最初にラジオのニュースで聞いて「何の話だろう」と思ったのは、首都圏の或る市の公共トイレに関する者でした。曖昧な記憶ながらその概要は、「『建設計画のある市の施設のトイレは、男性用と男女共用のトイレしかないらしい』とのうわさに市民の不安の声が寄せられているが、そのような計画はない」と市長が話したという報道でした。この時は頭に疑問符だけが浮かんでまるで不可解でしたが、後にそのようなトイレ(男性用と男女共用入口しかないトイレ)が都内某所にあることがわかりました。確かめたわけではないので男女共用の部屋の内部がどうなっているか分からないのですが、仮に内部が男性用個室、女性用個室、その他の個室(例えば車椅子でも入れる広さの個室、みんなのトイレ)、パウダールーム等があるというイメージでしょうか。このようなトイレをどう評価するかは人様々でしょう。トイレという場所柄、乳幼児を連れたお母さんがおむつを替えるスペースなどがあるのかどうか、女性が安心して使える場所かどうか、疑問を持たれる方もいるでしょう。実際、女性からの要請によりこのトイレは警備員が巡回警備しているようです。
言うまでもなく、これはLGBTQに関する課題提起から生じている事態に違いありません。 トイレに大きなスペースを充てることができ、警備員を置く予算もあるような場合は、トイレのデザインに関して工夫のしようもありますが、普通はそうではありません。これまでの慣例とあまり摩擦を起こさずに丸く収まりそうなのは、「男性用トイレ」、「女性用トイレ」、「みんなのトイレ」の入り口を分けることではないでしょうか。あまりスペースの無い場所だからと言って「男性用トイレ」と「男女共用トイレ」の二つしか作らないと、「男女共用トイレ」を使う人はごく限られるだろうと思います。女性は安心して使えず、男性も無用な誤解を受けたくないと思うからで、お金をかけて造っても結局ここは無駄なスペースになってしまうのではないでしょうか。
そうこうするうち今度はジェンダーレス運動会の話をニュースで聞きました。「小学校の運動会の徒競争が男女混合の組み分けになっていて、ほとんどのレースで男子が一等だった」と、釈然としない気持ちを投稿した母親の言葉がきっかけでした。「えっ、そこまでぐちゃぐちゃになってるの?」と驚きを禁じ得ませんでした。オリンピックも混合でメダルを競うのでしょうか。生物学的性sexと社会的・文化的性genderを分けて考えないと、とんでもないことになるという好例でしょう。
もっと驚いたことがあります。ラジオ番組の中で或る作家が話すのを聞いていたところ、「画一性へ向かう圧力がいかに人を苦しめるか」と「多様性を尊重する社会がいかに必要か」という趣旨の主張をしていました。それ自体は別段良いのですが、どうも本当に言いたかったのはジェンダーレストイレについてのようでした。話の最初に「ジェンダーレストイレに反対すること自体が画一性に侵された思考であること」、話の最後に「ジェンダーレストイレは多様性が目に見える形で実現したもの」という趣旨の発言があったのです。「えーっ」と思わずのけぞりました。「〇〇に反対すること自体が××に侵された思考である」という言い方は、およそ何にでも当てはまる決め台詞で、相手の自由な思考や反論を封殺する手段です。議論の大前提として、寅さんでなくとも「それを言っちゃあ、おしまいよ」と言える言葉で、言論人が言ってはいけないのではないでしょうか。この方の話の中で、ジェンダーレストイレに関する分析はほぼ皆無で、なぜそれが多様性の象徴となり得るのかについての論理的つながりも理解できませんでした。「言論的にはテロだな~」と思いつつ、言論人には事実に即した丁寧な解きほぐしをお願いしたいものだと感じました。
このようににわかに沸き起こったジェンダーレスにまつわる課題は混迷を極めています。トイレに関して、皆が納得できる落としどころを見つけられるようにと私が願うのは、日本では特に平等・公平を意識するからです。震災時に被災地に送られた毛布の数が足らず、全員に配れないと不公平になるという理由で手つかずになったというようなこと(この場合で言うとトイレ自体が全面廃止とか)が起きないよう、皆で知恵を絞ってほしいものです。お役所的な決定はとかく男性だけでなされることが多いようですが、このような繊細で微妙な案件は男性・女性・LGBTQの三者が顔を合わせて話し合うべきものと考えます。