りくにも夏休みをということで兄の車であづま運動公園に遊びに行きました。獣医さんに行くのではないとわかったらしく、車の中で窓に張り付いて外を見るのに大興奮。右、左、後ろと片時もじっとしていません。目的地に着いたらさらに興奮し、ふかふかの芝生の上をずんずん進んでいきます。お盆の真っ最中で人は少なく、手綱を離しても支障なく好きなように歩かせてやりました。30分ほど歩き結構疲れましたが、りくは元気いっぱいでした。持って行ってよかったのはなんといっても水筒。父が病院で使っていたものですが、カップに水を入れてやると飲むわ飲むわ、これがなければ大変でした。
いったん車に戻り、民家園の駐車場へ移動。民家園はりくは入れないので兄とお留守居してもらいました。兄は何度か来ているので私だけ入園、といっても無料なのは驚きでした。江戸時代から明治にかけての福島県北地方の民家を中心に、芝居小屋や商人宿等10棟ほども復元されており見ごたえのあるものでした。特に旧広瀬座という芝居小屋は圧巻で、これで舞台が中央にせり出していたら、エリザベス朝の白鳥座みたいだとぞくぞくしました。イベントとして時折、実際に歌舞伎の公演や映画上映会が開かれているようで一度見てみたいものだと思ったほどでした。りくと兄が待っていると思うと全部は見学できなかったので、またゆっくり来ようと思いました。
外に出て見回すと兄とりくがベンチで休んでおり、りくは私を見つけて手綱をつけたまま跳んできました。いつものように一か月ぶりの再会かと思われる歓待です。それから、子供たちでにぎわうアスレチックフィールドを通って、妖怪伝説のある室石を見て帰宅しました。たくさん歩いたのでおなかが減ったらしく、りくはその日の夕飯をたんと食べました。いつもの3杯ほどなのに、ドッグフードにベーコンのトッピングで5杯をぺろりとたいらげました。りく、今日はいい夏休みになったね。
2014年8月28日木曜日
2014年8月23日土曜日
「謝りたい」
8月は鎮魂の季節です。先日報道された2つの慰霊祭が心に残りました。一つは原発事故後、警戒区域に残されて死んだ牛たちの慰霊祭、もう一つは終戦直前に行われた秋田の土崎空襲の慰霊祭です。この時、マイクを向けられた方が奇しくも同じ言葉を口にしました。
前者は、「置いてきてごめんねって、謝りたい。」とかつての酪農家のおじいさんが涙ながらに語っており、後者は、空襲で避難する人々に水あげていた家の人で、事情がよく呑み込めなかったのですが、赤ん坊を背負ってやってきた母親の赤ちゃんをふと見たら首がなかった、そのことを母親に告げることができなかった、「教えてあげればよかった、謝りたい。」と、こちらも涙ながらにおばあさんが語っておりました。
前者は生き物を置き去りにして死なせてしまったとはいえ、他にどうしようもなかったのは明らかですし、後者は赤ちゃんの死には何ら責任がないながら、母親の心情に寄り添えなかったことに罪の意識を感じているのです。もちろんどちらのケースに関しても、そこまでの罪悪感を感じない人も多いでしょうが、こういう場合にも申し訳なさを感じる人間がいるということになぜか救われる気がするのです。
こういった悲しみや苦悩は償いようがないのです。神様に赦してもらう以外、癒されようがありません。まさにこの時、思いもしなかったしかたで、人は心のどこか深い淵で神様に出会うのではないでしょうか。
詩編51編3~4節
神よ、わたしを憐れんでください
御慈しみをもって。
深い御憐れみをもって
背きの罪をぬぐってください。
わたしの咎をことごとく洗い
罪から清めてください。
・・・・・・・
9節
ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください
わたしが清くなるように。
わたしを洗ってください
雪よりも白くなるように。
2014年8月22日金曜日
「世代論」
同世代の友人と話していて気づくのは、若い人たちに対して非常に良い印象をもっていることです。これは私も同感で、若者の代名詞とされる「無礼」や「生意気」という側面が感じられず、「礼儀正しく」「素直」といった態度が顕著に見られます。ここでいう若い人というのは10代、20代の人たちで、いわば一世代おいて次の世代の人たちです。
