2014年4月30日水曜日

「コピペ問題」


 STAP細胞騒動で学生諸君はコピペがどれほどの災厄をもたらすか身に染みて思い知ったことと思います。例の件ではあまりにわかりやすいお粗末さが、インターネットの集中砲火を浴びてあっという間にあらわにされてしまいましたが、この問題はそれほど簡単ではないなという気がします。

 まず、言葉で述べられる以上、言葉自体をオリジナルなものにするわけにはいきません。日々女子高校生が生み出しているような言葉で書けば誰も理解することができないのは言うまでもありません。また、書かれる論文はこれまでの先人の研究成果の上になされるのですから、少なくともそこまでは独創性に出番はありません。ニュートンでさえ、「私はガリレオという巨人の肩に乗っていたから遠くまで見渡せた。」というようなことを言っていたはずです。ですからこの部分は手際よく自分の言葉でまとめるか、すでにまとまっているものを引用と明記して使うしかないことになります。学生ならこれも勉強になるかもしれませんが、この部分にあまり力を割きたくはないでしょう。

 問題はそこから先ですが、何百何千という研究者がしのぎを削っている中でそうそうオリジナリティに富んだ大発見があるわけではないだろうし、或る現象から全く違った結論が引き出されることもそんなにはないだろうから似たり寄ったりの結論になるのではないでしょうか。つまり真に書かれる価値のある論文はそれほど多くはないだろうということです。

 文科系の学問ならいっそうその傾向は高まるのではないかと思います。私などは、「あ、これこそまさに私が書きたかったことを、私以上に的確に書いてくれている。」と思うことが(ごくまれにですが)あります。これが高じると、「自分で書く以上に自分の書きたいことを代弁してくれているのだから、自分の文章と同じではないか。」まであと一歩、コピペに走る気持ちもわからないではないのです。各大学では学生のレポートの「コピペ率を測定する」ソフトを導入していると聞きますが、たぶんその上をいく「単語を差し替える」ソフトやら「文章の構成を換える」ソフトだってあっても不思議はありませんから、そうなるともう「自分の文とは何なのか」ということは自明のことではないように思うのです。

2014年4月25日金曜日

「母の昭和史」(続き)


 さて、三年生になって須賀川に引っ越し安積高等女学校に転校しましたが、ここの校風は質実剛健で福女では許可されたレインコートも贅沢だとして注意を受けました。ここでは、担任の先生が出征し、戦死して校葬を行うという悲しいことがありました。集会では時局講話というものがあり、戦争状況の説明を聞きました。当時の学校の状態は今から見るとのんびりしていて、試験発表は一週間前でしたが、それより前に始める人はまれで、また答案も返されませんでした。女の先生は洋服と着物の先生が半々くらいだったそうです。四年になって卒業式には、仰げば尊しは歌いませんでした。おそらく戦争状態においてセンチメンタルだという理由でしょう。

 母は先生になりたかったし給付制度もあって学費も出してもらえたので、師範学校に進みました。全寮制で、上級生・下級生の区別が厳しく、何かと狭い範囲にとらわれていました。このころ食料が悪化し、山に雑草を採りに行って、それを賄いのおばさんに作ってもらったりしましたが、だんだんおかゆになってゆき、水とんになったりもしました。

 昭和十九年、サイパン島の日本軍は全滅し、戦況はいよいよ悪化し、学徒動員が行われ、母も前橋の中島飛行機工場で旋盤工といっしょに働くようになりました。福島を発つときに教会の先生のところに挨拶に行き、
「いつ帰りますか。」
と聞かれて、母は教えられていた通りに、
「勝利の日まで。」
と言ってきたのだと恥ずかしそうに言いました。中島飛行機工場には桐生高校の生徒たちも動員されていて、飛行機のねじの一つを作り皆は一機でも多く作ろうと意欲に燃えていました。というよりは燃やされていたという方が適当でしょう。しかし実際には大部分がおしゃかだったということです。工場で作業していて空襲警報が出ると防空頭巾をかぶり、薬や食料の入った袋をさげて逃げたのですが、一度などは敵機が頭上にあって機銃掃射を受けるのかと死を覚悟したこともあったそうです。うちからは配給のだんごなどを送ってきましたが、軍送の途中で中身が抜き取られて無事に届くということはめったにありませんでした。中身がとられてガサガサになったものを受け取る時、せっかく無理をして送ってくれたのにと、情けなく悲しい気持ちになるのでした。

