2015年12月31日木曜日

「紅春77」

 「かわいい顔して眠ってるわ。」  
りくの寝顔に見とれてしまいます。スースー寝息を立てていたり、ゴロンゴロンと寝返りを打って仰向けに寝ていたり、たまにピュークククク(怖い夢でも見るのか?)とうなされていることもありますが、いつ見てもりくの寝ている姿はかわいくて、これを見られるのは飼い主の特権です。

 最近私は例の座卓とちゃぶ台のベッドに寝ているため布団にあがれないりくは夜やってこなくなり、お互いゆっくり眠れます。こたつにりくの寝るくぼみを作ってあげているので、りくはこたつの余熱で温かいはずです。

 いつもは私が起きる頃(冬はまだ暗い時間です)、りくも茶の間でスタンバイしていますが、たまに具合が悪い時はりくが起こしに来ても、「ごめんね。今日姉ちゃん散歩行けないから。」と言います。りくにはわからないので、ガシガシ布団の上まで手を出してきて可哀そうになります。「一人暮らしの人は病気の時大変でしょう」と思われがちですが実は逆なのです。東京では具合が悪くても好きなだけ寝ていられるのでほっとします。私の体調不良は時間の長短はあってもほぼだいたい睡眠をとることで元通り回復します。

 猫の夜泣きなどでりくが落ち着かず、しかたなく兄がりくと夜のパトロールに出かけた日などは、私が朝起きてもりくがまだお休み中ということもあります。そんな時は台所で朝食の用意をしているうちに、りくが「寝坊しました。」という顔で、きまり悪そうにもそっとやってきます。
「おっ、りくおはよう。今日も元気。」
と言って一緒に朝の散歩に出かけます。


2015年12月28日月曜日

「わからないページビュー問題」

 ブログをアップする時まず統計のページが開くので必ず目に入るのですが、先日グラフの形が一目でわかるくらい変わっていたので「また来たな。」と思いました。年に一、二度の頻度で普段のページビューの100倍~1000倍の数字になるのです。これは海外からのアクセスのせいなのですが理由がわからず不気味です。りくのかわいさにアクセス殺到ならいいのですがそんなわけありません。(紅春がうちの犬の血統書名であるということすらわかるはずがありません。)

 とにかく気味が悪いので理由を知りたい。私は危ない話題には近寄らないようにしていますし、書いているのは無難なことだけ、どこにもリンクは貼っていません。自動で設定された検索の網に引っ掛かったのだとしか思えないのですが、こういうことが起こるのはこれまでイスラエルか中国のどちらかに限られています。日本語で書いているのに本当に読んでいるのでしょうか。あらゆる言語で書かれたものに検索の網をかけているのでしょうか。検索対象はブログのタイトルだけなのか、テキスト本文にも及んでいるのか、それとも定期的にすべてのブログに検索をかけているのか、ああわからない。

 或る種の単語に反応するプログラムが組まれ情報を収集する組織(諜報機関?)があるのでしょうか。トンデモ本の紹介をしたことはありますが最近はしていない。それとも一度目をつけられると定期的に見張られてしまうのか。聖書の解き明かしを自分なりに理解して書くことはありましたが、ダヴィンチ・コードのような話ではない。それとも今後に釘を刺す意味での警告なのか。ユダヤ人の特異性に敬意を表明することはあっても誹謗したことは一度もありません。なぜ一時的に大量のアクセスがあるのか、ああわからない。

 「そうだっ。」と思いついて、これまでしたことがなかったのですが各タイトルのアクセス数を調べてみたら、多かったのは①「ドイツに住む柴犬」、「紅春」、②「象の墓参り」、「父の腕時計」、③「プリンツェンのドイツ」、「マクベス夫人の憂愁 2」④「都内一周都バスの旅」、「ベジブロス」でした。
①は例のドイツで二匹の柴犬およびオランダ人の夫と暮らす日本人女性のブログの紹介で、もしかするとトラッキング機能を駆使して柴犬つながりで紅春にたどりついたのかもしれません。
②は象は墓を作り墓参りもする高等な動物であるという話の紹介で、父が亡くなる前に交換した腕時計の思い出と私の中では同様の領域にある話です。
③はドイツのロックバンドの歌詞に見る国家観とシェークスピアの戯曲に描かれた王位継承の無慈悲さについて書いたものです。
④は情報ネタで、今となってはすでに廃止されてしまった都バス路線の紹介となってしまいました。ベジブロスに限らず食品についての関心は概ねどれも高いようです。

 しかし、この結果にもかかわらず、時折急増する海外からのアクセス数ははるかに膨大でその比ではないのです。やはり疑問は解けません。私の何がいけないのという気持ちです。

