緯が描かれていました。昨年の安保法案反対運動を牽引した学生団体SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)の少なくとも何人かはクリスチャンもしくはその周辺の人でした。確かめたわけではありませんがスピーチを聞けば分かります。また、8月15日の解散時に出されたwebページには不正と暴虐が満ちる世界で自由と民主主義そして平和を希求する人間像が全編にわたって描かれており、一瞬でしたがキング牧師のワシントン大行進の映像も挿入されていました。

 神の支配による完全な平和を神の国とするなら、「神の国はいつくるのか」という問いに対してイエスは、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書17章20~21節)と答えています、その少し前で、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」と「イエスは言っているのですから、まさにこのような、赦し赦されるということが実現している人間関係こそ、神の国なのだと語ったことになるのでしょう。人間にとって最も難しいことの1つは自分に対して罪を犯した人を許すということですが、様々な人間的弱さや限界があっても、キリスト・イエスを仲介とする時にのみそれが起こりうるのです。今回の放送でその可能性を描いたことに、NHKの一片の良心を見た気がします。

2016年8月25日木曜日

「紅春 92」

 今年の夏は異常に暑く、何もできずにりくとだらだらと、リオ・オリンピックを見ることが多かったです。普段は』スポーツにさほど関心があるわけでもないのに、さすがに世界最高峰の身体技法や技はすごい。日々の鍛錬や最後の1秒まであきらめない精神力も見習うべきことがありました。とはいえ、家でりくとできるのはレスリングくらい。

「りく、姉ちゃんとレスリングね。後ろ取られた方が負けね。」
キャーキャー。クルクル、グルグル。
「りく、伸身ユルチェンコ3回半ひねり。それ、体操でしょ。」
ドッタン、バッタン、ドッタン、バッタン。ゴロ~ン。
「りく、スキありすぎー。両肩をつけます。・・・姉ちゃんのっフォール勝ち、りくの負けー。」

ひとしきり遊んだあとは夏の定番、お昼寝です。

「雑草とのバトル」

 雑草魂という言葉はしぶとい生命力を示すどちらかというとプラスの表現だと思うのですが、最近私はそんな好意的な使い方ができないような状況になっています。二週間ぶりに帰省すると、前回も草むしりをかなりやっていったはずなのに、もう新しいのが生えている。前回見逃した草はかなりの高さに育っている、といった信じられない光景が目の前にあるのです。隣は空き家なので庭は草ぼうぼうですが、いつもりくをつないでおく隣家との境は草を抜いています。藪蚊の温床となるからです。他のところはもう人間の高さくらいまで草が伸びており、草はどこまでも成長が許されれば木になるのだということを知りました。

 毎朝すこしずつ草むしりをしていますが、小さいのが次々生えるので減っている気がしません。何か邪悪なものに支配されつつあるような様相を呈しています。人の罪もこのようなものではないかと考えさせられます。いったんきれいにされたようでも、また次々に小さい罪が顔を出す・・・。罪の力は本当に強い。

 河原に出るとさらに恐ろしい光景が広がっています。きれいにせいびされているところはよいのですが、人の背の高さをとうに超えたイタドリの木が両側に茂っているところもあります。しかしそれを凌ぐ姿を見せているのが蔓科の植物。あらゆる植物の上に覆いかぶさって伸びていく蔓の生命力は半端ではありません。河原の国盗り物語は蔓科の種族に軍配が上がるだろうと予想しています。もうすでに恐ろしい勢いで土手の方まで増殖しりくの散歩道を脅かしています。

 家の垣根も父が植えていたアケビの蔓に覆われかけましたが、蔓にだって弱点はあります。根元を断つのです。アケビの蔓は完全に太い樹になっていましたが、ジャックと豆の木よろしく斧ならぬのこぎりで切り落としました。邪悪な力に負けるものかと、雑草と戦う毎日です。