 やがて材料も尽き、福島に帰って沖電気で受信機のはんだ付けをしばらくしましたが、前橋が空襲にあったのはそれからしばらくでしたから、実に危ないところだったのです。その頃の話を二、三あげると、特高の思想統制が厳しく、教会にも土足で入ってきたそうです。或る教会員の方は、「眼鏡をとれ。」と言われ、殴られるのを覚悟しましたがたまたまその上司が教会員だったために免れたということです。また、母のいとこが東北帝大の理学部にいたのですが、三日間不眠不休で殺人光線の研究をさせられて、朦朧となってよろけた拍子に電流に触れ感電死してしまったということもありました。

 昭和二十年、アメリカ軍の硫黄島、沖縄上陸で日本の敗戦はもう必至でしたが、広島ついで長崎に原爆が投下されついに終戦を迎えました。その時母は、平和通りを広くする作業をしていたのですが、重大発表があるということで集められ、「各自仕事に励むように」という話だろうと思っていると、それが敗戦の知らせでした。母は「この先日本はどうなってしまうのだろう」という気持ちでいっぱいでした。皆は黒い長袖の服から白い半袖の服に着替えて、「現金なようだね。」などと話しながら、洗濯場でゆっくり洗濯したそうです。当時はイギリス人、アメリカ人は冷酷無残なものとして「鬼畜米英」という考えが植え込まれていて、米英の手にかかったら舌をかんで自害するようにと教えられていました。戦争直後が一番ひどい時期で、食べる草もなくなり、教生に行った最後の日に懇談会をもった時には炊くものがなくて、敗戦によって不用になった掛図を燃やして語り合ったことが印象に残っています。

 翌二十一年は天皇の人間宣言があった年ですが、その三月に卒業し、須賀川第二小に赴任しました。戦後はあらゆるものの価値観が変わりましたが、教育もそれに漏れず形式的にもあれ民主化され、そういう混乱期に母は十九歳という若さで子供たちを教えたのでした。母は国語と図工を教え、また先生がいなかったため免許なしで音楽も教えたそうです。その頃アメリカから、衣類や脱脂粉乳など多くの物資が宣教師の先生のところに送られ、その援助を受けて本当に助けられたそうです。アメリカから宣教に来ていて戦争状態が悪化したため本国に帰っていた、ミス・アンダーソンも再び日本にやってきて再会を喜び合いました。

 そこに四年半くらいいて小名浜二中に転勤。さすがに浜の方は気が荒く、先生は容赦なく生徒を殴ったので、母は初めてそれを見たときには、びっくりして泣きそうになり家に帰ってしまったことがあるそうです。しかし生徒はそれを当然のこととして平気でしたし、現代と違って親から文句が出るということもなく、逆にそれを肯定するくらいでした。また親の方も先生だと思って、そんなに若かった母にも生徒のことばかりでなく家庭の事情や経済的なことを相談に来たりしました。食料事情はまだよくなく、農繁期には学校が休みになってその間に職員旅行をしたそうです。個々の人柄は、率直で奔放で裸の付き合いと言いましょうか、とにかく思いで深いところでした。

(中略)

 今まで、戦争の時代を歩んだ母の歴史をざっと綴ってきました。最後に私は政経の先生がおっしゃったことを試してみました。
「教育勅語言える?」
「もちろん、言えるわよ。」
「言ってみて。」
「朕惟フニ、我ガ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト・・・」
と威勢よく始めた母でしたが、二行目から三行目を飛ばし四行目にいってしまいました。私は笑いながら、
「間違ったわよ。よかったわね。忘れているということは幸福であるということで、はっきり覚えているということは、それだけ戦争の傷が深かったということなんですって。」
と言うと、母は
「そういうことになるのかしらねえ。ちゃんと覚えていたんだけど、もう三十年もたったのね。」
としみじみと言って、なにはともあれ、母と私は現在の幸福を感じたのでした。

今読むと、まるで小学生の作文で愕然としますが、この単純で平易な二分法思考こそ、うらやましいほどの幸福な時代の証だと、今懐かしく思います。

2014年4月23日水曜日

「母の昭和史」


 高校3年生の時、日本史の授業で「母の昭和史」を書くという課題が出たことがありました。これは実際に母親に聞き取りをしてそれぞれが提出し、全員分のが冊子になりました。ずいぶん前に探した時その冊子がどうしても見つからず、「とっておけばよかったなあ。」と思っていましたが、家の整理をしている時自分の原稿が出てきました。書いてから母に渡したのでしょうか、母がとっておいたのです。今読むと、こんな走り書きでよかったのだろうかと思うのですが、貴重な記述なので残します。

