2016年7月9日土曜日

「長い旅路の果てに」

  年を重ねて生きているうち、これまで忙しさにかまけて通り過ぎてしまったいくつかの事柄が心に引っ掛かっていることに気づきました。そのことに向き合わなければならないと思うようになり、少しずつ心当たりを当たってみることにしました。具体的にはある時から連絡の取れなくなってしまった同級生を探すことだったのですが、最初の手がかりによって辿り着いた別の同窓生からその友人がすでに亡くなっていたことを知らされました。

 彼女は中学・高校時代一緒に多くの時間を過ごしたとても仲の良い友達で、教会にも時々来ていました。大人になってからも年賀状のやりとりはあったのですが、それがそのまま返送されるという形で途絶えてから20年ほどたった気がしていました。多忙であったことは確かですが、連絡が絶たれたことで私を避けているのではないかとの疑念が生じ、彼女をさがすことができずこの日まで来たのです。またその頃はさがす手立てもありませんでした。

 本腰を入れて彼女をさがそうと思った理由はもう一つありました。もう一人の友人が40年ぶりの同窓会のために彼女をさがしていることを知ったからです。よく話を聴くと、大学時代に彼女にひどいことを言ってしまい会って謝りたいとのことでした。30年間後悔してきたというのを聞けば、やはり見つけて謝らせてやらなければと思ったのです。どちらも私の大事な友達なのです。

 彼女をさがす企てはその後ご家族とお墓をさがす企てに変わりましたが、なかなかうまくいかず何度も頓挫しかけました。取っ掛かりになった同窓生は、中学の頃はまったく予想もしなかったことですがなんとクリスチャンになっており、それには大変驚かされました。彼にもらった情報をたどっていって行き当たった方からお話が聴けたのですが、それはさらに驚くべきものでした。その方は教会で行われた彼女の葬儀に出席したというのです。「彼女は洗礼を受けていたのですか。」とお聞きすると、「受けていたと思う。」との返事。心臓が早鐘を打ち始めましたが、にわかには信じられない気持ちでした。教会名を伺いその足ですぐにその教会に向かいました。

 突然の訪問にもかかわらず牧師先生ご夫妻は親身になって私の話を聴いて対応してくださいました。葬儀は十年前に行われ、それよりさらに十年ほど前に彼女が間違いなくその教会で受洗していることをお聴きしました。私は安堵感から体中の力が抜けました。その後に、彼女のことをよく知る信徒の方からもお話が聴けましたが、その話に私は驚愕するほかありませんでした。彼女は受洗のことをご家族にも言っていなかったと知り、ご家族はキリスト教に理解のない方々ではなかったことを考えると、これは腑に落ちないことでした。彼女の葬儀が教会で行われたのは、彼女の携帯を見たご家族が電話帳の「1番」のところに教会名があったため、教会に連絡をとったのがすべての始まりだったのです。一言でも受洗について知っていたなら、私もどれほどうれしく安心だったことかと思いますが、なんらかの理由で、彼女は周囲の人にそれを告げなかったのです。しかし、最期の時、彼女はご家族を教会へ結び付け、私もこうしてここへたどり着くことができました。何年か後に、ご家族もその教会で受洗されて教会員になられたと聞いた時には大きな衝撃を受けました。誰がこんな結末を想像しえたでしょう、神様はこんな恵みを用意されていたのだ、と。私の長い旅路も終わりました。

 彼女をさがしていたもう一人の友人は、彼女の死を知った時、「もう会って謝ることができない。」と嘆きました。その時はまだ彼女の受洗を知る前でしたが、私は「もうあなたのことを許していると思う。」と彼女に言いました。彼女のさばさばした性格からそう告げたのですが、彼女がキリスト者となっていたことを知った今は、友人を赦していたことを間違いのない確実なこととして断言できます。キリスト者は赦すから赦され、キリストの救いにあずかって永遠の命に入れられるのですから。

 連絡がとれなくなって20年と思っていたのは実際は10年であったことは、家に帰って古い年賀状を整理してわかりました。それだけ私の悲しみは深かったのです。ずっと心の重荷になっていたのです。神様が深い憐れみをもって私の叫びに耳を傾けていてくださったことを私は知りました。私は彼女とのつながりが深かったのに、また彼女は別のクリスチャンの同窓生とも出会っていたのに、彼女をイエス様のもとに引き寄せることができなかったことに無力感と深い悲しみを感じていたのです。私は彼女がどこへ行ってしまったのか、どこにいるのかがわからないことに苦しんできたのですが、今は彼女がどこにいるのかはっきりわかるので、私の心は安らかです。彼女は
「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない(ヨハネの黙示録21章4節)」ところにいるのです。それらがもう過ぎ去ったところに彼女は憩っているのです。私の悲嘆はもう二度と彼女に会えないということでしたが、そうではなかった、来るべき日に再び天国で会えることがわかったのです。もう何の心配もありません。今、私の心は平安に満たされています。