「人の言葉、神の言葉」

剣呑な時代になったとつくづく感じます。19世紀から20世紀にかけての帝国主義の時代もすさまじい時代でしたが、大国によるなりふり構わない領土的野心の実現を目指す動きを目の当たりにすれば、今この時も新たな帝国主義時代に入ったといってよいと思います。暴力的な動きは国家にとどまらず、人種や宗教の衣をまとった憎悪の表明により無辜の人々の命が失われています。現状を解説する多くの言葉が語られ、知らなければならないことがあるのも確かですが、氾濫する情報に、「所詮人の言葉だ。疲れる。」と外部の音を遮断することもあります。

 聖書は世界で一番売れている本だと言われます。読む人それぞれに受け止め方は百人百様かもしれませんが、私がこの頃強く感じるのは、「これは人の言葉ではない。」ということです。もちろん人間に読めるよう、ヘブライ語なりギリシャ語なりで書かれていますが、人間にこんなことが語れるはずがないという言葉が全編を通して随所にあります。神から言葉を託された人がいて、その人は望むと望まざるとにかかわらずそれを語らないわけにはいかなかった、そういう言葉なのです。

獅子がほえる
誰が恐れずにいられよう。
主なる神が語られる
誰が預言せずにいられようか。
    (アモス書3章8節)

最近あらためて気づいたのは、人の罪に染まった町ソドムを神が滅ぼそうとした時、アブラハムが示したとりなしです。アブラハムは「もし50人の正しい人がいても町を滅ぼすのですか。」と問うて、「正しい人が50人いたら町を滅ぼさない。」という答えを得ます。その後さらに、アブラハムの必死の食い下がりでこの人数は10人まで下がります。神がアブラハムとの度重なるやり取りの中で、アブラハムの提案を常に受け入れ10人まで譲歩したということは、「正しい者を悪い者とともに滅ぼさないでほしい。正義を行う方がそんなことをなさるはずがない。」というアブラハムの主張を認めたということでしょう。人はとかく人数の多寡で判断し町のほとんどが悪人ならば滅ぼされても仕方がないと考えるだろうと思いますが、正しい者のゆえに悪い者の多い町を許してほしいというアブラハムの主張を神がよしとしたということです。これは世界中で行われてきた空爆と全く逆の考えです。実際、空爆によって何か解決したことがあるかといえば、むしろ憎悪の連鎖を生み出し事態をいっそう悪くしただけでした。神というと、裁きの神の印象が強い気がしますが、ここで示されているのはむしろ赦しの神です。

わたしに尋ねようとしない者にも
わたしは、尋ね出される者となり
わたしを求めようとしない者にも
見いだされる者となった。
わたしの名を呼ばない民にも
わたしはここにいる、ここにいると言った。
         (イザヤ書65章1節)

 世界初のベストセラーはルターのドイツ語訳聖書だと聞いたことがあります。庶民が教会で聴くだけだった聖書が個人の所有になるとは驚天動地のことだったでしょう。その数十年前に発明されたグーテンベルクの活版印刷のおかげですこれがなければ宗教改革も成功しなかったかもしれません。。初めて自国語で書かれた聖書を手にした人々はどんな気持ちで読んだのだろうかと想像して、長い時の流れに胸を打たれます。折しも来年は宗教改革から500年です。

2016年8月17日水曜日

「帰省の高速バス」

 8月は混雑するお盆の時期を避けて早めに帰省するのが常でしたが、今年は事情でど真ん中の15日になってしまいました。その日乗ったバスの運転手さんは、ひょっとしたら引退された方が頼まれて乗務したのではないかと思いました。とても慣れた感じで、上機嫌に様々な説明を適宜いれてくれるのですが、こんなによくしゃべる運転手さんは初めてだと思うくらい快活な方でした。独り言や営業所とのやりとりの全てがあからさまにわかるので、退屈しないというか、とにかく人間味あふれる方でした。一部紹介すると、
「まもなく那須高原サービスエリアで休憩をとります。・・・・この時期、駐車場が渋滞で、いや違う、混雑で大型車の場所に乗用車が止まっていることがあり・・・あ、あそこのパイロンが・・・大丈夫だな、ちょっとどかしてきます。・・・・では集合時間は○時○分です。バスの外に出られる際はお足下、いや違う、すれ違う車にお気を付けください。」
バスに戻ると営業所と連絡をっている声がマイクを切っていないため筒抜けになっています。
「新宿34名、王子4名。・・・はい、えっーと、西郷7名、須賀川9名、郡山14名・・・」
ここで乗車と降車の人数を連絡していたとは今まで知らなかったな。話のところどころに個人的な会話も入るらしく楽しそうです。

