さて、次に「社会」という語の初出例を書いた福地桜痴(源一郎)であるが、この人の経歴はなかなか面白い。福地は儒医・福地苟庵の息子であるが、漢学、蘭学を学んだ後、江戸に出て森山栄之助の下でイギリスの学問や英語を学んでいる。その後、通訳として外国奉行支配通弁御用雇となり、翻訳の仕事に従事することとなった。万延元年(1860年)に御家人に取り立てられ、柴田日向守に付いて通訳として、文久2元年(1862年)には文久遣欧使節(幕府が初めてヨーロッパに派遣した使節団)に参加している。言うまでもなく、これには福沢諭吉も参加しており、二人はここで出会っているのである。言ってみれば福地と福澤は旧知の仲なのだ。福澤27歳、福地20歳の時である。
ここで、「明治期における『社会』概念」の執筆者の記述を通して、明治8(1875)年1月14日『東京日日新聞』の福地の社説に戻る。
弁駁の論文は新聞紙上に多しと雖ども、昨日(一月十三日)日新真事誌に登録したる、文運開明昌代の幸民、安宅矯君が我新聞に記載したる本月六日の論説を批正せし論より期望を属したるはなし。吾曹はその全局の趣旨と全文の遺辞とを以て、此安宅君は必ず完全の教育を受け、高上なる社会(ソサイチー)(ソサイチー)に在る君子たるを卜するを得るに付き、吾曹が浅見寡識を顧みず、再び鄙意を述べ、謹んで教えを請わんと欲す。
・・・・・(中略)・…
唯冒頭の一節の如きは蓋し打過他的の議(ペルソナルアタック)ペルソナルアタック)に係るより、吾曹は苟も世に公にするの新聞に於て、身上の実告(ペルソナルプロテスト)(ペルソナルプロテスト)を成す可き自由を有せず。仮令い(たとい)此自由を許さるるも、吾曹は勉強と経歴との援助を以て、漸く高上なる社会に加わらん事を祈望するに依り、昔日の粗鄙なる昞習を逐うて実告を為すを愧じ、又之を為すに忍びず。(248頁~249頁)
ここに2度出てくる「高上なる社会(ソサイチー)、および打過他的(ペルソナルアタック)、身上の実告(ペルソナルプロテスト)等のカタカナ語の乱れ打ちは、執筆者の言うように、確かに符丁であり目配せであった。しかし、それは誰に対するシグナルなのであろうか。
福沢諭吉によって『學問のすゝめ』(初編)が出版されたのは明治5(1872)年2月である。この書は元来、福澤が郷里中津に設立した「中津市学校」という洋学校のために書かれたものだったが、中津だけに留めておくのはあまりにももったいないとの声が挙がり、一般の読者に向けて全国的に出版したところ、空前絶後の大ベストセラーになったものである。従って印刷は慶應義塾の三田印刷工場において行われた。この時点では『学問のすゝめ 全』として1冊で完結したものだったが、その後に2編・3編…と続々と刊行されて、最終的には明治9(1876)年11月に17編まで出版された。明治7(1874)年1月1日に書かれた『学問のすすめ』の五編を見てみよう。福澤は次のように述べている。(ただし、傍点は筆者)
五編
『学問のすすめ』はもと民間の読本または小学の教授本に供えたるものなれば、初編より二編三編までも勉めて俗語を用い文章を読みやすくするを趣意となしたりしが、四編に至り少しく文の体を改めてあるいはむずかしき文字を用いたるところもあり。またこの五編も明治七年一月一日、社中会同の時に述べたる詞を文章に記したるものなれば、その文の体裁も四編に異ならずしてあるいは解げし難きの恐れなきにあらず。畢竟四、五の二編は学者を相手にして論を立てしものなるゆえ、この次第に及びたるなり。
世の学者はおおむねみな腰ぬけにてその気力は不慥ふたしかなれども、文字を見る眼はなかなか慥かにして、いかなる難文にても困る者なきゆえ、この二冊にも遠慮なく文章をむずかしく書きその意味もおのずから高上になりて、これがためもと民間の読本たるべき学問のすすめの趣意を失いしは、初学の輩はいに対してはなはだ気の毒なれども、六編より後はまたもとの体裁に復かえり、もっぱら解しやすきを主として初学の便利に供しさらに難文を用いることなかるべきがゆえに、看官この二冊をもって全部の難易を評するなかれ。
明治七年一月一日の詞
