2023年6月6日火曜日

「境界線の内と外」

  ラジオで立て続けに気になるニュースを三件聞きました。どれも日本独特の社会・経済構造にコロナ後の世界経済の影響が絡んだ事象なのですが、それは①「昼食に買ったサンドイッチと飲み物が日本円にして1700円ほどし、私の財布も痛みます」という、英国からのリポート、②「半導体が入手しにくいため、無記名スイカの発売を一時停止している」というJR東日本の発表、③空港職員の人員不足により、飛行機の発着を受け付けられない事態が生じているという航空業界からの報道でした。

 ①に関しては、人々のデモや若手医師らのストライキも起きていて、なかなか止まらないインフレの状況を伝えていました。アメリカも似たような状況にあり、世界各地をインフレが襲っているのは確かです。しかしこれに関しては世界のインフレもさることながら、四半世紀続いたデフレにより、いわゆる「安い日本」が出現したことに根本原因があるように思います。もちろん世界経済の流入により日本でも商品価格の値上がりが顕著です。今年の「わたしの川柳」(以前は「サラリーマン川柳」と呼んでいた)第1位は、「また値上げ 節約生活 もう音上げ」という句で、物価上昇は庶民の一大関心事です。

 ②に関しては、コロナ後も回復しない明らかな供給不足、③に関しては、コロナ後の人々の労働及び生活スタイルの変化によるものでしょう。

 アメリカの中央銀行が何度も利上げをしてインフレを止めようと試みて結果が出ないのは、今起きていることが需要過多に基づくものではなく供給不足に基づくものだからです。コロナ期間中に「今までの働き方って何だったんだろう」と疑問を持った人々は、もはや前の職場に戻っていないのです。スイスのIT企業で働いていた人が、IT技術を生かしながらチーズ作りをすることにしたという話も聞きました。これまでのグローバル資本の労働市場にいた人が別の場所での労働へシフトし、人が減ったので賃金は上げざるを得ない。それでも思うように人が集まらずに供給不足が起きているのですから、このインフレは当分収まらないかも知れません。インフレは通貨の供給量が多すぎて起こる現象なのですから、まず、過剰に流通している米ドルを回収して減らすことが必要なのではないでしょうか。

 日本はデフレを抱え込んだ中での世界経済の流入によるインフレですから、もっと大変です。おまけに国の財政には膨大な債務超過が積み上がっており、中央銀行が国債を買い支えているため利上げはできない。解決方法はあるのでしょうか。それとも、やはり国家財政のクラッシュは避けられないのでしょうか。たとえそうでも、老い先短い者は今更ジタバタする気力も体力もありません「その時こそは『ヨブ記』が真に理解できるのかもな」と思うくらいです。

 しかし冷静に考えてみると、あくまで今のところですが、日本でサンドイッチと飲み物の昼食であれば、先ほどの英国での報道に比べ、4分の1から3分の1の値段で調達できますし、また、よく言われる玉子の値上がりにしても、私がよく買う6個入りは130円から190円になった程度で、今までが安すぎたのです。雌鶏さんも一個産むのに22円ではやってられなかったでしょう、すまなかった。また、物価高のせいか百円ショップ(最近はもう少しグレードアップした価格の品揃えも強化している)が大盛況ですが、行くたびに「どうしてこれが百円でできるんだろう」と不思議な思いで頭がクラクラします。一時期目に見えて高騰した電気代も政府の補助により、家庭用の出費に関しては以前の水準に戻っています。

 これらは全て国境線のこちら側の出来事です。何もない所に線を引くと、こちら側と向こう側の区別が出現し、水位差が生まれます。向こう側の物を手に入れたいと思った時は、この落差を計算に入れねばならず、現在のようにこれまで同額の円で3個買えていた物が2個しか買えなくなるということが生じます。この水位差は無限と言っていいほどの理由で絶えず変化する複雑系で、五年先、十年先どころか、それこそ一寸先を予測するのも難しそうです。四年前までは新型感染症に襲われた世界を誰も想像できなかったのですから、それ以前の枠組みがずっと続くつもりで適切なリスクヘッジをせずに人生設計をすると、想定外の事態に見舞われることになるでしょう。海外赴任者や海外移住者のうち国境のこちら側の制度に経済的基盤を置いている人には大変な時代になるかもしれません。

