2021年6月30日水曜日

「カオスの中の五輪準備」

  オリンピックがまともにできるのか案じています。もともと自らの嘘(何度でも言いますー 最終プレゼンでの安倍首相の発言「(福島第一原発の)状況はコントロールされている」)で引き寄せた災厄なのですから、案外世の中は公正になるようできているのかもしれないと思う一方、自国開催となるとあまりみっともないものになってほしくないと願うのが国民としての心情です。しかし、空港で感染が判明してもその場で濃厚接触者を特定できなかったという事実一点をとっても、つい最近まで本当にオリンピックをやる気が合ったのかどうか疑問です。依然として、感染者が出た選手団の宿泊環境については詳細が詰められておらず、事前合宿受け入れ地は苦慮しているようです。ボランティアのワクチン接種に関しても準備が抜け落ちていて、ワクチン接種なしでも大丈夫だろうと考えていたなら、ウイルスの変異についての見通しが甘すぎますが、ワクチン接種の遅れについて問われた担当大臣の「1回目で一時的な免疫を」という発言を聞けば、結局司令塔が根本的に何も分かっていないのだと結論せざるを得ないでしょう。この方は国政に出馬するまで選挙に行ったことがないと聞いていますので、或る程度のスパンを視野に入れて地道に計画を立てるのは無理な方だったのでしょう。

 結局感染者の数が下がりきらないうちに、再び増加の傾向が顕著になっているにもかかわらず、人々の中に活発な活動がじわじわと戻ってきており、総合すると、意図せずに、国民全体としてオリンピックに感染のピークを合わせようとしているのではないかとさえ思えてきます。交流があってこそのオリンピックでありましょうのに、そこを止めないといけないのですから、何のための大会なのかわかりません。私自身はウイルスに滅法弱い体ですのでどこにも行く気はありません。ただ地方にも危険が及ぶ可能性はありますので、わずかな病原をも察知できるよう「炭鉱のカナリヤ」としての役目を果たすのみです。でも、オリンピックにひそむ本当の危険として私が一番恐れるのは、猛暑や天変地異やテロなのです。他国から来る方々のことを思うと、今年だけは涼しく何事もない夏になってほしいと心から願います。


2021年6月25日金曜日

「過去の映像記録を前に」

  家の中の片づけをする機会が続いています。これまでも自分のマイ・ブームの残骸はいろいろと見つかっていますが、今回は昔のDVD等の記録媒体を発掘しました。家には受像機がなく、パソコンに繋ぐのも面倒で、ポータブルの再生専用プレーヤーを購入しました。以前は何でもなかった些細なことが全て面倒になっている私には、ネットフリックス等を利用して毎月定額で映画やドラマを視聴している人々のエネルギーには脱帽です。ただ手元にあるものは、時間ができたら見ようと思って収集していたに違いない作品なのでしょうから、捨てる前に一応見てみるかという感じです。

 過去の作品を見てまず思うのは時の流れです。「その設定はスマホ時代には無理だわな」といった、テクノロジー絡みの筋立の古さもさることながら、今の感覚からすると話の展開のテンポが相当遅い。現代社会に乗り遅れているような私でさえそう思うのですから、世間の皆様はなおさらでしょう。この十年に限っても、どれだけ社会のテンポがはやまったことかと思いやられます。昔の作品はじっくり見せるタイプが多く、まどろっこしいほど話が進みませんが、そういうものだと思って見れば、大きな流れに揺られていくのは楽ですし、予定調和的に終わるので安心です。視聴者の耳目を引くため、異常で凶悪な事柄を扱うことが頻発したり、相当無理などんでん返しが多用されがちな最近の作品とはやはり違う古さを感じます。

