イエス様のたとえ話の中で最も難解と言われる「不正な管理人のたとえ」について、先日初めて胸にすとんと落ちる解き明かしを聞いた気がします。まだ自分の中で完全に咀嚼できていないし、全体がわかったわけではないのですが、それでも「エウレーカ!」と叫びだしたい気分です。聞いたこととそれをうけて自分で考えたことが入り交じっていますが、とりあえずわかったところまで整理しておきます。
まずルカによる福音書にある原文を新共同訳でたどってみます。話は次の「金持ちとラザロ」とも密接に関係しているようですが、長いのでとりあえずルカ16章1節から18節まで。
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。
この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
(ここから16章9節)
そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。
前半の16章8節前半部分までが、イエス様が間違いなく口にしたと思われるたとえ話の中核です。そのあとに書かれた言葉は、このイエスのたとえ話の難解さに困って苦肉の策として加えられた解釈であることは否めないでしょう。ですから読めば読むほどわからなくなります。たとえ話の最後の「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。」という言葉からして、ここではわざと矛盾した書き方をしていることは明らかです。不正な者をほめたというのですから。主人が不正な者をほめるというところでまずつまずいてしまいそうですが、ここに理解の鍵があるのです。
このたとえに出てくる「主人」「管理人」「借りのある者」がそれぞれ誰なのかについては、どうも非常に重層的な読み方があり一概に対応を決めることはできないようですし、イエス様がこの話をする相手である「弟子たち」や今現在このたとえを聞いている「私たち」がどこに位置するのかも簡単にはきめられませんが、単純に納得できることから入ってみます。普通に考えれば、主人は不正なことをしている管理人を首にすればいいだけです。そして実際に管理人に首を言い渡そうとしてその証拠固めのために会計報告を出させようとしています。しかしここでまず念頭に置くべきは、「ぶどう園の労働者のたとえ」と同様、主人というのは神様のことだと連想することが想定されているだろうということです。借りのある者がどれほどいるのかわかりませんが、こんなに大量の油や小麦の貸し手になれるのは神様しかいない、とすれば第一義的には、神様が首にしようとしている不正な管理人とは無論イエス様しかあり得ないでしょう。
ぶどう園の労働者のたとえが単に労働賃金の話ではなかったように、この話もまた借金の話だと思ってはいけない。すぐ前にあるのは放蕩息子の話であり、ルカは第一章から一貫して「悔い改めと神への立ち返り」について述べているのですから。(先ほど引用した部分の最後の方に、「律法と預言者は、ヨハネの時までである。」とはっきり書いてありました。そしてこのルカこそがマタイやマルコには記述のないヨハネについて、イエスのために道を用意する者としてはっきり記しているのです。)
ここでいう借金とは膨大な量に膨れ上がった罪の値です。そしてそれをせっせと減らして証文を書き換えている管理人がイエス様です。神は正しい方ですから、値なしに(誰かに借金すなわち罪の肩代わりをさせることなしに)は罪人を許すことはできません。信賞必罰が世の中の道理、そうでなければ示しがつかない。神にとっては罪人を許すこと自体が「不正」なのです。しかしこの話では主人は不正な管理人をほめた。罪を減らす証文を必死で書いているイエス様に「それでいい。それが愛というものなのだ。」とおっしゃったということです。(しかしそれも長くは続かないのです。不正会計の証拠が挙がったイエス様はこの仕事を解かれてしまうことになる、すなわちこの世では十字架の死が約束されているのです。)
あとの説明は不要でしょう。ああ、そういうことだったのか。そう思ってあらためて読み返してみると、冒頭に、「。この男(=管理人、すなわちイエス様)が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。」とあるのは、後に出てくるファリサイ派の人々のことで間違いない。律法を楯にイエス様の行動を批判し、自らを神と等しいものとして振る舞うイエス様を殺そうとした人々です。こうなると隅々まで納得できる話で、イエス様らしい弟子たちへのちょっとした謎かけや律法学者に対する皮肉を含んだきわめて見事なたとえ話だということがよくわかりました。
この後に「金持ちとラザロ」の話がつながっています。生前贅沢に遊び暮らしていた金持ちが死後陰府におり、生前辛酸をなめていた貧しいラザロ(「神の愛によって生きる者」という意味の名)は天に上げられアブラハムとともにおり、金持ちは兄弟が自分と同じことにならぬよう使者として死んだラザロを遣わしてほしいいとアブラハムに頼むのですがそれは原理的にできない(間に大きな淵があるから)と断るのです。先ほど「金に執着するファリサイ派の人々」という言葉が出てきたことからして、この話で言及されている金持ちとはファリサイ派の人々でしょう。そしてアブラハムが最後に言うのは、「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」という言葉です。ここでまたしても「モーセと予言者が出てくるのです。モーセと予言者というのは旧約そのものですから、古い約束、すなわち「現に今あるもの、すでに示されているもの、知ろうとすれば誰にでも手の届くところにあるもの」を持ちながら神の愛に生きていないのだから、死人の中からよみがえって来る者すなわち「新しい約束であるこの私(=イエス様)」に出会ってもその勧めを信じはしない、現にいま信じていないでしょうとファリサイ派に向かって言い渡されたのです。これですべてがつながった気がします。
あらためてこのたとえ話のまとめとも言うべきイエス様の言葉、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。」に戻ると、「抜け目ない」という言葉は「自分のことを真剣に考えている」という意味で、新約聖書ではここにしか使われていない言葉だそうです。もし自分を管理人の立場に置いたとして、「自分のことを真剣に考えている」なら他人の借金を差し引いてあげなさい、すなわち罪を赦してあげなさい、「あなたも私(=イエス様)のとりなしで神様から罪を赦してもらったのだから」、ということになるのではないでしょうか。これは「主の祈り」そのものです。
わたしたちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。
(ルカによる福音書11勝 4節)
負い目とはまさに借金を指すのですから、こことぴったり符合することが明確になりました。こうなるともう、神様から見たら不正な行為である「罪という借金の棒引き」をあえてしてくださっている方に、「ああ、イエス様、こんな私のために本当にありがとうございます。」と申し上げる以外何ができましょう。