 日本もいつ円安が亢進し、超インフレが起こるか分かりません。諸外国からは、日本は相当のんびりした国、比喩的に言えば、(私は経験ないけど)竹で編んだ買い物籠を持ち、水を張った鍋でお豆腐を持ち帰っていた時代(あの頃は本当にエコでした)にいるように見えるかもしれません。世界のデジタル化からも遠く遅れており、まだ伝書鳩を飛ばしている状態でしょう。とてもマイナンバーを導入できる状況ではなく、様々な失態が明らかになるたび不安しかありません。

 5月31日の朝6時半にJアラートが鳴り、物々しい緊張感が漂いましたが、正直に言って私がまず思ったのは、「えっ、ラジオ体操の時間はどうなるの?」でした。最近は緊急地震速報もよく流れる(先日の台風では河川氾濫警報も鳴った。アラート多すぎません?)せいで慣れがあるのか、このような平和ボケ症状が出ているのでしょう。同じ惑星に住んでいる以上、理解を絶する多様な国々と付き合っていかねばならないのは分かりますが、攻撃的な隣国には「無意味なことはおやめなさい」と言うしかなく、脅かされる環境に強硬論で応じてもいいことは何もないだろうと思います。

 経済大国を実現した自負のある方々が、若者にも同様の頑張りを求め、世界における日本の地位を保ちたい気持ちは分かりますが、皆が世界を股にかけて飛び回り、世界のどこでも稼いで生活できる人にならなければならないという理由はありません。今の生活レベルを保ったまま、日本に住んでいたいというのは随分と虫のいい願いではないでしょうか。スズメ目に属するメグロという鳥はどこかから飛んできたことが確実とのことですが、今では小笠原諸島の母島、向島、姉島にしか生息していません。飛ぶ力はあっても天敵のいない今の生息地が気に入って移動せず、小笠原諸島の固有種となっているのです。鳥でさえそうなのですから、世界に一つくらい金持ちでもない一般人が鼓腹撃壌状態で過ごせる場所があってもいいはず、誰に言うわけでもありませんが、「この場所をそっとしておいていただけないか」と願うものです。

 いずれにしても、日本はこれから徐々に未曽有の労働力不足、大幅な物不足に見舞われ、質素な生活に回帰せざるを得なくなるでしょうが、いつまでも争いごとを好まない平和な国であってほしいと思っています。グローバリズムに侵された人々から見てあまり魅力のない、穏やかで平和な島国として静かに命脈を保っていれば、また浮上する機会も訪れるでしょう。「そのうちなんとかなるだろう」と言うのはあまりに無責任すぎるでしょうか。歴史上外国に滅ぼされた平和な国はたくさんありましたが、今はその残虐性が膨大な数の映像と共に瞬時に世界に拡散される点が昔と違っています。古来から世界地図に存在した歴史ある国、多くの後悔を抱えながらも現代の世界に一定の地歩を築き、公平に見て少しは世界に貢献した跡を残す国が、その滅亡を止められないとしたら、それはよほど世界に嫌われていたということに他なりません。

 私はラジオ生活になってから、アナウンサーの絶妙な言葉遣いやリスナーの何気ない日常目線からの発言に穏やかな気持ちでいられることが多くなりました。或る種暴力的力を孕む「映像」が無いせいも大きいでしょう。リスナーの言葉で、時々耳にするが始めは意味が分からなかった、「ラジオと共に生きていきます」という言葉が私にもしっくりくるようになりました。気の重い数々の困難を抱えながらも、平和のうちに踏みとどまろうとするこの国の人間としては、「一度こちら側を体験してみませんか」と言いたい気分です。