2022年12月1日木曜日

「赦されないこと」

 赦す対象として、「負い目=負債」のある人、と、「罪」のある人の違いがありますが、今はこれに触れずに話を進めると、マタイにおいてもルカにおいても、「赦してください」がまずあって、その後に理由として、マタイは「私たちも赦しました」、ルカは「私たちも赦します」が続いています。英語の接続詞asは後文を受けて「~するように、~したように」と訳されるので、プロテスタント教会の「主の祈り」の式文はこれに近い気がします。

 一方、英語の接続詞forはこの例のように前にカンマをつけて用い、「というのは~だから」と、まさしくこのルカのように訳されます。「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人を赦します」と唱和する聖公会やカトリック教会の祈りはこれに近いでしょう。

 いずれにしても、「人を赦すこと」と「自分が神に赦されること」は一対のこととして考えられていることが分かります。しかし、生身の人間にとって「人を赦すこと」ほど難しいことはありません。特に命が奪い去られるなどもう取り返しのつかない罪についてはそうです。過失ではなく意図的に子供や障害者の命を一方的に奪った殺人の罪を、誰が赦せるでしょうか。そんなことは元来人間にはできないことなのです。一方で、神に赦してほしいと願う罪を誰もが心に持っているものです。そして頭の中でその軽重を計ったりするかもしれませんが、「赦すことを通して赦されること」の困難を痛切に感じるでしょう。人はいつも自分を「赦された者として、そしてまだ赦していない者として」、ということは随分と自分を虫のいい位置に置いたまま長い年月を過ごすのではないかと思います。私の場合今となっては、自分に対して為された赦せない罪は、有難いことに、ありませんが、他者に対して為した赦してほしい罪はどっさりあります。

 ここで検討してみたい他宗教として思い浮かぶのは浄土系仏教における赦しです。私の理解の範囲では、浄土系仏教とは「赦されないこと」を「阿弥陀仏の慈悲によって赦されること」に変え、その条件を極力ゼロに近づける(無条件化する)という革命的なものだったということに尽きます。法然は、仏教で赦されない重罪とされる五逆の罪「父を殺す、母を殺す、阿羅漢(聖者)を殺す、仏の身体を傷つけて血を流す、教団の和合を壊し分裂させる」も赦されることとし、その方法は仏を心中に念じてその名を「南無阿弥陀仏」と声に出して唱えることでした。さらにその称名において信心が必須化と言えば、当初は付すべき条件として至誠心・深心・回向発願心の三心を考えていた法然は、最終的に三心は念仏によって具足すると言い、また親鸞は三心は如来が衆生に与えるものと解しているので、二人とも事実上唱名念仏による救済を無条件化しています。

 これをさらに進め、「信不信を選ばず」と言い切ったのが一遍です。一遍は「三心というは名号なり。称名するほかに三心は無きものなり」として、信心はもはや救いの必須条件ではなく、信心があろうとなかろうと、念仏により一切衆生が阿弥陀仏によって往生すると説きました。ここで目指されているのは念仏と一つになりきることであって、ここにこの行為をする主体はありません。これは確かに他力信仰としか呼び得ないものですが、行為の主体を軸にした自力・他力の別も、また三心という信心も捨てるとなると、唱名している自分の意識を消さざるを得ないことになるでしょう。自分の行為によって救われるということは自力本願に他ならずあってはならないからです。もはや自分は阿弥陀仏に呼び掛ける主体ではなく、ただ「南無阿弥陀仏」との唱名の中に渾然一体となり、無限者への帰依を実現するのです。一遍の活動が、「捨ててこそ」の空也上人、また踊り念仏に連なるものになったのはこのあたりの事情によるのだと思います。仏教では「人を赦すこと」と「自分が赦されること」はどのような関連が想定されているのかわかりませんが、これまでの論からするとこれを区別しているとは考え難く、恐らく全てが「南無阿弥陀仏」の名号に解消されるのでしょう。

 しかし、キリスト教において主体は欠くべからざるものですから、神との関わりは「呼びかけと応答」という形になります。旧約の時代から、信仰心の無い祭儀や犠牲の献げ物を神は喜ばないことが何度も示されていますから、「信じる」心が如何にして与えられるかが大きな問題です。そして、神から人に降されて間を取り持つのが聖霊なのです。とりわけ、主イエスがこの世の活動を終えられ、十字架の死によって人の罪を贖い、復活して召天された後は、聖霊以外この働きをするものはないのですから、なお一層重要性が増したと言ってよいでしょう。

 前半で考えた罪の赦しについて、ヨハネ二は別の、独特な記述があります。

ヨハネによる福音書20章22~23節

「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」

 これは主イエスが復活して召天するまでのごく短い間に、弟子たちに現れた時に述べた言葉です。キリストの体なる教会を成していく弟子たちに語ったのは何よりも「聖霊を受けなさい」だったのであり、その時にこそ赦す力が与えられることが示されています。バプテスマのヨハネは、イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネによる福音書1章29節)と言いましたが、使命を終えて神の御許に帰られ、それ以後罪の赦しは弟子たちに委ねられました。その力は聖霊によってのみ与えられ、望むらくは弟子たちが世界中に遣わされ主イエスの十字架の死による救いを信じることによって、この世の罪が赦されることを神様は願っておられるのでしょう。今は「赦すこと」がいかに不可能と見えても、聖霊を完全に否定しない限り未来永劫「赦せない」とは言い切れないことになります。だからこそ、未来に対して開かれている「聖霊」の働きへの冒瀆は赦されないのだろうと、今現在はそのように考えています。