2015年12月25日金曜日

「三つの小さな道標」

 今年の誕生日は運転免許証の更新にあたっていましたが、さすがにもう視力が出ないので免許証を返納しに行きました。警察の方が一度返納したらもう取れないですよと慰留してくれたのですが、事情を話したら納得されました。いずれにせよ免許証はずっと前に車を手放して以来、身分証明書としての役割しかなかったのです。代わりに身分証明に使える「運転経歴証明書」なるものがもらえるということもわかりよかったと思いました。「車庫から車を出すとかでも絶対運転しないでくださいね。」と念を押されましたが、車自体がないし、「それは自殺行為ですから。」と答えました。記憶をたどると運転免許を取った理由はキューブリックの「シャイニング」を見て、ジャック・ニコルソンの発狂ぶりのすごさに恐れをなして、旦那が狂ったとき雪道を逃げられるように車くらい運転できないと、と思ったのがきっかけでした。もうさすがに必要ありません。

 二つ目はマイナンバーの通知が少し前に私のところにも来ました。別にほしくはないのですが、移動の多い生活なので区役所に戻ってしまって面倒なことになるのはいやだなと思っていたのです。感心したのは点字でちゃんと「まい なんばー つーち」と書いてあったこと。あれは必要なもので、目の不自由な方に配慮されていたのは本当によかった。個人番号自体は何に使うのかよくわかりませんが、区から配布された広報によれば以下の通りです。「住民基本台帳カードがあり、有効期限がまだ先の方は、有効期限まで個人番号カードとほぼ同様に使えるので、すぐに個人カードと交換する必要はありません。」と書いてあり、住基カードの有効期限が平成28年3月前後で切れる方には12月22日までに、(なんと個人番号カードの申請ではなく)、「住基カード」の更新を勧めていました。この説明によってむしろ区役所は信頼できると思いました。私の場合、有効期限はいつまでかなと思って住基カードを見てみたら、驚くことに2025年! 区の説明ではそれまで何もする必要がなさそうです。何のためのマイナンバーなんだか。これはとにかく怪しいでしょ。

 三つ目は文字認識ソフトの使用です。どうしても紙ベースで何かを読まなければならない時、(この機種は東京の自宅にしか置いていないのですが、)プリンターををパソコンにつないでパナソニックの「読取革命」というソフトで読んでもらうことがお多くなりました。準備や設定、活字の読み取りにかかる時間を含めても自分で読むよりは早い、第一自分で読む気力はもうないのです。(眼科医からはこの状態でまだ文字が読めているのは奇跡だとまで言われています。) 時間はかかりますが見えないことをカバーしてくれるいろいろな技術があるのは本当にありがたいことです。こういうわけで2015年は見えないことを自覚する出来事が結構ありましたがおとなしく受け入れることにいたしましょう。

2015年12月21日月曜日

「クリスマスピラミッド」

 先日日比谷公園にクリスマスマーケットが出たと聞いて、ふうんと思ったのですが、そこにあるクリスマスピラミッドはドイツから職人さんが来て立てたものとのことで俄然行きたくなってしまいました。行ける日程が限られていたので無理かなとも思いましたが、翌日友達と行くことができました。
 内幸町の方の入り口から入ってすぐ、クリスマスピラミッドとクリスマスマーケットのテントが見えました。私が冬のヨーロッパを訪れたのは一度のみ、その時の寒さに懲りて以後行っていなかったので記憶が相当薄れていたこともあり、クリスマスピラミッドが想像以上に大きなものであることを再認識しました。クリスマスツリーとメイポールの合体形といったあんばいの素朴な木製の装置で、メルヘンチックな人形や動物がゆっくりくるくる回っている、いかにもドイツらしいものでした。ヘルベルトとクリスマスマーケットを訪れたのは夕方だったのでしょう(ドイツの冬はもう午後3時半頃から暗くなる)、イルミネーションがとてもきれいで幻想的と言ってよいほどでした。たぶんここも夜の方が美しいのでしょう。一番の違いはコートもいらないくらいの暖かいクリスマスマーケットだったこと。

 土曜日だったので人出が多く、屋台は客をさばききれない文化祭の出店のようでした。列の短い屋台に並んでファストフード(これすなわちソーセージを中心とする食べ物)を味見しましたが、直輸入には違いないもののこういうものはやはり現地で食べるのが一番です。小ぶりのニュールンベルガーとかカレーヴルストとかがあるとよかったな。クリスマスマーケットにはかかせないグリューワイン等のアルコールを出している店は結構ありましたが私は飲めないし、スイーツ系のお店がほとんどなかったのが残念でした。というわけで、最後は銀座まで歩いて(といってもほぼ新橋にある銀座ウエストは数分のところです。)お茶して帰りました。クリスマスピラミッドが見られて大満足でした。