 また、作品そのものの評価以外に時の流れを痛感することがあり、気を取られてしまうのは避けられません。「ああ、この俳優さんはもうこの世にはいないのだっけ。残念だな」、「このアーティストは厄介な事件に巻き込まれたんじゃなかったっけ」、「この女優さんが何か問題を起こしたのはいつ頃だったかな」、「この人は突然芸能界を去ったようだが、今どうしているんだろう」、「確かこの人の配偶者は不貞行為を働き、その後・・・」(以下続々)と、枝葉末節的なリアルに引っかかって、作品の中身より諸行無常の鐘の音が頭に響いて、何ともやるせない思いが浸潤してくるのです。

 まだ、ごく一部だけ見た感触ですが、確かに後世に残すべき作品はあるものの、「大体がゴミだな」と感じました。子どもはガラクタ集めの天才ですが、子どもの場合はそれは成長過程の中で必要な時間でしょう。思春期、青年期には、傍から見ればどうでもいいような情報やトリビアが仲間内で高値で流通するため、ゴミの山を後生大事に抱えているということがよくあります。この点、今ではもう年配者もそうなのかもしれません。よく話題になるゴミ屋敷では、お住まいの方にとっては決してゴミではないと聞きますが、程度の差はあれ、それと本質的に変わらないのかもしれません。おそらく私たちは大切なものだと思って何かに執着して、それを日々収集しながら過ごしているのでしょう。ゴミ屋敷の住人を笑ったり白眼視したりできないのです。ゴミをゴミだと認識できる程度に成長したのならよいのですが、ゴミによってさえ気が紛れるほど過酷な現実があることを忘れている可能性もゼロではありません。

 書籍でも映像でもデジタル・アーカイブ化が進行しているようで、著作権をはじめとする様々な権利問題などと誠実に格闘しておられる方もいるようです。こういったものが世界のデジタル業界を支配する一握りの企業に牛耳られぬよう、書籍に関しては日本でも国立国会図書館を軸に必要な記録を残すことに尽力してほしいと願っています。しかし一方、テクニカルな問題や権利に関わる困難な課題を乗り越えられたとして、すべての作品を収めることが果たしてどの程度大事なのか、確信が持てずにいます。作られたすべての作品が意味のあるものだとしても、人間がいつかゴミの山に埋もれてしまうことはないのでしょうか。


2021年6月22日火曜日

「加速するワクチン接種によせて」

  高齢者のワクチン接種が進み、年齢制限撤廃、、職域接種等、ワクチン接種が加速しつつあります。これについて、接種できない立場の者として、私自身は言うに言えない思いがあります。漏れ聞く若者の声によると、接種に積極的でない人が結構いるようです。若い人の中には、「コロナに罹患しても重症化することはないだろう」と思っている人もいますが、それ以上に「コロナよりワクチン接種の方が危ない」と考える若者が多いようなのです。「ワクチン」そのものへの不信感と言えば、やはり思い当たるのは悪名高い子宮頸がんワクチンでしょう。ワクチンの恐ろしさを国民に知らしめたこのワクチンは身近な問題として若者の頭に残っているのだろうと推察されます。

 しかし、職域接種となると微妙な問題が生じます。ワクチン担当大臣は「体調に合わせてそれぞれの判断で」というようなまっとうな発言をされていましたが、医療や介護の職場、主に人と関わる仕事をする職場で皆で一斉接種となると、正論が通らないこともあるようです。上司に接種を強要されたり、「接種しないとクビ」と脅されたりという事例が報告されており、接種しないとの表明は困難な立場に立たされることを意味します。これは大変な事態です。万一、接種して何事か起きた場合でも、責任を取ってくれる人はいませんし、補償をされても健康を失っては無意味です。