 私の母は、昭和三年に七人兄弟の最初の子として福島の曾根田でうまれました。当時、日本は金融恐慌がしずまったばかりで日本経済は恐慌、不況の状態が続いていました。そのため、満州権益を維持するために差山東出兵が行われ、続いて満州某重大事件(張作霖爆死事件)が起こったころのことです。それに続く世界恐慌、満州事変、五・一五事件などは幼かった母の記憶にはありません。母の父は福島区裁に勤務しており、母は男子師範付属小学校に二年までいましたが、二本松勤務になり二本松第一小学校に通うようになりました。二本松は城下町でしたから、封建的伝統が残っており、少し違和感を感じたそうです。週に何度か拘束を言わせられました。それは、「真面目で根気よくあれ、素直でしとやかなれ、みんなとともに正しく進め」というものでした。また、四大節には、校長先生が奉安殿から天皇陛下の御写真を恭しく取り出し壇上に飾り、生徒たちは紅白のまんじゅうをもらって喜んで帰ったりなどしました。昭和十一年には二・二六事件が起こり、五・一五事件によって崩壊した政党内閣が、軍と一体化となり軍部ファシズムの体制は固まりました。また、国外においてもイタリアのエチオピア併合、ドイツのヒットラーの独裁体制、再武装宣言と、次第に戦争の機運が高まってきました。昭和十二年にはついに、蘆溝橋で日中が衝突し、日中戦争が始まりました。そのころ小学四年生だった母は、子供ながらも、ただならぬ気配を感じたそうです。当時、上海や南京など中国の都市が陥落するたびに、それを祝って旗行列や燈灯行列が行われ、戦争は美化されました。教科書も「ススメ ススメ 兵タイ ススメ」とか、「水平の母」などといった戦争を賛美するものでした。日本松第一小学校を卒業する時に母は大内大佐遺族賞としてお免状と硯箱を戴きました。大内大佐というのは、二本松出身で大佐になって戦死した当地では有名な人なのでしょう。

 昭和十四年は、第二次世界大戦が始まった年ですが、その翌年に母は福島県立福島高等女学校に入学しました。当時の願書には、氏族または平民と記入し、また宗教を書く欄もあり、今考えるととてもおかしい気がします。義務教育は小学校までで、その後は高等科に入ったり、町立の実科女学校に入ったり、あるいは就職、家の子守など様々でした。女学校では良妻賢母の教育を受け、母は特に修身の時間がきらいでした。ある程度批判的にではありましたが、女大学的精神を教えられ反発を感じたそうです。昭和十六年には日本は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が勃発。二本松から汽車で通う生徒たちは、上級生が先頭になって一列に並んで学校まで行くことになっていましたが、その朝、民報社の前には「八日未明、真珠湾において米英両国と戦闘状態に入れり」と大きく書かれ、生徒一同は来るべきものが来たかという感を強くしました。母は二年まで福島にいましたが、その時に、東京女高師を出たばかりの若い先生にお習いし、その影響を受け、女子高等師範でのお話を聞いて、母も断然行きたくなってしまったのだそうです。しかし結局、迫る戦争の危険と経済的理由のためにこの夢は実現しませんでした。後に先生になってから受けようと志したのですが、子供に真剣に教えようとすれば自分の勉強をする時間などなく、また母の給料でうちを助けていましたから、とうとうあきらめてしまったのだそうです。だから母は私たちに
「行きたいところに行きなさいなんて言われて幸福だわね。」
と言います。私はそんなことは当たり前のことのように考えていましたが、よく考えてみると本当に幸福だと思います。世の中にはかなわぬことが多いのですが、でもやはりこういったことは格別つらいことのように思われます。
(続く)

2014年4月19日土曜日

「懐かしの少女小説」


 先日久しぶりに本屋さんに行ったとき文庫の棚の下に平置きになった「赤毛のアン」を見つけました。このように並べてあったのは朝の連続テレビドラマの影響なのかもしれません。「へえーっ。」と驚いたのは文庫が出ていることそれ自体と、これを文庫で読む人がいるのかということでした。

 少女小説という言葉があるのかどうか知らないのですが、「赤毛のアン」は日本ではかなり特殊な位置にある本だと思います。小学校からおそくとも中学校までのごく限られた時期に、女子のみによって読まれ、しかも激しくのめり込む一部の人がいる一方で、大多数の人は読んだことさえあからさまに口にしないといった状況だったように記憶しています。