(「高上になりて」に傍点)
「明治七年一月一日、社中会同の時に述べたる詞」とはっきりかかれているように、すなわちこれは慶應義塾の新年会での挨拶なのである。従って、「社中会同」とは慶應義塾の教員の集まりを指すが、学者相手の話ゆえ、四編同様五編も「遠慮なく文章をむずかしく書」くと、福澤は宣言しているのである。その直後に「その意味もおのずから高上になり」と書かれている。
福地桜痴はジャーナリストであり、福澤の筆が生み出す『学問のすゝめ』は続編が刊行されるごとに当然目を通していたことだろう。「社中会同」は縮めれば「社会」、「高上なる社会」は確かに学者、知識人への符丁であろうが、誰より福澤本人への目配せであったろう。もう一つ礼を挙げよう。『学校の説』は明治3(1870)年三月に書かれているが、慶応義塾のための敷地として三田の島原藩邸を借り受けて、その建物の払い下げに成功したのは11月であるから、この文はそれ以前にもう書かれていたことになる。全編が実に興味深いが、学問における使用言語についての福澤の持論が述べられている部分を引用する。(傍点は筆者)
(一名、慶応義塾学校の説)
・…前略・・・・
一、 学問は、高上にして風韻あらんより、手近くして博きを貴しとす。かつまた天下の人、ことごとく文才を抱くべきにもあらざれば、辺境の土民、職業忙わしき人、晩学の男女等へ、にわかに横文字を読ませんとするは無理なり。これらへはまず翻訳書を教え、地理・歴史・窮理学・脩心学・経済学・法律学(これらの順序をおい原書を翻訳せざるべからず。我が輩の任なり)等を知らしむべし。
・・・・中略・・・・
洋学の順序
一、幼年の者へは漢学を先にして、後に洋学に入らしむるの説もあれども、漢字を知るはさまで難事にあらず、よく順序を定めて、四書五経などむつかしき書は、字を知りて後に学ぶべきなり。少年のとき四書五経の素読に費ついやす年月はおびただしきものなり。字を知りし上にてこれを読めば、独見どくけんにて一月の間に読み終るべし。とかく読書の要は、易きを先にし難きを後にするにあり。
一、漢洋兼学は難かたきことなれば一方にしたがうべきなど、弱き説を唱うるものなきにあらず。されども人の知識は勉むるにしたがい際限なきものなれば、わずかに二、三ヶ国の語を学ぶとて何ぞこれを恐るるに足らん。洋学も勉強すべし、漢学も勉強すべし、同時に学んでともに上達すべし。西洋の学者は、必ずラテン、ギリーキの古語を学び、そのほか五、六ヶ国の語に通ずる者少なからず。東洋諸国に来たる欧羅巴人は、支那・日本の語にも通じて、著述などするものあり。西洋人に限り天稟文才を備うるとの理もあるまじ。ただ学問の狭博はその人の勉・不勉にあるのみ。
一、翻訳書を読むものは、まず仮名附の訳書を先にし、追々漢文の訳本を読むべし。字を知るのみならず、事柄もわかり、原書を読むの助けとなりて、大いに便利なり。国内一般に文化を及ぼすは、訳書にあらざればかなわぬことなり。原書のみにて人を導かんとするも、少年の者は格別なれども、晩学生には不都合なり。
二十四、五歳以上にて漢書をよく読むという人、洋学に入る者あれども、智恵ばかり先ばしりて、乙に私の議論を貯えて心事多きゆえ、横文字の苦学に堪えず、一年を経ずして、ついに自から廃し、またもとの漢学に帰る者ままこれあり。この輩はもと文才ある人なれば、翻訳書を読み、ほぼ洋学の味を知りて後に原書を学ぶようにせば、苦学をも忍びて速やかに上達するはずなれども、ひっきょう読むべき翻訳書乏しきゆえにこの弊を生ずるなり。漢学生の罪にあらず。ゆえに方今、我が邦にて人民教育の手引たる原書を翻訳するは洋学家の任なり。
右は我が邦今日の有様にて洋学を開く次第を述べたるのみ。年月を経るにしたがい学風の進歩することあらば、その体裁もまた改まるべし。
明治三年庚午三月
慶応義塾同社 誌しるす
(「学問は高上にして」に傍点)