 この休憩時に乗客から、何かカタカタという音が聞こえるという知らせが入ったようで、
「どこらへんですか。・・・・ここは大丈夫だし・・・音が出るようなものは・・・・。」
結局、荷物入れの箱を止めるロックをしていなかったことが原因だったというアナウンスが入った時は吹き出しそうになりました。その後も、渋滞による到着時間の予想やこれまでの忘れ物の例などを紹介しながら同じ感じで時が過ぎ、どんどん乗客は降りて行きます。終点1つ前の福島西インターでは、
「先ほど会社からの電話を取りそびれてしまいました。ちょっとかけさせていただきます。・・・はい、今ですね、西インターです。」
「もうすこ~しですね。がんばってください。」
マイクを切っていないため、営業所からの熱いエールもばっちり聞こえ、またもや吹き出しそうになりました。気持ちはよくわかる。仕事の終了まであと少しなのです。そんなわけで、会社の内情というのはなかなかわからないものですが、今回のことでとても人間関係のよいバス会社だと感じて安心したというのが大きな収穫でした。(ちなみに私はいつもJRバスを利用しています。) 運転手さん、お疲れ様でした。

2016年8月8日月曜日

「現実に架橋するゲーム」

 先日、友人と会う機会があって都バスの旅をしました。9時集合でしたが、聞けば朝6時半に家を出たとのこと。普通に電車で来れば待ち合わせ場所まで20分もかからないはず。友人は「途中まで歩いて一駅だけ電車に乗った。」とうれしそうに言いました。ポケモンgoをしながらきたのです。
「何匹捕まえたの。」
と訊くと、配信された直後の土・日で25キロ歩いて250匹とのこと、いや~驚きました。25キロを嬉々として歩けるのですから、人間の意欲と言うのは本当にすごいものです。

 スマホの画面を見ながら、近くにいるモンスターにボールを投げて捕獲するというのが一般的なルールのようですが、ボールがなくなったらポケストップで手に入れられるとか、新宿御苑にはピカチュウがいるとか、アジアにしかいないモンスターもいるとかいろいろ工夫されています。都バスの中でもできるので歩かずしてモンスターと遭遇でき、「これは楽だ。」と友人は言っていました。しかし卵を孵化させるには5キロ歩かなければならないらしく、孵化の瞬間を見せてもらったら確かにとても可愛くて、元々ポケモンに愛着を感じている人ならぜひやってみたくなるのも納得です。

 それを如実に表しているのはひきこもりだった方々かもしれません。ひきこもるという状態はそもそも外界(特に人間社会)と接触したくないことに端を発しているのですが、本当は外に出たいと思っている場合、「とりあえず楽しく一人でできて、みんなと同じ状態で外に出られる」というこのコンセプトに乗らない手はありません。このキャラクターが好きでどうしてもやってみたい気持ちがひきこもりたい気持ちに勝り、「やってみて楽しかった」と思えるなら次につながる展開もあるでしょう。これ以外にひきこもりの方々を引っ張り出す方法はなかなか思いつきません。この手のヴァーチャルゲームで私が最後にやったのはたまごっちでした。母にもあげたら真剣に世話してましたね。でもあれは家の中でもできるものでしたから、ヴァーチャルな世界と現実の世界を結び付けたという点でこのゲームは画期的だったと言えるでしょう。あとはとにかく事故に注意、なにしろ歩きスマホが基本のゲームですから。友人は「大人として課金はしない。」とも言っていました。凄惨な事件があった頃だっただけにちょっと平和な話題でほっとしました。少なくとも夏休みの間はこのゲームは流行るでしょう。努力してモンスターをコツコツ集めていくのは、一種の昆虫採集のようなものかもしれません。