 それもそのはず、この本の主題はずばり「コンプレックス」なのですから。この本に心酔してシリーズをたどっていったり、プリンスエドワード島に憧れていた友達のなんと天真爛漫だったこと。大多数の人はコンプレックスと向き合いたくはないのです。人生で最もありのままの自分と向き合いたくない時期ですし、自分の短所はいやというほどわかっているのですから。

 「赤毛のアン」で私が覚えているのは「マシューっていいおじさんだったよな。」ということくらいです。今の小学生もこの本を読んでいるのでしょうか。そうだとしても、色彩豊かなイラストの入ったハードカバーの本でしょう。あの文庫版はきっとかつての少女たちのために用意されたものだと思いました。

2014年4月16日水曜日

「日米の子育て法」


 勤めていた頃、定期試験の監督は退屈でしたが国語の問題を見るのは楽しみでした。ある時、こんな話が題材になっていました。

 アメリカから来た女の子が、同じ年齢の女の子がいる日本の家庭で1年間ホームステイにを体験した時の話でした。朝は二人が寝ている部屋に母親が来て、さっとカーテンを開け、
「パンパカパーン、朝ですよ。起きてください。」
と声を掛け、朝ご飯を食べさせて二人を学校に送り出すという毎日でした。

 その子が帰国し、今度は日本の女の子がその子の家にホームステイをした時のことです。一緒の部屋に寝起きし、目覚まし時計で起床し、自分たちでシリアルの朝食を済ませて学校に行くという生活でした。何日か過ごすうち、何かのきっかけでアメリカ人の女の子が切れて、母親に食ってかかったというのです。
「お母さんはいっつも『自分でやりなさい』と言う。でも日本のお母さんは愛情を出し惜しみしたりなんかしない。」と。
作者は、「これは文化の違いでどちらがいいとか悪いとかいうものではない。」と結んでいましたが、考えさせられる話でした。

 これは赤ちゃんへの接し方の習慣の違いからくるものが大きいのではないかと思います。アメリカでは生まれた時から赤ちゃんの寝室は母親とは別と聞きますが、日本では家が狭いこともあって大抵一緒に寝るのではないかと思います。一度母に、
「赤ちゃんを夜一人の部屋で寝かせることってあった?」
と聞いたことがありますが、一蹴されました。
「そんなことできるわけがないでしょう。何か起こるのはいつも夜なんだから。」
喘息だった兄を育てた実感なのでしょう。問題は赤ん坊を一晩一人でおけるかどうかという判断は多分に心情的なものであり、そこにはやはり個に対する日米の考え方の差が関わっているでしょう。今では日本こそ別の意味で「個」が確立してしまった感があり、どれほどの家庭で親が子供に朝食を作っているのかちょっと疑問です。

2014年4月12日土曜日

「家の整理」


 このところ、自宅でも実家でも物の整理・処分ばかりしています。自宅の方は退職した時にかなり処分したのですが、その時の基準は「手近に置きたいものを除いて図書館にあるもの、お金で買えるものは処分する。他人が作ったもので貴重なもの、自分で作ったものでも再生が困難なものは残す。」というものでした。書物はほとんどなくなりましたがものを読む気力が低下したせいか支障はありません。他人や自分が作成したプリント類で今残っているものをみると、「あの時はまだこれが必要になるかもしれないと考えていたのか・・・」と思うようなものばかりで、今では全く不要なものです。

 相当昔の海外旅行の資料など何でもとってあったのには自分でも驚きましたが、もう書いて残しておきたいことはだいたい書いたし、これも処分です。自分が死んだ後に残ったら困るもの、昔の書き物や日記、古い郵便物の類も処分です・・・と、まだ終わってはいませんが方針はたちました。

 自分のものはそれでいいのですが、問題は実家の方です。父と母の30年分の品々がうずたかく堆積しています。母が亡くなって12年になりますが、父が生きていたついこの間、母の自転車を処分しようかと聞いたら「まだいい。」と言っていたのですからどれほど困難な仕事かわかっていただけるでしょう。場所を決めて、「今日は押入れのこの部分」、「今日は天袋」とがんばっているのですが、なかなか進みません。