初っ端から「学問は、高上にして」と始まっており、福澤にとって「高上なる」は「学問」の枕詞のようなものであると知れるが、このように「高上」とは福澤が学問について用いた言葉であるとすれば、新聞紙上における福地の言葉遊びが福澤に向けたものなのは明白である。一方、カタカナ語の多用で思い浮かぶのは英語かぶれの森有礼の顔である。森は明治4(1871)年には国語外国語化論を提唱しているから、前述の如く「国内一般に文化を及ぼすは、訳書にあらざればかなわぬことなり」と明確に述べている福澤とは、外国語の取り扱いについては真っ向から対立していたのである。明治7年の4月3日に発刊された『明六雑誌』の第一号の論説名は、西周の「洋字を以て国語を書するの論」と西村茂樹の「開化の度に因て改文字を発すべきの論」であった。なんと森有礼に近いローマ字表記論が創刊号の論説なのである。福澤にとっては決して認めることのできない宣戦布告と言ってよい。
いや、明六社の設立および明六雑誌の創刊を迎え撃つかのように、『学問のすゝめ』の続編を次々に書いたのは福沢の方であった。
明治6(1873)年11月、二編刊行
明治6(1873)年12月、三編刊行
明治7(1874)年1月、四編刊行
明治7(1874)年1月、五編刊行
明治7(1874)年2月、六編刊行
明治7(1874)年3月、七編刊行
明治7(1874)年4月、八編刊行
明治7(1874)年5月、九編刊行
明治7(1874)年6月、十編刊行
明治7(1874)年7月、十一編刊行
実際、明治7(1874)年4月発行の『明六雑誌』第2号の論説は、加藤弘之の「福澤先生の論に答う」、森有礼の「学者職分論の評」、津田真道の「学者職分論の評」、西周の「非学者職分論」であって、すべてがその年の1月に発表された福沢諭吉の『学問のすゝめ』四編、「学者職分論」への反論となっている。福澤が明六雑誌に寄稿したのは、明治7(1874)年12月(征台和議の演説)、明治8(1875)年1月(内地旅行西先生の説を駁す)、明治8(1875)年3月(男女同数論)のみであり、一連の福澤の行動からその意図を読み取るのはたやすいことに思われる。
福澤の狙いは明六社を上手に解散させることにあった。いくら強調してもし過ぎることがないのは、福澤のリアリストとしての透徹した目である。たとえ日本がアメリカの植民地にならなかったとしても、国語にとっての危機の導火線は身近なところにあったのである。実際、明治18 (1885) 年に第一次伊藤内閣において森有礼が初代文部大臣に就任したことを考えれば、水村美苗の『日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で』に描かれる世界が150年前に生起する可能性はゼロではなかった。国語に関して森有礼を暴走させないことは、福澤にとって最重要課題であったろう。そして、福澤は明六社の解散を1年半で成し遂げたのである。
援護射撃をしたのは福地桜痴であった。これについては確かな証を後述する。だから、「明治期における『社会』概念」の執筆者が次のように書くとき、「福地が森有礼の構想した『ソサエチー』を『高上なる社会(ソサイチー)』に変形して我が物としたのである」との指摘は正しい。
安宅の投稿に見られるように、投稿家のサービス精神はときにあえて挑発的で攻撃的な言辞を弄することで、議論を討議的な見世物に仕立て上げようとする傾向があった。だが、凶暴で無作法な文章の増加と共に、新聞メディアが無法地帯化して存在価値を自ら毀損してしまうことへの懸念から、投書家に自重を求め、発話のルールの制定の必要を訴える言説も現れるようになった。自発的アソシエーションに比べると、より多くの人々に開かれた新聞メディアにおいては、人間関係実践の質を維持するのは困難だったのである。実際この時点で、新聞の言論を規制する法律は存在していなかった。福地桜痴はこのような状況のなかで、大蔵官僚から新聞界に転身してきた人物であった。福地は最初から新聞紙上の発話と言論のルールの制定者としてふるまう野心を抱いていた。この時個人攻撃批判と個人の名誉の保護がルールの重要な柱とされたのであり、それについてかたるために福地は、森有礼の構想した「ソサエチー」を「高上なる社会(ソサイチー)」に変形して我が物としたのである。 (253頁)