2015年12月18日金曜日

「追い込み練習」

 メサイアのハレルヤ・コーラスの本番が近づいてきました。東京ではそんなに大声で練習できる機会がなく、せいぜい朝のウォーキングの時に公園に差し掛かったあたりで、少し大きめの声を出して練習できる程度です。ただ歩いている時は楽譜を見るわけにはいかないので、これでかなり曲が自分のものになってきた気がします。同じ歌詞でほぼ同じメロディなのだが微妙に違っている部分など、まだ自信がもてないところは帰ってから楽譜を見て確かめます。もう一歩のところまできているはずです。

 福島では家の立地からして思い切って声を出しても大丈夫な感じです。観客はりくなのですが、最初のころは聞いていてくれたのに、最近は「もう勘弁してください。」と言うようにすっといなくなってしまいます。りくの薄情者~。こうして自分ではりくにも飽きられるくらい練習しているつもりです。しかし、皆と合わせての練習は少ないのでこれが難点です。ありがちなのは他のパートに引きずられたり、ちょっとしたアクシデントで動揺して歌えなくなったりすること。そうならないようにするにはやはり曲全体を身体化するしかないのです。という具合に相当追い詰められた状況で練習しています。アンコール? そんな余裕あるわけないでしょ。

2015年12月15日火曜日

「紅春 76」

 散歩中に時々会う黒柴ちゃんがいます。「おじさんが散歩させてる子?」と、兄も結構会うらしい。今まで話しかけたことはなかったのですが、先日りくが近寄って行きました。
「そっち、大丈夫? うちのは大丈夫だけど。」
「うちのもおとなしいので大丈夫です。」
ということでちゃんと会わせてみると気が合いそうでした。犬同士の相性は一瞬でわかるようで、あれはどういうことなんでしょうね。匂いなのか、気性なのか、とても不思議です。今回はりくの方が積極的でした。
「いくつ? 6歳くらい?」
わー、そんなに若く見えるんだ・・・。人間でなくともうれしくなってしまいます。黒柴ちゃんの方はりくより年上だなあと思って聞いてみると、なんと16歳! それでもしっかりした足どりで散歩で来ているのがすごい。でもおじさんの話では、両眼とも白内障で見えておらず、耳も聞こえていないということで、この夏は食欲もなく心配したとのことでした。しかも外飼いだというので、またびっくり。外飼いでそんなに長寿の犬がいるとは。
「りくもがんばらねばね~。」
と声をかけて家に戻りましたが、せめて天寿を全うできるよう可愛がってあげなければと気持ちを新たにしました。やがて介護が必要な時も来るのでしょう。新しい友達に会って喜んで帰宅したりくを横目に心に思ったのは、
「りくがよぼよぼ、よたよたになったら、兄ちゃんと姉ちゃんで面倒見るからね。」

2015年12月12日土曜日

「不正な管理人のたとえ」

 イエス様のたとえ話の中で最も難解と言われる「不正な管理人のたとえ」について、先日初めて胸にすとんと落ちる解き明かしを聞いた気がします。まだ自分の中で完全に咀嚼できていないし、全体がわかったわけではないのですが、それでも「エウレーカ!」と叫びだしたい気分です。聞いたこととそれをうけて自分で考えたことが入り交じっていますが、とりあえずわかったところまで整理しておきます。

 まずルカによる福音書にある原文を新共同訳でたどってみます。話は次の「金持ちとラザロ」とも密接に関係しているようですが、長いのでとりあえずルカ16章1節から18節まで。

イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。

この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
(ここから16章9節)
そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。

 前半の16章8節前半部分までが、イエス様が間違いなく口にしたと思われるたとえ話の中核です。そのあとに書かれた言葉は、このイエスのたとえ話の難解さに困って苦肉の策として加えられた解釈であることは否めないでしょう。ですから読めば読むほどわからなくなります。たとえ話の最後の「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。」という言葉からして、ここではわざと矛盾した書き方をしていることは明らかです。不正な者をほめたというのですから。主人が不正な者をほめるというところでまずつまずいてしまいそうですが、ここに理解の鍵があるのです。

