昨年12月の「東京神学大学報」に、或る教会員から亡くなった妹さんの遺志により3700万円の遺贈献金があったと記されていました。飛び抜けて多額な献金だったため学長から報告があったものと思われますが、毎号会報の半分近くの紙面を占めているのが献金者名簿です。東神大は信徒からの献金に依拠する割合が非常に高い大学ですが、それは財政基盤が脆弱だからではないということが最近わかってきました。財務諸表を調べてわかったのではなく体感としてわかるようになったということです。
福島教会は東日本大震災での会堂喪失から3年10か月で再建されましたが、その資金の多くが献金でした。会員による毎月の会堂献金はもちろんありますが、それだけでは会堂は建たない。ほぼ全員が年金生活者という地方教会の小さな群れにどうしてそんな大それた負担が負えましょう。再建が決まる前から、福島教会と関係のある教会、団体、信徒の方々から献金が送られ、またそれのみならず、見ず知らずの教会、団体、信徒、一般の方々からも献金された資金によって会堂は建てられたのです。会計担当の方から聞いた話で、福島教会とは関わりのない方から多額の献金をいただいたので理由を尋ねるとその方は、「これまで何かこういう折のために積み立ててきました。新聞で福島教会のことを知り、今がその時だと思いました。」と答えられたというのです。
他者に献げものをするということは信仰の根幹にかかわることなのではないか。そしてそれは使徒言行録に表された原始キリスト教以来の信仰形態ではありますが、敢えて言うなら、もっと根源的な記憶まで遡るのではないか。それは出エジプト記で荒野をさまようイスラエルに与えられたマナです。飢えた民に神が天から降らせた食べ物、必要なだけ与えられそれ以上は与えられないという食べ物、人々が「これは何だ?」と呼んだヘブライ語の意味を表す不思議な食べ物です。現在教会がこの世で信仰共同体として存在するために、その成員の信仰が実を結ぶために、どうしても必要な物としての糧なのです。物質的な必要を覚えている他者に対して物質的な贈り物、その最たるものとしての献金をささげることが不可欠であるということです。
神から来るものなのですからこれは最強で、必要なときには必ず与えられるのです。「これは何だ?」という形で。与える側に立つ人を結果として神様が祝されるということはあり得ますがそれは神様の自由であり、あるにしても相当あとになって本人も驚くようなしかたで来るのでしょう。誤解を恐れずに言うなら、他者から与えられるのでなければ実現しえないものを目指す人々と、他者に与えることなしには実現しえないものを目指す人々とが、双方同時に存在することが神の救いを信じる群れとしての共同体を成立させるということです。
お金はどうしても生活に必要な物を買う以外は自由に使えるものですが、例えば普段でも、「今外食したらそれきりだけど、代わりに本を買ったら相当長く楽しめるな。」と考えてそうすることはあるでしょう。するとさらにもっといい使い道があるかもしれないと思います。この延長上に、もし自分が死んだ後に、生前自分が稼いだ自由に使えるお金があるとしたら何に使うのが一番いいか・・・と考えると、東神大に献金された方の気持ちにかなりの親近感を覚えます。主の道を宣べ伝える人は絶対に必要だからです。