福地の野心と言論における個人の保護の重視については皆目知らないので、知っている事実を述べると、実は福地は江戸開城後の慶応4年閏4月(1868年5月)に江戸で『江湖新聞』を創刊し、明治新政府の怒りを買う持論を述べ、新聞は発禁処分となり逮捕されるという事件を起こしている。木戸孝允の取り成しにより、無罪放免となったが、この事件は明治時代初の言論弾圧事件であり、太政官布告による新聞取締りの契機となった。逆に言えば、福地はどの程度のことをやれば、政府が乗り出してくるかわかっていた。結局、福地の思い通りに事が運び、福澤は明六雑誌の停刊、明六社の活動停止を提案する。この部分について、「明治期における『社会』概念」の執筆者は次のように書いている。一部前記のものと重複するがもう一度引用する。
・・・・政治権力によって与えられるルールが自己のルールを超越する状況の到来は、自ら制定したルールによる自己統治の原理の崩壊にほかならないのであり、その上うな状況のなかで活動することは明六社「ソサェチー」の存在理由と完全に矛盾するということに、活動停止の提案者となった福沢諭吉はよく気づいていた。そしてそれに賛成した明六社員の過半数もまた、福沢のいわんとしたことを理解していたのである。
福沢の提案を読んだ福地は「社会の為めに喟然として浩嘆するを覚えざるなり(「覚えざるをえざるなり」の誤りか)(『東京日日新聞』一八七五年九月八日、傍点引用者)(「社会の為めに」に傍点)と慨嘆してみせたが、何をか言わんやであろう。(254頁)
執筆者は、「社会の為めに喟然として浩嘆するを覚えざるなり」を(「覚えざるをえざるなり」の誤りか)と書いているが、ここはそのまま正しく読まねばならない。福地は、「明六社の活動を停止するという福澤の提案を読んで、社会のために(仕方がないと)ため息をついて、ひどく慨嘆したりはしない」と明確に述べているのである。この言葉が新聞の読者にどのように伝わったのかわからないが、少なくとも福沢諭吉は福地が社説の中で送っていた符丁に気づいたであろうし、新聞紙上での一連の騒動がもたらす結果について、福地の応答を過たず受け取ったはずである。実際、社会のためにやむを得ない決断であったのだ。ここで福地が「社会の為めに」という社会は、「高上なる社会」という時の社会とは違う使い方であり、言わば〝consumer society″(消費社会)のような、かなり広い一般的な人間集団が作る共同体を指している。それは、明治16(1883)年に板垣退助が帰朝演説において用いた「生活社会」や「政治社会」という用法に近いだろう。
これまで述べてきた経過状況に身をおいて、改めて、「高上なる社会」についての執筆者の分析に関する次の箇所を読んでみよう。
このテクストはこれまで初出としてしばしば辞書や研究に引用されながら、分析されることのなかったものであるが、確かにこのテクストだけからでは「高上なる社会」の意味は不明瞭な印象しか与えないだろう。福地の使い方は、明らかに唐突であり不親切である。しかし、たとえ柳父が考えるようにこの言葉の意味が空疎なものであったとしても、発話者にはこの言葉を使う動機があったことは否定できない。そこで私たちは言葉の使い方そのものへと、この言葉がこの時この状況でどんな現実を語るために使われたのかという点に注意を向ける必要がある。なぜなら「社会」という言葉はこののち定着して今にいたるが、初めて使われた段階ではごく不安定な存在だった。誰にとっても見慣れないこの言葉が、それでも何かを伝えることができたのだとしたら(そしてそれができたからこそ、この言葉は生き延びることになったのだが)、そのこと自体が奇跡的なことだったといえるからだ。
重要なのは、この言葉自体が単独でなにかの意味をもつことではなく、この言葉でなにごとかを了解し合う関係や、その上うな関係を支える制度がそこにすでにできあがっていた、もしくはまさにできあがろうとしていたという点なのである。あるいはこの言葉の発話自体が、その上うな関係や制度を作り上げることをなんらかのかたちで促すものであったかもしれない。そして結局のところ、言葉がどの上うな意味をもつかを規定するのは、すでにできあがっていたり、あるいはまさにここで作られようとしている了解の関係と制度が織りなすコンテクストなのである。 (248頁~249頁)