 免疫体系には個人差が大きい。元来ほとんど薬を飲まず、どうしても仕方のない時だけ風邪薬を飲むと、これが効きすぎるくらい効いていた私のような人間は、以前、新型インフルエンザの予防接種を受けて死にそうになりました。そしてそれが引き金となって今の病を発症しました。これは私が身をもって学んだことです。これまでのワクチン行政においてはどんな体調の悪化が起きても「ワクチンとの因果関係は不明」で事が済んでいます。自分以上に自分の身体の問題を知っている者はこの世にはいないのです。ことこの点については、医者が何と言おうと「私の方が正しい」と断言できます。残念なのは我が身を実験台としてこうした確信を獲得しなければならなかったことです。やがては細胞レベルでワクチン接種の危険度の個人差を明示できる時代が来ることでしょうが、それまでは無辜の犠牲者は避けられないでしょう。

 このところ弱毒性の病原に接したようで、微熱を出して少し寝込みました。いつもの事で超低空飛行ではあっても心配はなく、昏々と二日寝ると1℃近くするすると熱が下がり、いつもの感じでじきよくなりました。今後どんな感染症が起こってもワクチンを打てない者はずっとこんな状態で暮らすことになるのでしょう。若い方々の中に一部でもワクチン接種により将来にわたって取り返しのつかない事態になる方が生じないようにと願うばかりです。



2021年6月17日木曜日

「紅春 181」


 りくの定期健診に行ってきましたが、何日か前からそこに至る準備が大変でした。5分で体を洗うだけでも唸り声をあげて嫌がるし、気ままな食生活をなだめすかしてできるだけフードを食べさせ、外に置く時は虫よけのひのきオイルをつけたタオルで体を拭いてやり、抜け替わりでボサボサの下毛を取ってやり(おかげで痩せ犬具合が目立っている)、毎日の顔拭きとタオルでの歯磨き(歯周病が気になる)・・・。人間と同じで、少しでも体裁を繕い良い結果を出したいと最後のあがきを怠りませんでした。

 りくはもちろん獣医さんのところに行くのが好きではありませんが、最近は体重の減少や血液検査で引っかかる項目があるのはわかりきっているので、連れて行く人間の方も気が重いのです。しかし、りく自身はいたって元気で、朝4時前から散歩をせがみに来ますし、本人が食べたい分だけはきっちり食べています。つまり、いまの状態は生物として避けられない、ただの老化現象だということです。それ以外は健康です。ここまで来ると、好きなことをしながら好きなものを食べて過ごすのが、一番の長生き法ではないのでしょうか。

 診察懐紙の15分前に行き、何とか駐車スペースを見つけ、周辺を散歩させながら順番を待ちました。お薬だけもらいに来ている患者もいるようで、すぐにりくの番になりました。感染症の時代になって、診察室に入れる飼い主は一人だけとされているので、あとは兄に任せて私は待合室で待機。今年からワクチン接種はしないことに決めたので、問診と身体測定、血液検査、フィラリアの検査だけで、鳴き声もせず15分ほどでりくは放免になりました。フィラリアの結果を待つ間、兄から獣医さんの話を聞いたところによると、「腎臓ケアのドッグフードとトッピングの肉類は相反の関係にあり、腎臓のことだけ考えるならタンパク質は控えた方がよいが、もう老年なのでどんなものでも食べられることの方が大事」とわかりました。つまり、考えていた方向でよかったということです。ドッグフードを主体にできるだけバラエティに富んだトッピングをして、とにかく食べさせるしかないのです。フィラリアは陰性でお薬をもらい帰宅しました。ワクチン注射がなかったのでりくは元気にしていました。あとは血液検査の結果が送られてくるのですが、多少悪くてもどうすることもできないので、あまり気にせずいつものペースで過ごそうと思います。


2021年6月16日水曜日

「ローカル局」

  今年の桃はだめらしいと、帰省して知人に聞きました。春先に急に暑いくらいになったと思ったら、その後霜が降りて花がやられてしまったのです。こういう時は一晩中桃の木の下で火を焚いて温めてやらなくてはならないのですが、あまりに突然の冷え込みで不意を突かれたのでしょう。だいぶ前に農家の方が「可哀そうなことをしました」と言って肩を落としていたのをテレビで見ました。今年はあまり桃が食べられないかも・・・と私も心配ですが、農家の方々のお力落としには比すべくもありません。