2016年8月5日金曜日

「紅春 91」

夏はりくにとって受難の季節です。下毛が薄くなったとはいえダブルコートなのですから、暑くてどうしようもありません。まだ1才にならない初めての夏、夕方5時頃散歩に行きたいというので連れて出てみたら、過呼吸を起こして即抱っこして帰り、冷房の風でなんとか回復したということがあったのです。私が在宅の時はいいのですが、そうでない時兄は誰もいない時にとんでもない事態にならぬよう、りくのためだけに茶の間の冷房をかけて仕事に出かけるそうです。部屋が涼しいとりくは外も涼しいと勘違いして散歩に行きたがりますが、盛夏の今は夕方6時でも「まだ暑くて行けないからね。」と言い聞かせなければなりません。

 りくの大敵はほかにもいます。散歩から帰るとしばらく外に置き、ある程度満足させてから家に入れますが、この時は蚊取り線香を焚いてやります。風向きもあるのでどれほど効果があるかわかりませんが、一応気休めです。あの煙自体は犬にとってもよくないのでしょうが、外で遊ぶ時の決まりごとと思っているのか、嫌がることはないようです。


2016年8月2日火曜日

「お湯を沸かす」

 昔の人の生活は朝起きてお湯を沸かすところから一日が始まったのだと思います。父もそうでしたので、私が帰省して父より早く起きるときは同じようにしていました。いつの頃からかこの習慣は日本から徐々になくなっていったのでしょう。家族の人数が減り、個々に分かれて住むようになってからポットにお湯を保温しておくのが不経済になってきたのです。必要なときに必要な分だけお湯を沸かすことが普通になってきました。また、私もそうですが、お茶ではなくコーヒーを日常的に飲む人には、手で丁寧に淹れる場合は別にして、エスプレッソは無論のことドリップ式にしてもサイフォン式にしても、それ専用の機器があるためお湯を沸かす必要がないのです。些細なことですが、日常の生活様式はいつのまにかかなり変わったのです。

 先日、これまで使っていたサイフォンの寿命が来て、新しいのをいろいろ調べているうち、フレンチプレス式なるコーヒーの淹れ方があることがわかりました。てっきり筒状のティーポットだと思っていたのですが、耐熱ガラスに挽いたコーヒー粉を入れ熱湯を注いでしばらく置き、フィルターのついた金属棒を押し下げて豆殻を濾すようです。コーヒーが国民飲料のようなドイツでも一度も見たことのない代物でしたが、新しいコーヒーの淹れ方となれば試してみないわけにはいきません。ごくシンプルな淹れ方ながら日本でもドイツでも浸透していないのには何かわけがあるのかもしれないと思いつつ、器具を購入してやってみることにしました。しかしこの方法では飲むたびにお湯を沸かす必要がでてきます。

 お湯を沸かすと言えば自宅ではやかんで沸かすしかありませんが、今はこの暑さ、ガスを使うのはできるだけ控えたい。「電気ケトルが一つあってもいいかもな。」と思い、ついでに買うことにしました。電気湯沸しと言えば、「あっという間にすぐに沸く」のT社が有名ですが、内側がステンレスのものを探してP社に決定。0,8リットルは十分な容量、丸っこいやかん型ではなく寸胴の魔法瓶型、直径とほぼ同じ広口の取り外せる上蓋、本体を載せるコード付き円盤、沸騰時自動電源オフ、空焚き防止機能付きと、大変よくできた製品です。さっそくカップ1杯分のお湯を沸かしてみたら、高速70秒でとても便利。早すぎてコーヒーの準備が追いつかないくらいでした。食材の下ごしらえとか、即席の味噌汁、インスタント食品にも重宝しそうです。

 肝心のフレンチプレスコーヒーについてはまだ結論が出せません。味はなかなかよいのですが、フィルターではコーヒー粉を完全に濾せず、ドリップ式のつもりで飲むとかなり違和感があります。ハンガリーで何度か試したトルココーヒー(粉というより細かい豆殻が沈むのを待って上澄みを飲む)ほどではないにせよ、やはりあの粉の沈殿はなんとかしなければなりません。いずれにしても新しいコーヒーの淹れ方があれば懲りずに挑戦するつもりです。