2021年6月11日金曜日

「デジタルメディアと生身の人間」

 先日、友人が落ち込んだ声で電話してきたので何かと思えば、某通販会社の偽サイトから来たメールに反応してしまったという話でした。個人情報の入力はしておらず、通信会社に調べてもらっても不審な点はないと言われたとのことで一安心だったのですが、薄気味悪さと一抹の不安は消えず、何より注意していたのに引っかかってしまったことでずんと心が沈んでいるようでした。私もその気持ちはよくわかります。発信元を突き止めて対応するなどの技術を持った人ならいざ知らず、一般の人にはもはや到来するメールが本物なのかどうか簡単に知るすべがありませんし、たとえ技があっても全てのメールについてそのようなチェックをする時間は到底ないでしょう。これがメールでなければ、普通は電話するか、直接会う方法を選びます。メールの場合は、しかたなく自分が送信したメールの返信のみ開くことになりますが、これとて偽装返信の可能性はありますし、何より私からメールを受け取った相手が真正のメールかどうか送信元の真偽を判断できないのではないでしょうか。つまり、この便利なデジタルメディアを不正に使う人が増えれば増えるほど、メディア自体が信用を無くし使われなくなる、すなわち消滅していくしかない深刻な事態なのです。

 これはもちろんメールに限ったことではなく、捏造記事、改竄画像、偽装動画、フェイクニュースなど、およそメディアが扱う全ての領域に及びます。そしてまた、これらはデジタルメディアだけでなく、紙媒体メディアや口伝等も含めてこれまでいくらもあったことです。しかし、とりわけデジタル時代の到来とともに、その拡散の量と速度がそれまでとは別次元になり、伝達行為の意味が質的に変容したのは確かでしょう。「何が秘密なのか」も秘密という歯止めなき隠蔽増殖保護法のもと、取材側が委縮し、記者クラブでの会見内容そのままか、差し障りのない案件しか報道しないとしたら、マス・メディアとしての存在意義はどこにあるのでしょうか。また、各テレビ局がそもそも認可制で与えられた電波権を排他的に専有し、時々「電波権の停止」をちらつかされながら事業を続けるとしたら「こういう放送になるのは無理ないわな」と思わざるを得ない状況です。さらに、社員が社内での個人的野心のために報道内容を捏造したり変容させたりするケースもまれとは言えぬ頻度で起こっています。伝達内容は一度発信されれば訂正されても取り返しがつかないのが常ですから、こういったことは社会の大迷惑です。背信的行為ではないにせよ、足を使って汗をかいた取材もなく当たり障りのない放送だけを続けるなら、自ら消滅へのカウントダウンをしているようなものです。

 とにかく世にあるメディアのどれも信じられない時代になりました。流される報道のどれが本当の現実なのか(少なくともその一端を示しているのか)、誰もわからない。新聞を古紙回収に出し、テレビ・ラジオ・パソコン・スマホの電源を切って仙人のような暮らしをするのもよいですが、そうそう世間離れした暮らしを続けられるものでなし、せいぜいできるのは伝達内容の発信元を確認することでしょうか。誰が書いた記事か、誰が流したニュースか、誰が撮った画像・動画かというように、最終的には責任ある個人に行き着かざるを得ないと思うのです。「人なんて立場や場面で言うことがコロコロ変わる」と思われるかもしれませんが、それでも他のメディア情報よりはるかにマシな気がします。推理小説でよく他人に成り代わる話がありますが、日々の生活の中でその変貌ぶりを怪しまれないなんてことがあるのかと、私はちょっと信じられないのです。実際、それが糸口となって話が進む場合がほとんどですね。しばらく会わなかった人に、10年ぶり、20年ぶり、30年ぶり、40年ぶり・・・に会った時、「この人変わったな、別人みたい」と思ったことが私はいままで一度もありませんでした。それどころか、「ここまで見事に全然変わってないのか」と驚き、愉快な気持ちになることばかりでした。あ、でもこれはもしかすると、私の知り合いが権力と無縁の人ばかりだからかもしれません。これから先、デジタルメディアが衰退し、本当の話を聞くためには直接人に会わなければならない時代が来ると思います。発信元に確信が持てず悩みの種になるくらいなら、そんな媒体は無い方がましです。人間の邪悪さ、愚かさがせっかくの便利な媒体を無効化してしまったのは残念でなりません。