 先日帰省して夕方のニュースでも見ようとテレビをつけると、若い女性が木に登ってチェンソーで枝を伐採している場面で、思わず引き込まれてしまいました。途中から見たので県内のどこの話かわかりませんでしたが、その二十歳そこそことしか思えない女性は林業を志して先輩方に教わりながら学んでいるようでした。周囲の評価は「非常に真面目」とのことで、男社会で奮闘する彼女を温かく見守る雰囲気が感じられました。彼女は口数の少ない人でしたが、印象的だったのは「3Kと言われる林業だが、そう思ったことはない」ということと、「未来に残せるものがあるとしたら森しかないと思う」と言っていたことでした。くどいようですが、見た目はまだ少女と言っていいような若い女性です。その人がすでに「未来に何かを残す」ということを考えているのです。途中、原発事故の話がちょっと入ったので考えてみると、その当時彼女はおそらく小学生、ひょっとすると中学生になっていたかどうかという年齢だったでしょう。この十年間様々なことがあったに違いありませんが、あのような未曽有の体験はこんなにも人を成長させてしまうのかという思いに打たれました。

 また別な折に見た報道では、会津地方で酒造りに関わっているご老人の話を伝えていました。会津は放射能はほとんど関係なかったのですが、やはり甚大な影響を受けたとのことで、東電に対して厳しい批判をしていました。その方の憤りは補償がなされていないことではなく、補償できようもないシステムを平然と稼働させていたことにありました。無理もありません。福島原発の電気は1ワットも福島では使われていなかったのですから。「これからはエネルギーも地産地消でしょ?」と確信をもって問いかけており、私は思わずテレビに向かって「おっしゃる通りです」と答えていました。

 こういった放送が他の都道府県で放映されたり、何らかの形で伝わったりすることはほぼ無いのでしょう。しかし、これらはすでにある情報を垂れ流しているのではなく、地域に住み、地域で起きているトピックを「伝えなければ」と思った人が、自分で取材して報道していることに大きな意味があります。いろいろな立場で地域に根差して一生懸命働いている人を見ると、心から応援したいと思わされます。



2021年6月11日金曜日

「デジタルメディアと生身の人間」

 先日、友人が落ち込んだ声で電話してきたので何かと思えば、某通販会社の偽サイトから来たメールに反応してしまったという話でした。個人情報の入力はしておらず、通信会社に調べてもらっても不審な点はないと言われたとのことで一安心だったのですが、薄気味悪さと一抹の不安は消えず、何より注意していたのに引っかかってしまったことでずんと心が沈んでいるようでした。私もその気持ちはよくわかります。発信元を突き止めて対応するなどの技術を持った人ならいざ知らず、一般の人にはもはや到来するメールが本物なのかどうか簡単に知るすべがありませんし、たとえ技があっても全てのメールについてそのようなチェックをする時間は到底ないでしょう。これがメールでなければ、普通は電話するか、直接会う方法を選びます。メールの場合は、しかたなく自分が送信したメールの返信のみ開くことになりますが、これとて偽装返信の可能性はありますし、何より私からメールを受け取った相手が真正のメールかどうか送信元の真偽を判断できないのではないでしょうか。つまり、この便利なデジタルメディアを不正に使う人が増えれば増えるほど、メディア自体が信用を無くし使われなくなる、すなわち消滅していくしかない深刻な事態なのです。

