先日、湾岸地区をバスで訪れる機会がありました。考えてみればほとんど十年ぶりに近く、私が知っている風景とは様変わりしていました。これを「未来都市みたいできれい」と感じる方もいることでしょうが、タワーマンション群を遠くに近くに見ながらバスに揺られていたら、何だか気持ちが悪くなりました。林立するバベルの塔が空間という空間を埋め尽くしてゆき、恐らくこれは海の埋め立てが可能である限り、終わるということはないのでしょう。
この姿は資本主義の目に見える成れの果てですが、そもそもそれがどこから来ているかと言えば、人間の自我の肥大化、欲望の膨張というほかないだろうと思います。近現代史というのは抑圧された自我の会報の歴史です。家族・親族という自我にとっての強力な抑圧体と村社会の掟という絶対的支配から放逐されれば即座に死ぬほかなかった時代から、次第に緩んでいく拘束帯を解いて自由な暮らしへと人々が抜けていったのは、ひとえに自我の欲求の無さシムるところです。皆が「干渉されずに自由に生きたい」と願ったから、今このような社会になったのです。
自分の欲望を一つ一つかなえて、これ以上なく膨張してしまった自我はあらゆる空間、あらゆる時間を自分好みに埋め尽くそうとします。ふと、「そういう自分とは何者だろう」などと疑問を持ってはいけません。それはぽっかりと口を開けた虚無、完全な空虚でしかないからです。そんな深淵を見つめたら人は狂ってしまいます。
以前、思春期の子供を持つ親御さんが、「部活動でもアイドルの追っかけ(今は「推し活」と言うらしい)でもいいから、とにかく夢中になれることを見つけさせて、この難しい時期を乗り越えさせたい」と言っているのを聞いたことがあります。そのためにどれほどお金がかかろうと、グレて不良化したり、いじめの対象となったりすること、あるいは引きこもってしまい、人生に悩んで自傷行為に走ってしまうことだけは避けたいとの一心のようです。
また、老後に関する話には、判で押したように「『きょういく』と『きょうよう』を持ちましょう」というフレーズが出て来て、「『今日行く』所がある」、「『今日用』(事)がある」ことがいかに大事で、それを無理やりにでも作らないと、認知症になったり早死にしたりするリスクが高くなるといった恐~い戒めが続きます。この年代になっても、老いや必ず迎える死について考えるより、毎日目の前に広がる膨大な時間を何らかの気晴らしで埋めていくことが求められるのです。
こんな世の中に暮らしていると、ふとした時に昔の哲学者の言葉がとんでもなく胸に沁みてきます。パスカルは、「人間は自分が悲惨であることを知っている点で偉大である」と言った後に、 「われわれの悲惨を和らげてくれる唯一のものは気晴らしである。しかしそれこそがわれわれの悲惨の最たるものである。なぜならこれこそが、われわれが自分について考えることを妨げ、われわれを知らず知らずのうちに滅ぼしてしまうからだ」と述べています。
立ち止まって考えると、これほど当を得た言葉はないでしょう。確かに、物事をあまりに突き詰めすぎて「自分には価値がない」などと思ってしまうと、心身が重大な危険にさらされる可能性があるので、「気晴らしも必要だわな」と思いますが、それに終始してしまうなら心のどこかで虚しさが消えないのではないでしょうか。パスカルは科学者でもありますが、それにもかかわらず、「できれば神無しで済まそうとするデカルトを私は赦すことができない」といった趣旨のことも言っており、科学が完全に宗教を凌駕したかに見える現代でこそ、その言葉が重みを増すのだと感じます。パスカルは、我々が滅びに至るのを回避するには、どこか本当に深い心の深淵で神に出会うしかないことを示し、その深淵での神との邂逅へといざなっているのです。