 このたとえに出てくる「主人」「管理人」「借りのある者」がそれぞれ誰なのかについては、どうも非常に重層的な読み方があり一概に対応を決めることはできないようですし、イエス様がこの話をする相手である「弟子たち」や今現在このたとえを聞いている「私たち」がどこに位置するのかも簡単にはきめられませんが、単純に納得できることから入ってみます。普通に考えれば、主人は不正なことをしている管理人を首にすればいいだけです。そして実際に管理人に首を言い渡そうとしてその証拠固めのために会計報告を出させようとしています。しかしここでまず念頭に置くべきは、「ぶどう園の労働者のたとえ」と同様、主人というのは神様のことだと連想することが想定されているだろうということです。借りのある者がどれほどいるのかわかりませんが、こんなに大量の油や小麦の貸し手になれるのは神様しかいない、とすれば第一義的には、神様が首にしようとしている不正な管理人とは無論イエス様しかあり得ないでしょう。

 ぶどう園の労働者のたとえが単に労働賃金の話ではなかったように、この話もまた借金の話だと思ってはいけない。すぐ前にあるのは放蕩息子の話であり、ルカは第一章から一貫して「悔い改めと神への立ち返り」について述べているのですから。(先ほど引用した部分の最後の方に、「律法と預言者は、ヨハネの時までである。」とはっきり書いてありました。そしてこのルカこそがマタイやマルコには記述のないヨハネについて、イエスのために道を用意する者としてはっきり記しているのです。) 

 ここでいう借金とは膨大な量に膨れ上がった罪の値です。そしてそれをせっせと減らして証文を書き換えている管理人がイエス様です。神は正しい方ですから、値なしに(誰かに借金すなわち罪の肩代わりをさせることなしに)は罪人を許すことはできません。信賞必罰が世の中の道理、そうでなければ示しがつかない。神にとっては罪人を許すこと自体が「不正」なのです。しかしこの話では主人は不正な管理人をほめた。罪を減らす証文を必死で書いているイエス様に「それでいい。それが愛というものなのだ。」とおっしゃったということです。(しかしそれも長くは続かないのです。不正会計の証拠が挙がったイエス様はこの仕事を解かれてしまうことになる、すなわちこの世では十字架の死が約束されているのです。)

 あとの説明は不要でしょう。ああ、そういうことだったのか。そう思ってあらためて読み返してみると、冒頭に、「。この男(=管理人、すなわちイエス様)が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。」とあるのは、後に出てくるファリサイ派の人々のことで間違いない。律法を楯にイエス様の行動を批判し、自らを神と等しいものとして振る舞うイエス様を殺そうとした人々です。こうなると隅々まで納得できる話で、イエス様らしい弟子たちへのちょっとした謎かけや律法学者に対する皮肉を含んだきわめて見事なたとえ話だということがよくわかりました。

 この後に「金持ちとラザロ」の話がつながっています。生前贅沢に遊び暮らしていた金持ちが死後陰府におり、生前辛酸をなめていた貧しいラザロ(「神の愛によって生きる者」という意味の名)は天に上げられアブラハムとともにおり、金持ちは兄弟が自分と同じことにならぬよう使者として死んだラザロを遣わしてほしいいとアブラハムに頼むのですがそれは原理的にできない(間に大きな淵があるから)と断るのです。先ほど「金に執着するファリサイ派の人々」という言葉が出てきたことからして、この話で言及されている金持ちとはファリサイ派の人々でしょう。そしてアブラハムが最後に言うのは、「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」という言葉です。ここでまたしても「モーセと予言者が出てくるのです。モーセと予言者というのは旧約そのものですから、古い約束、すなわち「現に今あるもの、すでに示されているもの、知ろうとすれば誰にでも手の届くところにあるもの」を持ちながら神の愛に生きていないのだから、死人の中からよみがえって来る者すなわち「新しい約束であるこの私(=イエス様)」に出会ってもその勧めを信じはしない、現にいま信じていないでしょうとファリサイ派に向かって言い渡されたのです。これですべてがつながった気がします。

 あらためてこのたとえ話のまとめとも言うべきイエス様の言葉、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。」に戻ると、「抜け目ない」という言葉は「自分のことを真剣に考えている」という意味で、新約聖書ではここにしか使われていない言葉だそうです。もし自分を管理人の立場に置いたとして、「自分のことを真剣に考えている」なら他人の借金を差し引いてあげなさい、すなわち罪を赦してあげなさい、「あなたも私(=イエス様)のとりなしで神様から罪を赦してもらったのだから」、ということになるのではないでしょうか。これは「主の祈り」そのものです。

わたしたちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。
     (ルカによる福音書11勝 4節)

 負い目とはまさに借金を指すのですから、こことぴったり符合することが明確になりました。こうなるともう、神様から見たら不正な行為である「罪という借金の棒引き」をあえてしてくださっている方に、「ああ、イエス様、こんな私のために本当にありがとうございます。」と申し上げる以外何ができましょう。

