2014年9月6日土曜日

「変わらぬ希望をもつ人々」


「絶望の 虚妄なる 正に 希望と 相同じ」
これは若いころ友人に教えてもらった言葉で、魯迅が散文詩「野草」の中に、ハンガリーの愛国詩人ペトフィ・シャンドルの言葉として引用しているとのこと、確か、「吶喊」の原序にもとても似たような記述があった気がします。おぼろげな記憶ですが、「鉄の部屋の中で昏睡状態にある人を目覚めさせてなんになるのだ」という魯迅に、「一人起きたのならまた一人目覚めるかもしれず、そうすれば鉄の部屋を壊す可能性がないとは言えない。」と友人が答える。自分自身はそんなことは絶対にないと確信しているが、「希望」ということなら自分の確信をもってこの友人の言葉を否定することはできない。なぜなら、「希望」というものは未来に存するゆえである・・・というような話だったと思います。

 毎日多くの事件が起きます。自然現象のような災害はしかたがないとあきらめることができても、人間による身の毛もよだつような犯罪に関しては人間の邪悪さを深く感じ、絶望感にとらわれることも多いです。また、民族間の対立による殺戮の連鎖に関しては、あまりの残虐さと理不尽さになすすべもない現状を知り、考えるのをやめようと思います。昏睡状態のままもう目覚めない眠りについた方が幸せです。起き上がったところでできることなどないでしょうから。

 一般の人から見ると、クリスチャンというのはかなり変わった人たちです。神が人間の形をとって歴史上の一点としてひとたびこの世に存在し、人間の罪を背負って代わりに死んでくださった、その神性によって罪から人間を救ってくださった、そして復活し死に勝利されたということを信じているのです。今書いていても初めて聞く人にはなんのことやらわからないだろうなあと自分でも思います。理解できれば信じられるというものでもないのですが、それにしてもハードルが高すぎると思うのです。ただ、ごくまれにですが、初めて聞いてすぐに信じられるという人がいるのも事実で、これは本当に不思議なことです。

 人間の歴史というか、この世の状況は何千年も変わっていない。絶えず戦争があり、強いものが弱いものを支配し、虐げと収奪があります。正義とは強いものの論理で作られるものであり、強国の支配に屈する民は嘲笑される屈辱の日々です。

詩編42編4節
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。

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詩編42編11節
わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き
絶え間なく嘲って言う
「お前の神はどこにいる」と。 

 神などいないと言わざるを得ないような状況の中で、まさに不正と暴虐が吹き荒れる世の中のただ中で、神のささやくような声を聴き、「神はいます」と言う者たちがキリスト者なのです。世の人には理解しがたいのは当然です。それでもそう信じることをやめないのです。クリスチャンが「変わらぬ希望」を持ち続けるのは、希望が未来に存するゆえではなく、神への信頼ゆえです。


詩編58編 12節
人は言う。
「神に従う人は必ず実を結ぶ。
神はいます。
神はこの地を裁かれる。 」