午後から通院の日、午前中を大学の図書館で過ごし学食で昼食をとった時のこと、「集中」と書かれた缶飲料が無料で振る舞われていました。大手飲料メーカーの試供品とのことで、あまたある缶飲料にこのうえさらに一品加える必要があるのだろうかと思いつつ、ほぼ全員がトレイに缶を置いているのを横目でみながら私もひとつ試してみることにしました。これから社会人になる学生がターゲットと思われるこの試供品はエナジードリンクのような味がしました。(ここにも先日問題になったカフェインが含まれています。)
私はもう集中を求められることはそんなにないのですが、それでもちょっと気合を入れてやらなければならないことがある時はまず料理をします。簡単だが根気のいる作業のときは家事が気晴らしになることもあるのですが、込み入った仕事でかつちょっとやそっとでは終わらない作業のときは、栄養たっぷり具だくさんスープとか炊き込みご飯とか、温めれば食べられる、途中で集中を切らさずに済む料理を作ってから始めます。自分だけなら毎回作る必要はないし二日くらい同じものでも全く問題ありません。
こんな時、高村千恵子のことを考えて気分が重くなることがあります。私のように仕事でもなんでもない、とりあえずやってみるか程度の作業であっても集中が必要なのです。家電もないその昔、しかも真に才能ある女性がやりたいことをどれだけ家事に妨げられたことかと考えてしまいます。さらに気が重くなるのはその時代家事が女性の双肩にのみかかっていたであろうという事実です。夫・光太郎は創造的活動が好きなだけできるのに自分は家事によって寸断されたわずかな時間を利用して自己を発現させるべく努力しなければならないのです。日常に埋没しても家族のためと言い聞かせそれを幸せに感じる人もいるでしょう。しかし彼女のような非凡な才能は・・・。
高村智恵子は母校の先輩です。前に実家で高校まで使っていた机の中を整理した時のことを書きましたが、私の高校時代でさえ図書館報に校長が寄稿したのが、「女に学問はいらないというのは歴史的事実であった。」に始まる「女に学問はいるか?」という表題の文なのです。(校長先生の名誉のために付け加えますが、内容は戦後の女子学生亡国論までの歴史を俯瞰した学問のすすめで効果的な読書法を説いているものでした。) 智恵子の女学校は質実剛健な気風であったとはいえ、その時代、良妻賢母の教育がなされたことは疑いようもないでしょう。
「これでは狂いもするよなあ。」と智恵子が憐れでならないのです。光太郎に責任はないかもしれませんが、やはりどうしたって狂った原因ではあるのです。いややはり責任もあるだろうと思います。家事を妻にまかせることを当然としている以上、彼女の才能を幾分か低く見ていたことに相違ないからです。もっと後の時代のことですが、ある研究者の男性が同等の相手と結婚して、「私は結婚して仕事が増えた。」と言ったそうです。結婚について大きな勘違いをしたのでしょう。智恵子は結婚して初めて自分の立場を思い知らされたのです。狂いもするでしょう。これは夫を愛していることとは何の関係もないのです。あえて言えば、夫を愛していたからなおさら狂わざるを得なかったのです。
この問題は現代でもまだ相当長い間結婚に底流する大きな問題として続くでしょう。これからは全体の潮流として男女双方が働く中で家庭を作っていくことになるでしょうから、「僕も家事をやるよ。」と口でも言えかつ実践もできる男が求められるのは理の当然だと思います。