恥ずかしながら私がガラケーという言葉の意味を知ったのはつい最近です。世界標準ではない、日本でしか使われていない機能を多数搭載した携帯電話のことだそうですが、ガラパゴスのどこがいけないのでしょう。そんなに揶揄して言われるようなことなのでしょうか。私が日本についてガラパゴスという言葉で連想するのはなんといっても音楽です。私は音楽についてほとんど何も知らないのですが、これについては直感的にそうだとわかります。謡曲や地唄、長唄、義太夫節等しか知らなかった日本人が、明治を境にどれほど西洋の音楽を必死に取り込んでいったか、これはもう痛々しいほどです。小学校で習った唱歌や童謡はその典型で、私の好きな歌ベストスリーは「朧月夜」「冬景色」「浜辺の歌」ですが、今口ずさんでも実に美しくまた歌詞と溶け合った見事な歌であると思います。古典派の音楽やスコットランド、アイルランドの民謡、ドイツリートあたりまでは受け入れられたわけがわからないではありません。ひょっとしたら日本人の心を揺さぶるような衝撃的な出会いだったかもしれません。
しかしモーツアルトはさすがにあまりにも異質だったのではないかと思うのです。クラシックの中でも「モーツアルトが好き」という人に会うと、単純に「へえーっ。」と尊敬してしまうのですが、大学のとき音楽に造詣の深い或る人から、「モーツアルトって結局歌謡ポップスなんだよね。松本伊代とおんなじ!」という括目すべきご高説を聞いたことがありました。その時は度肝を抜かれましたが、今考えるとこれはなかなか言い得て妙です。私が覚えているのは音楽の教科書には「アイネ・クライネ・ナハトムジーク 第2楽章」のあの眠くなるようなゆっくりもったりしたメロディにしっかり歌詞がついていたこと。私の記憶によればその歌詞はこんな感じでした。
「そよ風静かな夜は、一重咲きの小さな野ばら、野中の小道を通る、誰かの影法師にささやく」
二、三か所違っているかもしれませんが、お見事というほかありません。最も異質なものであったに違いないモーツアルトさえ、まるでうわばみのように飲み込んでしまう日本の貪欲さに脱帽です。
こうしてガラパゴスで独自の進化を遂げた日本の音楽が人を惹きつけるのは当然のことでしょう。日本語でJ-POPを歌う外国人が大量に出てきていますが、「もともとお国の音楽なのですからあなたがハマるのももっともです。」と言うべきでしょう。今では世界中どこにルーツを持つ音楽も日本で聴けないものはない。アメリカのR&Bは私にとっては一番なじめないものでしたが、宇多田ヒカルが出たおかげですっかりなじめるようになりました。(別世界に行きたいときはこれかな。) もはや日本でしか聴けない音楽はないのかと思ったところで思い出した話があります。ある人が喫茶店で友達4人とおしゃべりしていた時、流れてきた曲に全員思わず話をやめて聴き入ってしまったというのです。その曲とは、元ちとせの「ワダツミの木」。 奄美という、ガラパゴスの中のガラパゴスで育った歌でした。