2014年9月1日月曜日

「ぶどう園の労働者のたとえ」


 聖書に出てくるたとえ話は単純ながら興味深いものが多いのですが、その中で何か1つ選ぶとしたら私は「ぶどう園の労働者のたとえ」を選びます。私はずいぶん前からこの話が断然好きでした。この世ではありえないことなので、もし天国がこのようなところだとしたらいいところだなと思ってきたのです。知っている方には「ああ、あの話か。」とすぐにわかるでしょうが、ここに再録しておきます。

マタイによる福音書20章1節
 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 1デナリオンをわかりやすいように勝手に1万円として考えると、最初に1日につき1万円の約束で雇われた人はおそらく時給1000円といったところでしょうか。一般的な水準です。9時、12時、3時に雇われた人は「ふさわしい賃金」としか言われていないので、いくらもらえるのかわからないいままとにかく仕事に行くことになります。5時に雇われた者たちは賃金がもらえるのかどうかすらわからないままぶどう園に出かけていくのです。最初に雇われたものは、とりあえず1日真面目に働けば1日家族を養えるだけの賃金がもらえるとわかっているので安心してその日を過ごせます。安泰な立場にいると公平な配分に敏感になるものです。長く働けば成果を積み重ねることができ、それは自分の能力と努力によるものだと思い、その分の報酬を望み求めるのが普通です。自分が夜明けから仕事にありついたのは運がよかっただけかもしれないのに、つまりただゆえなく恵まれていただけなのかもしれないのにそうとはつゆ思わす、安楽な立場にある者ほど成果主義に傾いてしまうのです。早朝雇われた時には、「やれやれありがたい、今日も生活の心配はなく過ごせる。さあ、がんばって仕事をするか。」と思っていたに違いないはずの人が、仕事に出た途端この世の論理に飲み込まれ、あっという間に効率主義の権化になってしまう、これが二千年変わらない現実です。

 その後に雇われた人たちは雇われた時、うれしかったに違いありません。しかし、自分より前から働いている人や自分の後にきた人の働きぶりをみているうち、おそらくこちらも効率至上主義に飲み込まれてしまうのです。勝手な想像ですが、9時に雇われた人は、「いくらもらえるのか額はきいていないけれど、きっと1日の生活費には少し足りないな。あとはなんとかするしかない。」と思い、12時の人は「半日分のちんぎんか、いったいどうしたらいいだろう。いや、そもそもそれだってきっちりもらえるかどうか・・・。」と思い、3時の人は「3時間分の賃金ではどうしようもない、ないよりましだが夕飯代にもならないだろう。そもそも『ふさわしい賃金』っていくらだ。相手の言い値にされてしまうのでは・・・。」と思ったりするもので、つまり雇われてもそれで安心ではなく、雇われたら雇われたで、様々な思いと不安が生まれるのがこの世の生活です。

 さて、一日の終わりに一律一万円の賃金が支払われた時、それに対してどう思ったかは最初に雇われた人たちの言葉しか書かれていません。最後の1時間だけ働いて1万円もらった人々は、最小の労働で最大の報酬を得た人たちであり、今ならさだめし時代の寵児になれるでしょう。夜明けから働いてきた人たちは思ったのです。「時給一万とはうまくやったな。」と。しかし1日働いて1万円というのは当初の約束どおりなのですから不平を言われる筋合いはないのです。主人は「不公平だ。」という彼らの意見を一蹴してこの話は終わります。

 今読んでもすごい話です。この話1つ残しただけでもイエス様というのはすごい人だと思います。人と言いましたが、この話をぽんと語るということは人間の属性を越えていることだと感じます。労働のたとえになっていますが、おそらくこれは人の救いに関する話なのです。5時に雇われた人というのは、絶望的な気持ちで広場にいた人たちです。黄昏の中、1日の終わりを空しく待つしかなかった人たちです。1日が終わる寸前で雇われたこと自体信じられなかったかもしれません。ましてや支払われた賃金1万円を目にした時は目を疑ったに違いありません。この人たちは、ゴルゴタの丘でイエスと一緒に十字架刑にかけられ、イエスに罪を悔いたた罪人の一人と同じです。絶望の中一生が終わろうとするまさにその時に、イエスから「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と言われたのです。救いは全員に平等に与えられるのですが、悲しいかなそこに至るまでに人間は様々なつぶやきをしてしまうのです。

 さて、最後に9時、12時、3時、5時のそれぞれの時間に雇われた人たちは、その時間までどうしていたのかという疑問があります。彼らはその時間になるまで広場にはいなかった、つまりその時間になるまで働こうとは思わなかった人たちか、もしくは「誰も雇ってくれないのです。」という言葉からわかるように、「彼のぶどう園」で働くよりも他の人に雇ってもらうことの方を望んでいた人たちです。ぶどう園の主人は決して人に労働を強制しようとはしません。そこは個人の意思を尊重しているので、話が厄介なのです。つまり、この世の中で満ち足りて毎日楽しく何の疑問も感じずに過ごしているのなら、いつまでたっても広場に行こうとは思わず、またもっとよさそうな働き口に引き寄せられてしまうかもしれません。となると、残念ながらこの人たちは救いにあずかれないのです。この世の現実をよいものとして全面的に肯定して生きて行けるかどうかと考えると、それぞれの人生のどこかでイエスに出会う機会はありそうな気がします。