 これはもちろんメールに限ったことではなく、捏造記事、改竄画像、偽装動画、フェイクニュースなど、およそメディアが扱う全ての領域に及びます。そしてまた、これらはデジタルメディアだけでなく、紙媒体メディアや口伝等も含めてこれまでいくらもあったことです。しかし、とりわけデジタル時代の到来とともに、その拡散の量と速度がそれまでとは別次元になり、伝達行為の意味が質的に変容したのは確かでしょう。「何が秘密なのか」も秘密という歯止めなき隠蔽増殖保護法のもと、取材側が委縮し、記者クラブでの会見内容そのままか、差し障りのない案件しか報道しないとしたら、マス・メディアとしての存在意義はどこにあるのでしょうか。また、各テレビ局がそもそも認可制で与えられた電波権を排他的に専有し、時々「電波権の停止」をちらつかされながら事業を続けるとしたら「こういう放送になるのは無理ないわな」と思わざるを得ない状況です。さらに、社員が社内での個人的野心のために報道内容を捏造したり変容させたりするケースもまれとは言えぬ頻度で起こっています。伝達内容は一度発信されれば訂正されても取り返しがつかないのが常ですから、こういったことは社会の大迷惑です。背信的行為ではないにせよ、足を使って汗をかいた取材もなく当たり障りのない放送だけを続けるなら、自ら消滅へのカウントダウンをしているようなものです。

 とにかく世にあるメディアのどれも信じられない時代になりました。流される報道のどれが本当の現実なのか(少なくともその一端を示しているのか)、誰もわからない。新聞を古紙回収に出し、テレビ・ラジオ・パソコン・スマホの電源を切って仙人のような暮らしをするのもよいですが、そうそう世間離れした暮らしを続けられるものでなし、せいぜいできるのは伝達内容の発信元を確認することでしょうか。誰が書いた記事か、誰が流したニュースか、誰が撮った画像・動画かというように、最終的には責任ある個人に行き着かざるを得ないと思うのです。「人なんて立場や場面で言うことがコロコロ変わる」と思われるかもしれませんが、それでも他のメディア情報よりはるかにマシな気がします。推理小説でよく他人に成り代わる話がありますが、日々の生活の中でその変貌ぶりを怪しまれないなんてことがあるのかと、私はちょっと信じられないのです。実際、それが糸口となって話が進む場合がほとんどですね。しばらく会わなかった人に、10年ぶり、20年ぶり、30年ぶり、40年ぶり・・・に会った時、「この人変わったな、別人みたい」と思ったことが私はいままで一度もありませんでした。それどころか、「ここまで見事に全然変わってないのか」と驚き、愉快な気持ちになることばかりでした。あ、でもこれはもしかすると、私の知り合いが権力と無縁の人ばかりだからかもしれません。これから先、デジタルメディアが衰退し、本当の話を聞くためには直接人に会わなければならない時代が来ると思います。発信元に確信が持てず悩みの種になるくらいなら、そんな媒体は無い方がましです。人間の邪悪さ、愚かさがせっかくの便利な媒体を無効化してしまったのは残念でなりません。


2021年6月7日月曜日

「デジカメの進歩」

  最近は夜が明けるか空けないかという時刻に公園に行くのが楽しみになりました。水辺の鳥たちの食事の時間が始まるからです。雨上がりの翌日などは虫が多いのか、人が歩く歩道のすぐ近くまで来てせっせと朝食を食べています。少し前まで近寄るとササっと逃げていましたが、今は慣れたのか「大丈夫な人」と認識されてきたようです。カモは草地に大体つがいでいるのですが、一世帯(?)だけ三人家族もいます。それぞれいつも同じあたりにいるところを見ると、広い草地を分け合って、おおよその縄張り的な境もあるのかもしれません。鳥は顔の側面に目がついているので、警戒中は横顔を見せながら移動しますが、通い慣れて顔なじみになったせいか、正面からドドドッと一直線にやって来るカモが1羽いて、時節柄近寄らずにいますが、とても可愛いです。

 離れたところから被写体を大きく撮るためカメラを新調することにしました。今までは写ればいい程度の関心しかありませんでしたが、ちょっと調べてみると最近のカメラの性能の底上げ具合にはものすごいものがあるとわかりました。そこそこのものでも画素数の改善度合いがすばらしく、しかもコンパクト! とはいえ、腕もないのに本格的なカメラに手を出したり、様々な機能にあれもこれもと欲を出すと結局は満足度が低くなると思い、「望遠に特化した、片手で持てるサイズ」と方向性を決め、あとは値段を考慮して一つに絞りました。

