2023年6月30日金曜日

「徳富蘇峰について」

  日本史リブレットの『徳富蘇峰』をいただき読んでみました。といっても活字の本はもうプリンターの助けなしに読めないため、読むのに非常に時間がかかりました。それだけでなく、恐らく若い方を読者層として想定しているせいか、固有名詞以外にも丁寧にルビが振られており、正確に読み取ることが困難でした。したがって、およその概要が分かっただけの状態ですが、読後感を残しておきたいと思います。恥ずかしながら、これを読むまで徳富蘇峰は名前しか知らない人物でした。


  本書は明治から大正、昭和にかけて、日本の知識層出身の青年が、言論を用いて国民あるいは政治家に働きかけることにより、苛酷さを増す非情な世界情勢の中で、いかに日本という国を導こうとしたかの丹念な研究の成果である。この記録を通して、我々は明治維新直前に生まれた肥後の早熟な少年がやがて新聞社を創立して四十年間記事を書き続けた歩みを知ることになる。その姿は「日本の生める最大の新聞記者」との評価に値するものであるが、政界に近づき直接影響を与える欲求を満たす道を辿るうち、「平民主義」「平和主義」から「帝国主義」「皇室中心主義」へと転じた点は記者としての分水嶺だったと言わざるを得ない。

 本書は偏りない視点から徳富蘇峰という人物の生涯を紹介し、明治以降の歴史を考える手立てを与えてくれる。蘇峰にまつわる豊富な資料がまとめられ、先行研究にも触れられているため。これから研究者を目指す方々にとってお手本となる研究書である。以下、読後感を思いついた順に述べたい。


 この本を読んで真っ先に思ったのは、この時代に起きた情報革命はインターネット革命の小型版だということである。現在のネット上でのページビューの盛衰、炎上と著者叩き、あるいはインフルエンサーへの敬慕と押し活など、読者の対応は変わらない。ただ、現在は誰もがほぼ無料で出版社を持っているようなものであるのに対し、当時はそれが主として知識階級のみに与えられていた特権だったということである。


 第二に、徳富蘇峰という人について思うのは、この人が幼少期に子供らしい遊びをし、十代から二十代のうちに西洋に渡航できていたなら、その生涯は幾分違うものになっていたのではないかということである。例えば、若いうちに英国のgentry階級の家を訪問したり滞在したりするようなことがあれば、13世紀からparliamentを持つ英国の政治的末端機構を担う彼らの実態や英国の地方富裕層がいかに分厚いかを肌で感じたであろうから、恐らく英国の地方gentry層から日本の田舎紳士を想起するという夜郎自大的な夢想はしなかっただろうと思う。


 第三に、どうも私は徳富蘇峰という人をうまく理解できないのだが、何度か読むうちカフカがグレゴール・ザムザという人物を創出したわけが分かったような気がした。彼は異形のものになっても、戸惑いこそすれあまり驚いていない。普段の生活のこまごまとした事柄を煩い、「面倒なことになった」としか感じないその姿を、まさに現代人としてカフカは喝破した。無論周囲に波紋は生じるが、どんなことにも人は慣れ、何事もなかったかのように日々の生活は続く。

 蘇峰は『新日本之青年』の中で、「平民社会」への「改革」を先導するのは「明治の青年」(明治の年号とともに成長した世代)であって「天保の老人」(主として伊藤博文や福沢諭吉を念頭に置いている)ではないと宣言しているが、天保の老人たち(他に新島襄やもっと古い文政生まれの勝海舟、西郷隆盛までもこの範疇に包含すると考えたい)には感じる哲学を、この明治の青年に感じないのは、きっとこの人が現代人だからだろう。


 第四は言論と政治という容易に片付かない関係についてである。新聞や雑誌が言論によって政治を動かそうとする手段だとするなら、徐々に効果を発揮して国家の基盤を足元から変えていく可能性があるが、時代が切羽詰まって来るとそんな悠長なことはして折れなくなり、やがては政府の意向を酌んで紙面を作成できる媒体しか生き残れなくなる。言論人がその世界で生きていこうとする限り、出処進退を迫られるのは当然の成り行きである。

 漢籍にも洋学にも通じていた蘇峰がしたかったのは、言論界を先導し国益をかなえることである。蘇峰は平民を動かす迂遠な道より、手っ取り早く直接政治家に対して影響を発揮できる地位に就くことを選んだ。ただ、言論人としての立場は手放さなかったため、本人の自覚の有無に関わらず、両者の折り合いを付けて乗りこなすのに苦慮したように見える。

 政治、特に外交に関しては生真面目な正攻法は通用しない。19世紀の英国外相カニングから「文明世界最悪の嘘つき」呼ばわりされたメッテルニヒでも、老獪なタレイランにはシャッポを脱ぐしかなかった。刻々変わる情勢の中で国益実現のため「約束が守れないのは状況の変化のせい」と言い捨てて恥じない外交官でも、「言葉は嘘をつくためにある」と言い切る胆力を秘めながら、実際には膨大な情報を分析し、重要な事実だけを突きつけてくる相手には敵わない。このような手法の前では、不本意ながら相手に有利な結論に辿り着かざるを得ない自分に呆然とすることになる。

 いずれにしても、「言葉は人を動かすためにある」という確信をもつ西洋の言語は、情感を重んじる日本語とはねじれの関係にある。正式文書は別として、日本の書き言葉の原型となった和漢混交文はとりあえず『徒然草』以来の歴史があるのだから、「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」という情緒的土壌の上に立つ。日本語において表現者は真摯さを言葉に込めて、最大限の敬意を払うのである。明治期以降に生じたのは源流の異なる言葉の在り方の衝突だから、個人が前線で尽力してもどうにもならない解決困難な事態である。だから蘇峰に関しては、インフルエンサーとして振る舞い相手をうまく使おうとして、結局のところ、相手に使われてしまったのでなければよいがとの感が拭えない。


 第五は、現在でもそうであるが、世界の時勢が急速に変化する時に対応するのはどれほど大変だったことかという同情と、時流に合わせず敢えて速度を遅らせることができなかったかという無念さである。政治に関わるものは一にも二にも粘り強さが必要なのではないか。と思ったのは、G7広島サミットのせいかもしれない。政治にほぼ関心のない私が、最終日の閉会後に行われた首相の話を思わず聞いてしまったのは、それが広島出身の首相でなければできない語りでなされていたからである。外務大臣時代にオバマ大統領の広島訪問を実現させたことといい、今回の原爆資料館への各国首脳の訪問を実現させたことといい、「広島の平和教育」を受けて成長した子供はこういう大人になるのかと感銘を受けた。こういう問題に即効性のある解決はないのだから、特に外交問題に関しては、現実を理想に近づけることを諦めない粘り強さが何より求められる。


 以上、徳富蘇峰という人物伝から考えたことを自由に書きました。いつもながら、「そういうことか」と納得したのはきっと自分だけだろうな。それにしても登場する歴史上の人物について私はほぼ名前しか知らないことがよく分かりました。