以前同窓会で上の世代の話になった時、学校などではまだ嘱託という形でその世代の方々は働いていらっしゃいましたが、ビジネス界ではさすがにもう引退しているとのことで「へえーっ、まだいるの?」と驚かれ、皆なんとなく口が重くなったのです。我々の世代は上の世代の政治運動、社会運動を見て育った世代ですが、特にその終わり方があまりに無残で情けなかったため嫌悪感を禁じえませんでした。にもかかわらず、「なぜ君たちは僕らの運動をひきついでくれないのか。」的な無言の圧力を感じて、ほとほと嫌気がさし煙たい存在として遠ざけたのです。だからこそ、木枯らし紋次郎が「あっしには関わりのねえことでござんす。」という台詞を呟いた時、我々は拍手喝采を送ったのでした。無論、上の世代からは我々は無気力・無関心・無責任の三無主義の世代として疎んじられておりました。
そして下の世代はというと、我々にとってはこれまた頭の痛い存在なのでした。「新人類」とはよく言ったもので、それなりに常識に縛られていた世代からすると目が点になるようなことがよく起きました。この世代にとっては我々はウザい、目の上のたん瘤だったにちがいありません。
接する世代間同士は互いに相手が苦手だというのは紛れもない事実で、これはある意味いたしかたないことでしょう。今の若い人たちは、実年齢では孫の年代ではありませんが、心情的には程よい距離があり、なおかつ態度がよろしいので好感が持てるのです。しかし、若い人が、素直で従順というのはいいことなのかどうか。一般的に若者がそうなっているのだとしたら、これは社会における生き残りの戦略に相違なく、社会自体がこれまでになく厳しい状況になってきたと言えるのかもしれません。
2014年8月19日火曜日
「モンテーニュの『旅日記』」
モンテーニュの「旅日記」を少しずつ読んでいます。なるべく物を増やしたくないので図書館で借りて読もうかとも思ったのですが、手元に置いてもいいかなあと思い直し購入しました。理由は貸出期間内に読み切れないかもということ、また、彼の生きた時代がシェークスピアの時代とかぶることに気付いたからです。シェークスピアがイギリスを出て外国を旅行したという記録は全くありませんが(逆に出ていないという証拠もありません。)、戯曲の舞台として出てくる外国の状況を、現実と合っているにせよ合っていないにせよ、どのようにして知ったのかは大きな謎です。「旅日記」は1580年に書かれたものが、1774年に出版されたのが最初のようですから、シェークスピアが読んだ可能性はないのですが、いずれにせよ、彼の時代のヨーロッパ大陸はこんなふうだったのかと想像してみるだけでも楽しいものです。(意外に知られていないことですが、この本は途中までモンテーニュの秘書によって書かれたことになっています。モンテーニュ自身が書いた後半部分と筆致がとても似ているので、前半は秘書が書いたという記述を疑問視する人もいるようです。)
まだ途中ですが、この本を読んで認識をあらたにしたことがずいぶんあります。一つはヨーロッパにおけるドイツ圏のレベル。私の印象ではドイツ圏というのはヨーロッパの壮大な田舎であり、文化的にも生活水準も他の地域より若干劣ると思ってきたのですが、どうやらこれは全く思い違いだったようです。モンテーニュはドイツ圏の街々の豊かさ、美しさにしきりに感嘆しています。ガスコーニュでも見たことのないほどの立派なブドウ畑や美しい広場、家の造りの工夫(例えば暖房システムや急な傾斜の屋根)、清潔な暮らしやおいしい食事など、「我が国にはない」、「我が国より上である。」といった感想が満ちています。歯車を使った焼き串や湾曲した水管(だったかしら、すでに記憶が曖昧・・・)といった職人の手による珍しい機械や面白い装置類なども興味深く調べてほめそやしています。ドイツ圏からイタリア圏に入る時には快適だったドイツを去るのが名残惜しかったようですし、実際フィレンツェではおいしく豊富だったドイツの食事を懐かしんでいます。