実家での整理方針は、「利用できるものはできるだけ利用するが、どう考えても誰も使わない、役に立たないものは捨てる。」というものです。衣類はかなり捨てましたが、1回だけ「古着deワクチン」を利用しました。これは着払いの送り状を購入して衣類を送ると発展途上国の子供たちにポリオワクチンを寄付できるというものです。

 ダウンの寝具や大量の打ち綿が出てきたときはもったいないのでクッションに作り替え、和紙や母の書いた色紙が出てきたときはふすまを部分的に張り替え、というようなことをしていると、たびたび整理は中断し遅々として進まないのですが、たぶんこれこそが故人を偲ぶという行為なのだろうという気がします。故人が書いた原稿や手帳、故人宛ての郵便物の扱いは困りますが、これも段階的に心を鬼にしてやらねばならないだろうと思っています。

2014年4月9日水曜日

「紅春 43」


 春の風物詩、狂犬病の予防注射に行ってきました。これまでは父がやっていた仕事です。もともとはもう一日遅く福島に帰って、翌日の注射場所に行くつもりだったのですが、そこは小学校より遠く1キロ以上離れているので一番近い場所に行くことにしたのです。

そういえば、小学校6年の或る土曜日、「今日は学校が終わったらすぐ帰ってきてね。」と母に朝念を押され、帰るとその足で一緒に犬を連れて再び学校方向にとって返し、神社の境内で行われていた予防注射をしてきたのがその場所でした。今思うと、母もあそこまで一人で犬を連れて行く自信がなかったのでしょう。

「りく、注射に行くよ。」 
開始時刻の15分前くらいに家を出て、今日は道草を食わないようにしながら集合場所に行きました。いつもと違う雰囲気にりくは勢い込んでぐいぐい進んでいきます。集合場所に着くと、注射はもう始まっていました。獣医は2人。終わった犬はどんどん帰っていくのでその場にいたのは数匹ですが、最近の傾向なのか小型犬が多い。なんとそこではりくが一番大きいくらいでした。小型犬は注射の時、怖いのか、本当に痛いのか、キャンキャン鳴いて阿鼻叫喚の様相を呈していました。りくは物怖じしない様子でいましたが、獣医が注射器を持って迫ってくると逃げ腰になりました。
「だっこします。」
「だっこがいいですね。」
だっこしたまま後ろを向けるとお尻のあたりにチクッとされておしまい。りくは一言も発しませんでした。
「おりこうさんでした。」

 まっすぐ帰って寝かせました。今日は大丈夫でしたが、6月ころ動物病院で行う3種混合ワクチンの注射の時は幾度か具合が悪くなったと聞いていたからです。りくはりくなりに疲れたようで、鼻を抱え込んで午後はぐっすり寝ていました。

2014年4月7日月曜日

「メディア疲れ」


 このところ世間を騒がせた話題が2つありました。S氏のゴーストライター事件とO女史のSTAP細胞捏造疑惑です。前者の記者会見には200以上のメディアが殺到したようで或る外国メディアの参加理由は「おもしろそうだったから。」ということでした。 両者の共通点は「普通こんなことはないだろう」という盲点をついた並外れて非常識な事件であることと、また効率化を最大限に目指す路線を突き進んだなれの果て的様相を呈していることです。

 もちろん相違点もあります。前者は人殺しとかではないけれど、「人としてそれはやってはいけないことでしょう。」ということに手を染めてしまったという点です。特に義手の少女や被災地の少女の心を弄び、人々の倫理観や惻隠の情まで利用しつくそうとした点が許せない気持ちにさせます。

 後者はわからないことだらけですが、想像してみるに実験中に何か興味深い事象に出会ってしまった(もしくは出会ったと思った)のではないか、その着想を足がかりに発展させた仮説の裏付けを取り始めたことが出発点ではないのでしょうか。全くの想像ですけど。

 科学の世界はわかりませんが、文献に限って言えば思いこみから探し始めるとそれを支えてくれる記述は必ず見つかるように思います。そのうち「こうだったらおもしろいのに。」という願望と現実の区別がつかなくなっていくということはままあるように思います。傍から見れば不正な操作でも本人の意識の中ではあくまで捏造ではありません。

 ただ今回の件で気になるのは、3年間で研究ノートが2冊だったとされることです。ちょっと何かを書くにしても資料やノートはすぐ膨大になることから考えて一番疑問なのはここです。そもそも彼女がチームリーダーを務めていたそのチームというのはどのような構成でどのような実務を行っていたか聞いた覚えがありません。実験のデータなどはその方々が管理しているのでしょうか。研究環境が明らかにされなければなんとも判断できません。それにしても研究ノートが2冊ってことがあるのでしょうか。本当ならやはりとてもまずい気がします。本人が「この研究は根拠のないことだった。」と悟って捨てる決心をすべきレベルでしょう。少なくとも少し寝かせるとか時間をおく必要があったように思います。

