中途失明者の支援をしている団体から年に3度会報が送られてきます。視覚障害者の生活状況はハイテク機器の発達により急速に改善されている感がありますが、2018年11月号ではまた新たな展開を知らされました。話にはよく聞くウェアラブル端末の一つで、スマートグラスについてです。
書かれた方は次第に低下していく視力の中で、電車の乗り換え案内や出口の表示が見えない、買い物に行っても商品が何かわからない、値段が見えない、洗剤や食品、調味料などのラベルや注意書きにある、使用量、用途がすぐにわからない、人の顔もあまリ見えないのでバッタリ会った時に誰かわからない、日々届くDMや手紙、カタログ、様々な書類やレシートなどが、見てすぐ処理できないため、少し油断すると、どんどんたまっていく等の困難を抱えており、誠に身につまされる話です。
その方がこのスマートグラスを体験し感想を書いているのですが、一言で言うとこの機器は、見た文字を代わりに音声で読み上げてくれ、しかも翻訳までできるとのことです。「多くの視覚障害者が困難を抱えている活字を、メガネ型のデバイスで、いとも簡単に読むことができるようになるなんて、想像できないことでありましたし、遠い未来の話だと思っていた」と述べられています。以下、具体的な説明です。
「スマートグラス」とは、ウェアラブル端末(身に着ける機械)の一つで、眼鏡をかけるように使います。センサーやカメラ、マイクなど様々な機能が搭載され、インターネットにもつながるので、メガネの形をしたスマートフォンと考えてもよいでしょう。
今年に入り、さらにバージョンアップした機械が発売になり、その機械は活字を読むだけでなく、人や物、色の認識もでき、簡単なジェスチャーによって操作が可能です。こうした機能の元になっているのは、多くの視覚障害者が困りごととして挙げていることであり、これらの手助けができると、困りごとの解消につながることでしょう。」
この方は、これらの機器が身近になることによって、「新しい楽しみや希望が発見できる」こと、「とかく受け身になりがちな視覚障碍者の生活が、誰のサポートも受けず『自立した』ものに近づくと期待できる」と述べています。
体験していないのでわかりませんが、要するに目の代わりになってくれるものであることは間違いありません。私の場合は、手元に引き寄せられるものは短時間ならまだ読めますが、バスの行き先の表示はだんだんきつくなってきているし、信号機のライトの下についている地名の表示はお手上げなので、不案内な土地に行くときは単眼協が手放せません。ただ、人間は目に入っていても意識しないものは見えていませんが、「このスマートグラスは全部読み上げるんだろうか。そうなるとかなりうるさいだろうな」と、そのあたりのことが気になります。
11月号の中でもう一つ気になった記事は、ご自身も視覚障害のある筑波技術大学教授が9月交流会で講演された内容を文字に起こしたものでした。この方は、「目の状態によって墨字も展示も使えるのはとても便利」と述べていましたが、これはよくわかります。私は書いてきた原稿をその場で読むことができませんが、点字を使える方は手で原稿を読みながら話ができるのを盲学校で見て「ああ、便利だろうな」といつも思っていたからです。それはともかく、「人生は小説よりも奇なり」と言いながら、この方は生い立ちを述べていく中で、当時は東京教育大学教育学部の附属盲に入り、筑波技術大学教授になるまでの半生を語っていきます。筑波技術大学は視覚障害と聴覚障害を持っている人だけが入れる大学で、世界的にも珍しく、少なくともアジアではここだけだそうです。筑波技大には理療科(あん摩・鍼・灸の三療)のがあり、教員養成コースもあります。「他のアジアの国々は、(視覚障碍者による)マッサージはまだまだという状況です。なぜなら、それは教員を養成する学校が無いためです。つまり、私が理療科教員になれたのは、理療科の教員を養成する制度が日本にあったからです。・…(中略)・…そして、さらに遡ると盲学校を作った、あるいは理療科という制度を作った、あるいは理療科教員の養成制度を作った、かつての先輩や先人のおかげだと思いますし、こういう制度は世界に冠たるものと言っても良いと思うのです」と述べています。ここから〈理療の歴史〉になります。
日本が世界に誇ることのできる文化はたくさんありますが、日本の理療科の教育制度や、理療科の教員養成制度、業の免許制度というのは、紛れもなく日本が世界に誇ることのできる文化だと思います。特に盲人の職業史をひもとけば、盲人の福祉と自立の手段をかすがいにかけて実現させてくれるわけです。そういう意味では世界に例のない職業文化だと思っています。
そういう文化を築き上げた最初の人は杉山和一という江戸時代中期の全盲の鍼医(鍼医者)です。1680年代~1690年代にかけて、幕府の補助を得て鍼やあん摩を教える稽古所の誠治講習所というものを作りました。世界的にみると、パリでバレンタイン・アユイという人の創った盲人職工学校が、ヨーロッパでの盲人職業教育の最初ですから、誠治講習所はまさに世界の先駆けだったのです。
そして、2番目は山尾両三という人です。日本にも盲唖教育の学校を作るべきだと、明治4年に盲唖学校建設の建白書を太政官に出し、楽善会訓盲院という、今の筑波大附属盲学校の前身が作られますが、楽善会の校舎を作る時の筆頭寄附者が山尾庸三でもありました。
それから、奥村三策です。この方は、楽善会訓盲院の鍼按科と言いましたが、そこの助教(助手・教諭)になる人です。とにかく優秀な方で、鍼灸の研究や鍼灸教育の教科書をたくさん書いていて、「近代鍼灸教育の父」と言われています。彼が教諭時代に、楽善会はちょうど財政難のために文部省に移管されるのですが、この移管を機に文部省は楽善会で行われていた鍼の教育を禁止します。もし、鍼の教育がそのまま禁止となっていれば、今の鍼灸学校は無いわけです。彼は、当時の帝国大学の先生を介して近代医学の病理学、解剖学、生理学をきちんと教え、鉄のような太い鍼を使わず細い鍼を使うのであれば盲人に鍼を教えても良いという内容の「誠治採用意見書」を出させた功績もあります。
4人目は芹渾勝助先生です。我々の恩師で、戦後の荒廃した理療教育、鍼按教育を立て直した先生です。今の理療科教育の制度や業の制度も含めて、この芹渾先生が中心になって作ったのです。
初めて知る三療(教育)の歴史に、「昔の人は偉かった」の一言です。このような営々たる努力の積み重ねが脈々と受け継がれてきた社会を知り、引き継いでいかなければならないでしょう。スマートグラスとは直接の関係はないでしょうが、見えない目で社会のフルメンバーとして生きていきたいという思いがその発明に何らかの影響を与えていないはずはないと思います。