6月22日の内田樹のブログに、「大学のグローバル化が日本を滅ぼす」と書かれていましたが、これが掲載された媒体が今年度の『大学ランキング』の「グローバル化」の項目であることを考えると、このような或る種自傷的な内容を雑誌が甘んじて掲載するほど大学は切羽詰っているのかと、あらためて知らされました。だいたいの趣旨は以下の通りです。
いま各大学は自学の価値を上げ文部科学省から補助金をもらうために、グローバル化を推進することが必須となっている。そのグローバル化なるものの指標は、「①留学生派遣数、②外国人留学生受け入れ数、③外国人教員数、④英語による授業数、⑤海外提携校数、⑥TOEFL目標スコアなどすべて数値的に示されるもの」であり、この合計値によって日本中の750大学の「グローバル度進捗ランキング」で1位から750位まで格付けされる。
文部科学省が、大学の教育研究の質の間にどのような相関があるのか示しもしないこの数値によって大学を格付けする理由は、大学淘汰を加速するためである。大学が増えすぎてもはや高等教育の体をなしていないところもあり削減したいのだが、これが国民の就学機会を減少させる」ことになるのは紛れもない事実であり、それはそもそもの「学校設置目的そのものを否定することになる。」また、高等教育を受ける資格のない学生が大量に存在し、その受け皿となっている大学も多数あるという事実は、「過去数十年の文科省の教育政策が根本的に間違っていたということを認めるに等しい。」
そのため、「『「グローバル化度』が『大学の質を表示する数値』であるという偽りの信憑を振りまくことで、『要らない大学』を淘汰することへの国民的合意をとりつけ、かつ教育行政の歴史的失敗を糊塗すること、これが『グローバル化』なるものの実相だ」と筆者は見ているのです。そして、国民の就学機会を実質的に減らすことには何ら明るい見通しはないものの、失敗を隠蔽するために「全国の大学に向かって自殺的な教育プログラムの実施を要請しているのだ」と述べています。
「グローバル化のスコアを上げるために1年間の留学を義務付ける大学が増えている」が、これすなわち教育の外部委託であり、突き詰めれば1年間と言わず4年間留学させ、本校が担うのはその事務手続きだけにすれば、人件費や設備費の削減と言う観点から一番効率的な大学運営方法になるであろうと、筆者は揶揄しています。
ここから先が、私には非常に共感することなのですが、「日本語で最先端の高等教育が受けられる環境を100年かけて作り上げたあげくに、なぜ外国語で教育を受ける環境に戻さなければいけないのか。僕には理由がわかりません。」 まったく同感で、私にもさっぱり理解できません。明治以来、日本の学問は翻訳という知的作業と切っても切れない関係にありました。元々ない概念を自分たちの知的枠組みに移し替えることが、日本の学問の中心的課題の一つでした。母語で研究できるという恩恵はとてつもないアドバンテージであり、しばしばとんでもないブレークスルーをもたらすからです。事実、そうやって日本の学問は世界に恥じない研究結果を残してきたのだと思います。「公用語として外国語使用を強いられた旧植民地からいったい何人のノーベル賞受賞者が出たか。」と筆者は述べています。内田樹は最後を、「大学のグルーバル化は国民の知的向上にとっては自殺行為です。日本の教育を守り抜くために、『グローバル化なんかしない、助成金なんか要らない』と建学の理念を掲げ、個性的な教育方法を手放さない、胆力のある大学人が出てくることを僕は願っています。」という文で締めくくっていますが、この悲壮な叫びが補助金獲得に躍起になっている大学人にどれだけ届くのか、本当にやるせない気持ちです。
私たちが子供の頃読んだ外国の本はどれをとってもすべて翻訳でした。誰もがそれを読んで際限もなく想像の翼を広げ、まだ見ぬ外国に憧れたはずです。大人になってからも、翻訳によらずしてはアクセスできない本はいくらでもありました。今、大学にかつてと同じ様相や規模を保って、仏文科や独文科があるのかどうか知りませんが、こういう、どう考えてもカネになりそうもない分野がしぼんでいき、翻訳という仕事が何か二流の作業のように扱われれば、翻訳による以外そのような世界にアクセスする手立てを持たない人々も確実に減っていくでしょう。それは日本にとって大きな損失だと私は思います。
問題は英語です。こちらは現在、表面的には原語で読み書きできるという潮流ができつつあるので、それこそ英文科の存在意義を疑問視する人は多いでしょう。しかし世界中どこに行こうと英語で困ることはない人がいる一方で、TOEICのスコアを引き合いに出すまでもなく、翻訳を必要とする多くの人が依然として国内に存在するのも確かです。また、海外で活躍する人は何をもって自己のアドバンテージとするのかが大きな課題でしょう。
大学のグローバル化が進めば今の日本語に加えて英語ができるようになると考えるなら、それはあまりにナイーブな予測というべきでしょう。当然言語状況は変わらざるを得ない、高等教育レベルの知が母語によってもたらされることのない事態が続けば、それは日本語を際限もなくやせ細らせ、空洞化させる方向にならざるを得ません。大学のグローバル化は今手にしている日本語にプラスして英語を上達させるようなものではなく、今ある国語をとりかえしのつかない仕方で破壊しながら何を得られるのかという二者択一的な問題だというべきです。明治以来の教育に関しては、「学問のすゝめ」を読んで皆がそれぞれ自己利益のために勉強したようでありながら、一方で明らかに国家的プロジェクトとして西洋文明の膨大な翻訳事業が行われていました。それは、この両者が切迫した不可分の課題であることを日本人が無意識的にであれ察知していたということにほかなりません。明治期の日本人は類的存亡をかけてそれを成し遂げたのです。このあたりの事情は十分よく検証する必要があり、ゆめゆめ翻訳という研究事業を侮ることなく、今後ますます予想される困難な事態に対処すべきだと思います。