もう一つは宗教に関してです。当時はルターの宗教改革から60年ほどした頃にあたりますが、旧教と新教がさまざま入り組んだ宗教事情ではあるものの、思った以上に緩やかに共存しているらしいことです。ツヴィングリ派の牙城とも言える地域もかすめていますが、地域内でさほど宗教的軋轢があったようには見受けられません。信教が違う男女間での結婚も普通に行われ、より熱心な方の宗旨に従うことも一般的だったようです。
「旅日記」を読んでいると気が晴れるのは、47歳という当時としても長旅をするには決して最適とはいえない年齢でしかも持病もちのモンテーニュが、まるで「地球の歩き方」を持ったバックパッカーのように「何でも見てやろう」という精神で快活に旅していることです。若干細かすぎる指摘もありますが、曇りのない目で見たことをのびやかに描いていて好感が持てます。こういう書きぶりは真に人生を楽しんでいる人にしかないものです。
2014年8月18日月曜日
「休ませてあげよう」
STAP騒動でのS氏の自殺は大変ショックなことでした。所属するR研は当初から組織への傷を最小限にすべく画策していた姿勢が顕著でしたが(「研究不正はO女史一人」と断じていた。)、残念ながら、やはりかなり問題のある組織のように思われ、死ななくていい人を死なせてしまった感があります。3月に辞任を申し出たときもそれを認めず、自殺する10日前ほどからは「ディスカッションが成立しない」という状態だったのに、役職を解くなど迅速な対応がなされずこのような事態に至ったのです。亡くなった時の報道で、センター長が「もう少し我慢してほしかった。」と述べていたのを見て唖然としましたが、さらには6月の改革委員会の提言をまともに検討しなかった理事長もやはり組織を最優先で考えていたのだろうと思います。上司の仕事というのは突き詰めれば、「部下がきちんと働けるよう目を配る」ということに尽きると思いますが、その最終的な形として「辞表を受け取る」という役割があります。直属の上司が機能しないとしても、ほかに誰ひとり「とにかく休め!」という人はいなかったのでしょうか。皆なすすべもなく座視しているだけだったのでしょうか。精神科医も含めて、「この人だけは自殺はない。」と思っていたのでしょうか。
遺書の内容が断片的に伝えられていますが、「もう限界を超え、精神が疲れはてました」、「もう心身とも疲れ、一線を越えてしまいました」、「こんな事態になってしまい、本当に残念です」、O女史に対しては、「私が先立つのは、私の弱さと甘さのせいです。あなたのせいではありません」「自分をそのことで責めないでください」、「絶対、STAP細胞を再現してください」、「それが済んだら新しい人生を一歩ずつ歩みなおしてください」という文面を見ると、この期に及んでこんなきちんとした遺書が書けるとは、日本最高峰の頭脳の恐ろしささえ感じます。
私が思うのはただ一つ、休ませてあげたかったなあということです。ここまできたら休むのに許可などいらない、診断書を出してただ休めばよかったのにと気の毒でなりません。具体的な雑事に取り込まれている時はそれ以外見えないことが多いのですが、休んでみれば他の道はいくらもあったでしょうに。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
私にはこの箇所は文語訳の方がしっくりきます。
「すべて労する者、重荷を負ふ者、われに来れ、われ汝らを休ません。」
イエス・キリストは人の世の苦しみや悲嘆をご自身も経験された方です。人間の苦悩をつぶさに見てこの言葉を述べられたのです。S氏がこの御言葉を聴くことができればよかったのになあと残念でなりません。
2014年8月12日火曜日
「少女よ、起きなさい」
少し前にクリスチャンと仕事について書いた時、仕事と信仰に接点はないと述べましたが、勤めていた頃を振り返って例外的にあった接点を1つ思い出しました。99の失敗や失望の中でやっと1つあったよかったことです。
担当クラスに一人過年度生がおりました。彼女が留年した理由はひどいアトピーが原因でした。もちろん治療もしておりましたし、長期の休みには療養もしていたのですがいっこうによくならず、欠席が増え単位を修得できなかったのです。確か1年生を2回やり、2年から3年にはなんとかぎりぎりで進級できたものの、3年になりまた病状が悪化して学校に来られない日が続いていました。