2015年12月8日火曜日

「旅にある日々」

 月に一度の集まりでずっと読んできた「出エジプト記」を読み終えました。私が参加したのは途中からですが5年かかったそうです。25章あたりから途中の金の子牛と戒めの再授与の話を別にすれば最後の40章まで幕屋のことが中心に書かれています。40年にわたるシナイ半島での民族の放浪によって、イスラエル民族の民族性が決定づけられたと言ってよいでしょう。普通に進めば1か月ほどで到達できるはずのカナンへの道程に40年かかった、1世代が完全に交代する年月旅路にあったということ、その中で移動のたびに幕屋すなわち神を礼拝する場所を持ち歩き、どこであっても正確に再現できるよう詳細な設計図を残したのです。この民族的体験が、国土を持たずして滅びぬ民、全世界に散らばっても雲散霧消しないという前代未聞の民を形成したのです。
 
  私も毎月旅にあるようなものですが、自宅と実家の行き来なので生活必需品はどちらの家にもそろっており放浪の旅とは全く違うのですが、ほんの少しだけ疑似体験ができるような気がしています。場所の移動はその距離の長短にかかわらずエネルギーを要するものです。現代のように乗り物に乗ってさえそうなのですから当時はさぞ大変だったことでしょう。そして移動の間はとりあえず何もできない、できるのはせいぜい頭の中で考えることくらいです。これがただの思い煩いで終わるのか賛美になるのかは大きな違いです。

 身一つで移動する場合は持ち物はたぶん身の回り品だけ、あとのことは全面的に神にゆだねるしかない。私は荷物を軽くするため持ち歩くのはどうしても必要な物だけにしているのですが、最近はノートパソコンとタブレット型パソコン(1年半の間に二度壊れてからはスペアを持たずには怖くて移動できなくなりました。) 、あとはパンを焼くのに春ゆたか(北海道産小麦)を持って帰省し、帰りは野菜や果物を持って上京というのがいつものパターンです。私の場合は移動前に食材を使い切ってこなければならないなど、わりと計画性が必要ですが、この点はイスラエルの民はマナで養われたのですから全然違いますね。持ち運ぶのが幕屋のようなものでなくてちょっと情けない。でも今は教会は全国にあるからいいのです。

2015年12月4日金曜日

「師走」

 「勤めているわけでもないのになぜこんなに忙しいのだ?」という日々が続いています。普段行うことのほかに今抱えているのはまず文集作成です。福島教会では東日本大震災から会堂の再建と献堂までの記録を残そうという話になり、現在進行中です。当初クリスマスの発行を目指したのですがまったく間に合わず、年越しは必至です。

 2つ目は青色申告の提出書類作成。過去二回やってみて今年の分でやめることにしました。つまりこの12月で廃業です。仕入品をすべて帳簿に残しかつ領収書をノートに貼る、12月に帳簿をまとめて会計諸表を作り、年明けにする青色申告の書類を作成し、いつでも税務署に提出できるようにしておくのは相当大変な作業です。それもあと1回で終わると思うとうれしい。会堂も再建され、景気づけ的存在として一定の役割を果たしたはず。2年半支援商品作成と発送をよくやったと思う。買ってくださった方々に心から感謝です。あとは体調に合わせて献品という形で活動を続け、一方で月定会堂献金によって今後20年にわたる借入金の返済をしていきます。

 3つ目は伝道に関わる広報の仕事。新会堂にともない新しい「教会案内」や伝道行事のチラシ作成、通常業務ではあるが「福島教会ホームページ」の更新や記録保存用の「福島教会アルバム」の作成等です。完璧を目指さず、「ないよりまし」をモットーに試行錯誤で行っています。

 4つ目はもちろんクリスマス関係の諸行事の準備。「クリスマス礼拝・クリスマスイヴ礼拝」のチラシは出来上がり、まもなく市内に配布されるでしょう。メサイアの練習は難航しています。高音が出ないのは初めからわかっていましたが、音程が取れているだけでは駄目で、とにかく休止符の後入るタイミングが難しい。東京在住の時は私は練習に加われないので自宅で特訓、これが甚だ不安です。伴奏担当の方が急なご事情で伴奏できないかも・・・といった不測の事態も起こります。ネットを見たら、「メサイアのピアノ伴奏CDを大至急さがしています。どなたかご存知ありませんか。」という切羽詰まった書き込みがあり、「うちだけじゃないんだ。」と変に安心したり・・・。

 こんな感じで過ごしており、クリスマス以降のこと(大掃除や年賀状)は今はとても考えられる状態ではありません。クリスマスまでは健康管理に特に気をつけなくては。