 カメラが届いた翌日、公園に行くと南の空に朝の月が見えました。白くなりかけた月にレンズを合わせ、ズームを上げていくとなんと図鑑で見るような表面のボコボコ(いわゆるクレーターですね)が見えるではありませんか。初めて望遠鏡をのぞいたガリレオもかくやと思うほど驚きました。これはすごい! その距離だと手振れがひどく画面に収めるのが一苦労でしたが、とりあえず撮影できました。昨日や今日カメラを手にしたばかりの素人にこんな写真が撮れるとは、どれだけ技術が向上したことかと恐れ入りました。そのうち空が見る見る明るくなっていき、野鳥たちが木々を飛びながら呼び交わし始めました。さすがに飛行中の鳥をカメラに収めるのは無理でしたが、鳴き声のする方向にカメラを向けてズームすると、2羽の野鳥が街灯の上で何やら朝の挨拶を交わしている模様。普段なら私には絶対見えないものを見ることができ、「おおっ、こんな使い方もあるのか」と感動しきりです。離れたところの生き物の様子を画面いっぱいの大きさで観察したり、画像として保存したりということは今まで考えたことがなかったので、散歩中の楽しみになりそうです。それにしても自然の中の動植物を見ていると、つくづく神様の造られたものはすばらしいと思うのです。


2021年6月2日水曜日

「紅春 180」


 犬の中にはいろいろな物を食べる子がいて、みかんやリンゴはもちろん、キャベツや加熱したジャガイモを食べることもあるようです。或る程度雑食なのかとかつては思っていたのですが、りくの場合は全く事情が違います。野菜・果物は食べないし、ビスケットなどのお菓子類もにおいを嗅ぐだけで「ふっ」と鼻を鳴らして行ってしまいます。タンパク質しか興味がないのです。

 帰省する時は、スーパーの宅配が届く前に何かあげられるよう、ちょっとした食べ物を持って行きます。冷凍した肉の切れ端とかチーズとかです。到着して散歩に出、家に帰って一段落すると、りくは「なんかお土産ないの?」と言うように様子を見に来たり、台所と茶の間を行ったり来たりするので、「なんか食べる?」と言って、ドッグフードに混ぜてあげます。普段食べている物とそんなに違わないのですが、ちょっとでも目先が変わった物をもらうのはうれしいようです。これで、「姉ちゃん」=「美味しい物を持って来てくれる人」が定着するのです。

 一休みしながら途中で買ったふわふわのクリームチーズパンを食べていると、りくが隣でお座りすることがあります。食べないだろうと思いながらも、「食べる?」と聞いて少しだけちぎってあげてみると、たまに食べます。こういう時はどういう具合か2口、3口と食が進み、半分近く食べられてしまうこともあります。美味しいパンはわかるのか? こんなふうに自分が食べている物を分けてあげる時には食べるかどうか聞いてからあげるのですが、以前ヘルベルトは「りくに『食べる?』って聞く?」と笑っていました。「犬なら何でも食べるだろう」との含意だったのでしょうが、りくはそんじょそこらの犬とは違います。タンパク質以外は基本食べないので、無駄にならぬよう聞いているのです。

 帰省中は私がりくの栄養士兼食事担当ですが、慣れてくるとりくはその味に飽きるらしく、美味しい物だけ食べてさっと行ってしまったり、皿の中を一瞥して「またトリか~」と言うようにふっといなくなったりします。これにはさすがにイラっとして、「そんな贅沢言う子は食べなくていい。世界にはビアフラの子供たちみたいに(いつの時代だ?)食べられない子もいるんだよ」と叱るのですが、数分後に美味しい物が追加されたかどうか平気の平左で皿を見に来るのですから、りくには勝てません。そのマイペースぶりに振り回されています。