すでに大幅に欠席日数の限度を超えており卒業は絶望的でしたが、担任として本人やご家族と連絡を取り、本人の状態を会議で定期的に報告していました。卒業を認定する会議が近づいてきて、会議で報告するために家庭訪問を行うことにしました。住所から近くまで来たのですがなかなか家がわからず、うろうろしながら探していますと、ずっと間断なく或る音が聞こえることに気づきました。ピシャピシャというその耳慣れない音が、人が肌をたたく音だと気づいた時、私は慄然としました。
「これは地獄だ・・・」。
生徒がかゆみに耐えかねて自分の肌をたたいている音によってその子の家がわかるとは。この生徒はずっとこうして一日を過ごしていたのです。
学校に帰り学年の先生に見てきたことを話し、「この生徒のことも卒業認定会議の俎上に載せてほしい。」と言いました。欠席時数オーバーといってもそれがわずかな時数なら事情によっては卒業が認められるのですが、この生徒の場合は通常会議にもかけられないくらい時数が多かったのです。話し合いの末、俎上に載せることに同意をもらいました。
「会議は通らないだろう。でも話だけはしておきたい。」というのが私の気持ちでした。ピシャピシャというあの音が耳を離れません。これから高卒の資格もなしに社会に出たらあの子はどうなってしまうのだろう。これまで4年間在籍した学校として何かできることはないのか・・。
生徒本人と保護者には、これまでの事例から卒業は難しいだろうことは告げてあり、両者ともやむをえないこととして納得していました。本人も保護者もうなだれてなんと弱弱しかったことか。ああ、彼女を誰も救うことはできないのか。イエス様が一言、「タリタ・クミ(少女よ、起きなさい。)」と言ってくださればこの子は起き上がれるだろうに、と思うしかなかったのです。
会議の前日、人望もあり頼りにしていた学年団の同僚が言いました。
「川辺野さん、気の毒だけどあの子は卒業できないよ。」
彼なりに他の同僚と話をしつかんだ感触だったのでしょう。
「うん、わかってる。」
翌日の会議は長時間に及びました。事実関係の説明をし、質問に答え、自分の意見を述べました。こんなに大幅な欠席時数オーバーを会議に持ち出すこと自体非常識だという意見もありました。もっともなことです。私の説明が長すぎると一括する人もいました。確かにそうでしょう。この時学年代表が「担任の最後の言葉を聞いてあげてください。」と静かに言ってくれたのはうれしかったな。
結果は多数決で決まるのですが、信じられないことに「卒業を認める」との決定でした。これが波及する影響を心配する人もいましたが、今はこの生徒をどうするかということが重視されたのです。私は心の中で快哉を叫び、心から神に感謝しました。あとで聞いて驚いたのは、この生徒の卒業が認められたのは担任の弁が立ったからだと、まるで舌先三寸のように思った方がいたことでした。話すのが苦手な私の言葉が会議の時には通じたのだとしたら、それは神様の力添えがあったからにほかなりません。
2014年8月7日木曜日
「疲労と体調管理」
検診の待ち時間に手に取った雑誌に女性の疲れについての特集がありました。「疲れがとれない女性が増えている。」、「49歳~55歳は一番の難所である。」等、ごく常識的な話ではありましたが、あらためてなるほどと思ったこととして、「何かを集中してやることは疲れを増すので望ましくない。いろいろなことに気を分散して行う方がいい。」との記述もありました。集中力というのは私の中でずっとプラスの価値を持つ性質だったので、最近集中力の低下を嘆いていたのですが、これを読んで集中力がなくなるのも体の要請だったのかと思うとあきらめがつく気がしました。
もう一つ目から鱗だったのは、「疲れは気持ちを引きずることから起こる」という指摘でした。やってしまった自分の言動が気になってたびたび考えてしまう、ということがよろしくないと。そしてそれは他人の評価を気にすることから起こるとのこと、そうだったのかと思いました。
疲労回復物質として、乳酸の分解を促進し抗酸化作用をもつイミダゾールジペプチドというのがあるそうで、これは鶏の胸肉に多いとのこと。最近食べる鶏肉は、こってりしたもも肉からさっぱりした胸肉に移行していたのですが、まさかという気はしますが、これも体の要請だったとしたら人体というのはすごいものです。
