2016年7月22日金曜日

「言葉の身体表現について思うこと」

 今の人は大変だなと私が思うのは、言葉と身体を同時に適切に用いて表現しなければならないという要請が強くなっていることです。プレゼンテーション、講演、スピーチといったものは以前からありましたが、その重要性はますます高まり、その出来不出来が主張内容の信憑性を左右するようなことが多い時代になってきています。これはもちろんインターネット時代の論理的帰結で、動画という形で音声と画像が自在に配信できるようになったことと不可分です。TED(Technology Entertainment Design)はその代表例です。自分の体験から、世に広めるべき価値観をスピーチする、あるいはパフォーマンスするという理解でいいのかどうかわかりませんが、それぞれの登壇者の人生を変えた体験を語るだけあって、活字だけでは呼び起こしえない強烈なインパクトを広範に与えていることは間違いありません。

 このような時代を生きることに関して多くの人はどう感じているのでしょうか。言葉と身体を兼ね備えたスピーチがうまいというのは、足が速いとか、ピアノがうまいとかいうのと同じ才能です。また、外向的か内向的かといったその人の性格によるところも大きいでしょう。うまく言えないもどかしい感じなのですが、私個人に限って言えば、こういうことがうまくできない人やこういう仕方では表現し得ない事柄の方に関心があります。

 今の世では自分を表現できない人は愚鈍な人か臆病な人として無価値なものにされます。時代の潮流と言えばその通りですが、私はこれをとても惜しいことだと思っています。絵画や工芸、建築などのアーティストは固有の表現方法を持ち、職人さんなども自分の作品自体がその証明です。その他の、身体性を伴わない言葉しか持ち合わせない大勢の人々は、敢えて言うなら、私はそのままでよいと思うのです。就活とか職場でのプレゼンとか求められる人はやらざるを得ませんが、プレゼンを暗黙裡に強制される社会はそれが苦手な人にとってはある種暴力的だとさえ思います。もちろん、こういうことができることはすばらしいことであるし、ある人々にとっては必要不可欠な表現方法だと思います。そのうえで、そのような価値観の形成を抑制したいと思うのです。人々がそれができないことに強い劣等感を感じるとしたら、本来開花すべきものが無残に押しつぶされてしまうことを危惧するのです。ひょっとすると、それは西洋とりわけアメリカ的価値観に基づく表現方法を至高のものとする感覚に私がなじめないだけかもしれませんが、ただなぜだかこれに関しては、この方向が目指される社会ではそれによって失われるものが確実にあるという気がします。これまで日本にあった時代遅れに見える表現方法にも生き残りの場を与えてほしいと私は願っています。