 しかしその場合、正規の常勤職員なら問題ないかも(いややはりあるのか、成果をあげられないということは。)しれませんが、そうでない場合は先行きはどうなるのかという問題がでてきます。職場環境は千差万別でしょうが今はどこでも苛烈になっていることは想像に難くありません。キャリアプランとか査定のための自己申告書を書いたことのある人ならわかるでしょうが、ああいったものはある程度実現の見通しのあるものしか書けません。短期での成果を求められる昨今ならなおさらです。5年、10年先に成果が出るかもしれないが今はなんだかわけのわからないものについて書くわけにはいかないのです。ちょっと目端の利く程度の研究ならいざしらず、今隆盛のやり方で偉大な研究がなされる見込みはきわめて少ない気がします。もしそういうものを求めるなら、採算度外視の放し飼い、大半の職員に無駄飯食わせてもしかたないと腹を据えて覚悟の上、真の逸材を発掘するしかないでしょう。やる人は放っておいてもやるのですから。

 一人の研究者が一から十まで悪辣で全く偽りの研究をしていたとは思えないし、職場の体制がどうなっていたのか大変不可思議です。最先端の研究を正しく評価できるかどうかが問題なのではなく(そこまで求めるのは酷というもの)、皆が成果主義にとらわれて忙しすぎ、自分が名を連ねた研究論文にも目を通せないほどだったとしたら、根本的に体制を考え直さないといけないだろうなと思います。他大学の共同執筆者はお気の毒だった気がします。 

 この件はなんだか夢のある話だっただけに、がっかりして疲れてしまったという人も多いでしょう。針のむしろにいるであろう本人に会見が求められているのは致し方ないこととはいえ、女の立つ地平とメディアの立つ論理の地平は全くずれているので、いずれにしてもメディアが求めている「真相」などというものが明らかにされることはないでしょう。

2014年4月2日水曜日

「高齢化社会の悲哀」


 2月、3月はいわゆる「ご不幸」が相次ぎました。父、叔父、ドイツの母Erika エリカ。このうち葬儀をしたのは父だけで、叔父は献体のため、エリカは葬儀を望まなかったとのこと。(ドイツでの葬儀は日本の納骨に当たります。)

 人間の寿命が伸びて自分の葬られ方について考える時間もでき、個人の希望によるそれぞれの葬られ方が一般的になりつつあります。宇宙葬や樹木葬に惹かれる気持ちも分かります。キリスト教では特に死というものを天国に移されると考えるので悲惨なイメージはなく、どちらかというと明るい気持ちでうけとめることができます。しかしそうは言っても、この世で親しく時を過ごした人がいなくなるというのは悲しいことに違いありません。

 ヘルベルトが亡くなったとき、私は入院中で病院のベッドの上で動けませんでしたが、エリカも火葬には立ち会っていないはずです。悲しすぎたのです。悲しいことが嫌いな人でした。およそ三週間後に行われた葬儀(納骨)ではお会いできましたが、消え入りそうな様子で耐えていました。自分の葬儀を望まなかったのはそのせいかもしれません。

 高齢化社会というのは人の死が日常化する社会です。老人の比率が増えて活気がなくなるとか、労働人口が減って産業を支えられないとか、年金や医療費がかかりすぎて制度が破綻するとかいう以上に、まず何よりも、この「日常茶飯事としての人の死」というものがどれだけ人々の心に変化をもたらし社会に影響を与えるかを想像すべきです。この静かな悲しみに満ちた人の死が誰にとっても日常的に起こる社会では、やはりなにがしか陰鬱にならざるを得ないでしょうし、現在の世帯構成のあり方からして適切な葬りがなされない事態も多発するのではないかと考えると、これが今後日本社会における暗雲の最も根本的な源になる気がしてしかたありません。

 いま親族の手元にあるエリカの遺灰が今後どうなるのかわかりませんが、ドイツには○○家の墓といったものはないのでヘルベルトと一緒のところに埋葬されることにはならないかもしれません。私も父の納骨の準備をする頃合いとなりました。信夫山の墓地に眠る母とヘルベルトのところに一緒に入れてあげなければと思います。5月24日の予定で計画を進めようと思います。