2014年8月5日火曜日
「紅春 48」
父が亡くなったということをりくはどうとらえているのか・・・これは私にも謎です。父の強烈な記憶があるはずなのに、一見したところ寂しそうだとか物思いにふけっているような様子はありません。勤めていた頃たまに帰省する私を「長旅に出ている群れの仲間」と認識していたように、父のこともそう思っているのかもしれません。もし再び現れるようなことがあれば欣喜雀躍して歓待をすることでしょう。また逆に、ひょっとすると犬にとっては眼前の現実がすべてなのかもしれませんが、本当のところはわかりません。
りくにとって生活が変わったのは確かで、私がいないときは昼間は一人になってしまいました。東京でそれを思うと可哀そうでいてもたってもいられなくなるので考えないようにしています。兄が昼間家に戻れるときはできるだけ来るようにしているとのことですが、りくはだいたい寝て過ごしているようです。話を聞く限り、りくはそれなりに順応しているようなので、「あの子は賢いから。」と思って自分を納得させています。
私は6時前にりくと散歩に出ますが、私がいないときは散歩の時間が1時間以上遅くなります。いなくなった翌朝にはりくは階段の下で兄に「散歩に行こう。」とわんわん声をかけるそうですが、兄が布団の中で完全無視を決め込むと翌日からは兄が起きてくるまでおとなしく待っているといいます。また、昼間寝ているのでりくは夜眠くならず、夜中も散歩に連れ出しているとのこと、ご苦労様です。
私がいるとりくはべったりひっついていて、時々くんくんと甘えた声を出しながら「遊ぼう。」とか「散歩に連れてって。」とか言ってくるのですが、これも兄だけの時は兄の食事や用事が済むまでおとなしく待っているとのこと。要するに私がいるとりくは甘えきったダメ犬になるのです。りくのしつけには私がいない方がいいのかもと思うほどですが、もうこうなったら私がいる時は好きなだけ甘えさせてやろうと思います。
2014年8月1日金曜日
「クリスチャンと仕事」
先日、クリスチャンの方から仕事と信仰の接点についてお話を聴く機会がありました。ビジネスや一般的ないわゆる文科系の職場はなんとなく想像がつくのですが、その方は科学者でしたので理科系の職場はどんなものだろうと興味をもって聴きました。しかしお話を聴いて、やはりと言おうか、そこも他と全く変わりない世界だとわかりました。それどころか、むしろ他の分野より自らが信じる職業倫理を貫くのが困難な社会ではないかと思いました。そういう気はしていたのです。昨今のSTAP細胞騒動や製薬会社N社の社員による大学におけるデータ改ざん事件などをニュースで聞くにつけ、「あそこまでの問題が起きるにはその背後に同様の事例が山ほどあるのでは・・・」と感じていましたが、やはりそのようです。
退職して以来、職業に就いていれば避けることのできない倫理上のストレスから解放されたことが、何より一番ほっとしたことです。それなりに自分に許せる範囲で仕事ができている時はいいのですが、時折「これを許してはならない。」とか「これが通るならここで働くことに意味があるのだろうか。」と思うことが起きます。
情けないことですが、仕事についていた間私の信仰生活はまさにあって無きがごときものでした。仕事上の問題を信仰的に解決するなどということは到底望めない机上の空論のように感じていました。他のクリスチャンはどうしているのだろうと思っていましたが、例外的にできている方はいるのでしょうが、今回お話を聴いてわかったのは、あえて身もふたもない言い方をするなら、「仕事と信仰に接点はない」ということです。仕事はこの世の論理で動いており、それは神の論理とは違うのですから当たり前なのです。仕事で職業倫理を貫くことは時に非常に困難で、本当に貫こうとすると苦悩の中にまっさかさまというのが普通のことなのです。
ただ、だからこそ神様の言葉を聴きたくなるということは言えるでしょう。実行できないまでも、一点ででも神の言葉によって示される世界に接していないと仕事をする意味自体がなくなるからです。
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