2021年6月25日金曜日

「過去の映像記録を前に」

  家の中の片づけをする機会が続いています。これまでも自分のマイ・ブームの残骸はいろいろと見つかっていますが、今回は昔のDVD等の記録媒体を発掘しました。家には受像機がなく、パソコンに繋ぐのも面倒で、ポータブルの再生専用プレーヤーを購入しました。以前は何でもなかった些細なことが全て面倒になっている私には、ネットフリックス等を利用して毎月定額で映画やドラマを視聴している人々のエネルギーには脱帽です。ただ手元にあるものは、時間ができたら見ようと思って収集していたに違いない作品なのでしょうから、捨てる前に一応見てみるかという感じです。

 過去の作品を見てまず思うのは時の流れです。「その設定はスマホ時代には無理だわな」といった、テクノロジー絡みの筋立の古さもさることながら、今の感覚からすると話の展開のテンポが相当遅い。現代社会に乗り遅れているような私でさえそう思うのですから、世間の皆様はなおさらでしょう。この十年に限っても、どれだけ社会のテンポがはやまったことかと思いやられます。昔の作品はじっくり見せるタイプが多く、まどろっこしいほど話が進みませんが、そういうものだと思って見れば、大きな流れに揺られていくのは楽ですし、予定調和的に終わるので安心です。視聴者の耳目を引くため、異常で凶悪な事柄を扱うことが頻発したり、相当無理などんでん返しが多用されがちな最近の作品とはやはり違う古さを感じます。

 また、作品そのものの評価以外に時の流れを痛感することがあり、気を取られてしまうのは避けられません。「ああ、この俳優さんはもうこの世にはいないのだっけ。残念だな」、「このアーティストは厄介な事件に巻き込まれたんじゃなかったっけ」、「この女優さんが何か問題を起こしたのはいつ頃だったかな」、「この人は突然芸能界を去ったようだが、今どうしているんだろう」、「確かこの人の配偶者は不貞行為を働き、その後・・・」(以下続々)と、枝葉末節的なリアルに引っかかって、作品の中身より諸行無常の鐘の音が頭に響いて、何ともやるせない思いが浸潤してくるのです。

 まだ、ごく一部だけ見た感触ですが、確かに後世に残すべき作品はあるものの、「大体がゴミだな」と感じました。子どもはガラクタ集めの天才ですが、子どもの場合はそれは成長過程の中で必要な時間でしょう。思春期、青年期には、傍から見ればどうでもいいような情報やトリビアが仲間内で高値で流通するため、ゴミの山を後生大事に抱えているということがよくあります。この点、今ではもう年配者もそうなのかもしれません。よく話題になるゴミ屋敷では、お住まいの方にとっては決してゴミではないと聞きますが、程度の差はあれ、それと本質的に変わらないのかもしれません。おそらく私たちは大切なものだと思って何かに執着して、それを日々収集しながら過ごしているのでしょう。ゴミ屋敷の住人を笑ったり白眼視したりできないのです。ゴミをゴミだと認識できる程度に成長したのならよいのですが、ゴミによってさえ気が紛れるほど過酷な現実があることを忘れている可能性もゼロではありません。

 書籍でも映像でもデジタル・アーカイブ化が進行しているようで、著作権をはじめとする様々な権利問題などと誠実に格闘しておられる方もいるようです。こういったものが世界のデジタル業界を支配する一握りの企業に牛耳られぬよう、書籍に関しては日本でも国立国会図書館を軸に必要な記録を残すことに尽力してほしいと願っています。しかし一方、テクニカルな問題や権利に関わる困難な課題を乗り越えられたとして、すべての作品を収めることが果たしてどの程度大事なのか、確信が持てずにいます。作られたすべての作品が意味のあるものだとしても、人間がいつかゴミの山に埋もれてしまうことはないのでしょうか。