2016年7月18日月曜日

「沖縄と福島」

 八月が近づくといやでも平和をめぐる戦後の歩みと現在おかれている世界状況を考えないわけにはいかず、暗澹たる気持ちになります。いやでもというのは本音で、筆舌に尽くしがたい悲惨な沖縄戦や戦後の米軍統治期からこれまでの沖縄の歴史などできれば考えたくないのです。しかしあれこれ考えると、飛躍するようですが、やっぱり東日本大震災は意味なく起きたものではないのかもしれないという気もしてきます。私たちは沖縄に対する国のひどい仕打ちに、いわゆる本土の住民が皆無自覚に加担していることを誰でも知っているのです。

 歴史の悲惨さにおいては、朝敵とされ討幕派と死闘を演じた戊辰戦争以後の福島の歴史も負けてはいません。あまりに理不尽な扱いを受け、痛めつけられた会津の歴史は涙なしには語れません。旧会津藩士の下北流刑(斗南藩)や旧会津藩領の明治政府民政局による直轄地化といった、冷や飯さえ食えないような過酷な扱いの延長線上に、福島原発設置も考えるべきものだろうと思います。

 沖縄には米軍基地の7割が集中していることを私たちは考えないようにしています。沖縄が米軍基地を受け持ってくれることで他の日本国民がとりあえずの安心感を得られるのは、福島が原発施設を受け持つことで東京都民が安定的に電力の供給を受けることができていたのとパラレルです。或る固定化した地域だけが割を食い他の地域がゆうゆうと暮らせるしくみなのです。そういえば今年の沖縄の日(6/23)間近に起きたアメリカ軍属の男による女性暴行・殺害事件を受けて開かれた6万人規模の県民大会では、オール沖縄会議共同代表の女子大生が「安倍晋三さん、本土にお住まいの皆さん、加害者はあなたたちです。しっかり沖縄に向き合ってください」と、明確なスピーチをしていました。その通りで、まったく痛いところを突かれましたが、たぶんあのスピーチに反発を覚えた人も多いことでしょう。私たちは自分の手が汚れていることを認めたくないので、「米軍基地があるせいで国から多額のお金がきているのでしょう、撤去されたら暮らしが立たない人もいるのでしょう。」等々の言葉を投げつけて一層沖縄の人を傷つけていますが、ひるがえってみればそれは福島の原発事故による被災者が、「今まで原発のおかげで潤っていたのでしょう。今は避難手当をもらっているのでしょう。」などといわれなき非難を受けることと同じです。

 しかし長い目で見れば東京も無傷ですむはずがないのです。ちょっと思い出しても、もし福島原発の所長が吉田所長ではなく、上からの命令に唯々諾々と従うような人だったら、またその所長についていくいわゆる「フクシマ・フィフティーズ」がいなかったら、今ごろ東京を含む東日本一帯は人の住めない国土になっていたはずです。たまたま今回東京は間一髪被災を免れただけで、首都直下型地震もかなりの確率で近々発生すると言われているのですから、5年数か月前の大災厄を最後の警告として受け止める謙虚さが必要でしょう。

 国家にとっては必要不可欠だが住民には迷惑なものを狭い地域に固定して、それが長年持続することによって、それで生計を立てる住民をつくりだし依存させるという点で、沖縄と福島は同じ構造でした。事故が起こったことで、福島が第二の沖縄であることがはっきりしました。両県の県民性などは天と地ほども違っていると感じますが、他に共通点を探すなら、どちらも美しい自然の恵みをたくさんいただいていること、また最近の出来事では参議院選挙で現職閣僚が落選したことがあげられるでしょう。後者は偶然ではなく、日本全国で各地域が利己的な主張をし合っている今の状況を根本的に考え直すしかないのではないでしょうか。