福地桜痴、福沢諭吉、森有礼(と明六社)という三者の来し方とその関係を知った今となっては、上記の箇所はまことに五臓六腑に染み渡る思いではないだろうか。一言付け加えるなら、柳父章の考えとは違い、造語による新語であっても「それが母国語である限り」、その言葉の意味が空疎だということはあり得ず、その言語の使い手は瞬時にその意味を理解し得るということであろう。福澤は「社会」を「社中会同」として瞬時に理解したのみならず、「『社中会同』略して『社会』、うむ、簡潔でわかりやすい。なかなかよいではないか」と、その言葉を気に入ったのではないかと想像して、私は楽しくなってしまうのである。
さて、これまで「社会」という語が形成されるまでの道筋を、知識人の動きを中心に見てきたが、もはや「概念」についての考察は私の力の及ぶところではない。その後、「社会」という語が辿った変遷に関連する外国事情をざっと見てこの小論を終わることにしよう。欧米を視察した人々が口をそろえて劇場における「社交」の重要性を強調するのは無理もない。英国における演劇は、例えばシェークスピアの所属した劇団は、そもそも女王陛下の興行師たちとして始まり、エリザベス女王の晩年、グローブ座を建てて大衆相手に興行するようになってもそれは変わらなかったし、女王の死後は、〝King’s Men″としてジェームズ一世からお仕着せを頂いている間柄であった。また、ナポレオン戦争の戦後処理を話し合うウィーン会議(1814年9月1日~1815年6月9日)においては連夜の舞踏会が催され、「会議は踊る、されど進まず」と皮肉られた話は有名である。政治と社交は一体であり、それが西洋の作法であった。〝high society ″(上流社会)という言葉があるが、〝society ″はそれ一語で社交界の意味があることを忘れてはならない。
ドイツにおいてフェルディナント・テンニースが〝Gemeinschaft und Gesellschaft″(ゲマインシャフトとゲゼルシャフト)を著したのは1887年であり、「社会」の概念は諸外国においても重層的なものであることが時代を追って示されてゆく。明治15(1882)年に中江兆民がジャン=ジャック・ルソーの〝Du Contrat Social ou Principes du droit politique″(社会契約について、もしくは政治的権利の原理、1762年)いわゆる『社会契約論』の二編六章までを漢訳し、解説をつけて『民約訳解』として発表した時、フランス語の〝Social″を「民」と訳しているのは誠に適切であるといわなければならない。この書は漢語で書かれなければあれほど簡潔で深く豊かな文体は生まれなかったであろうし、またそれほど著名になることはなかったであろう。この書が自由民権運動に与えた影響は大きく、ここでも言語に対する福澤の深い洞察がいかに遠くまで及んでいたかに驚嘆せざるを得ない。
明治期における「社会」の概念を扱っている間に、明治期の「国語」問題に着地してしまいました。薩摩弁がわからず大山巖と英語で話していたという山川捨松の例に見られるように、同じ日本という国にあってもそれぞれのお国訛りでは意思疎通が難しい現状であった明治期には、外国語の流入を通して自分の国の言語に初めて目を向ける機会になったに違いありません。基礎研究のしっかりした論考からは多くの示唆が得られ、次々と新たなアイディアが浮かびました。たぶん傍から見ればお笑いでしょうが、私が抱いていた疑問は氷解し、自分の中では話が完結したので、その由来をらせん状に内側へ切り込むような仕方を目指して書いてみました。明治という時代は日本が諸外国と初めて直接大規模に接触し、圧倒的な影響を受けながらも、巨視的に見れば珍しく賢明に振舞った時代だと思います。現代というこの困難な時代に、たとえ一人でも福沢諭吉のような骨のある真正のリアリストがいてくれたらと思わずにいられません。