8月は鎮魂の季節です。先日報道された2つの慰霊祭が心に残りました。一つは原発事故後、警戒区域に残されて死んだ牛たちの慰霊祭、もう一つは終戦直前に行われた秋田の土崎空襲の慰霊祭です。この時、マイクを向けられた方が奇しくも同じ言葉を口にしました。
前者は、「置いてきてごめんねって、謝りたい。」とかつての酪農家のおじいさんが涙ながらに語っており、後者は、空襲で避難する人々に水あげていた家の人で、事情がよく呑み込めなかったのですが、赤ん坊を背負ってやってきた母親の赤ちゃんをふと見たら首がなかった、そのことを母親に告げることができなかった、「教えてあげればよかった、謝りたい。」と、こちらも涙ながらにおばあさんが語っておりました。
前者は生き物を置き去りにして死なせてしまったとはいえ、他にどうしようもなかったのは明らかですし、後者は赤ちゃんの死には何ら責任がないながら、母親の心情に寄り添えなかったことに罪の意識を感じているのです。もちろんどちらのケースに関しても、そこまでの罪悪感を感じない人も多いでしょうが、こういう場合にも申し訳なさを感じる人間がいるということになぜか救われる気がするのです。
こういった悲しみや苦悩は償いようがないのです。神様に赦してもらう以外、癒されようがありません。まさにこの時、思いもしなかったしかたで、人は心のどこか深い淵で神様に出会うのではないでしょうか。
詩編51編3~4節
神よ、わたしを憐れんでください
御慈しみをもって。
深い御憐れみをもって
背きの罪をぬぐってください。
わたしの咎をことごとく洗い
罪から清めてください。
・・・・・・・
9節
ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください
わたしが清くなるように。
わたしを洗ってください
雪よりも白くなるように。