2019年1月20日日曜日

「明治期における『社会』概念」を読んで(その1)

『近代日本の思想をさぐる』という本の中で、「明治期における『社会』概念」の項目を読みました。この時代の新語、即ち欧米の事物を表す言葉の訳語はほとんど福澤諭吉か西周が造語したかのように思っていましたが、これはもちろん私の勉強不足で、ことはそんなに簡単ではありません。「社会」という語については、英語の〝society″を「社会」と訳した最初の例と認められているのは、東京日日新聞の主筆で社説を書いていた福地桜痴(福地源一郎)だということを初めて知りました。当時は読者を増やす狙いもあったようで読者とのやりとりが人気を呼んでおり、それが過熱してかなり過激な意見や名誉棄損に当たると思われる投書もあったようなのですが、福地桜痴が或る投稿者に対してカタカナ語満載の言葉を用いて応戦する中で、「高上なる社会(ソサイチ―)」(「社会」にソサイチーというルビが振られている)という言い方をしたのが最初とのことでした。
 それまで〝society″は様々な訳語があてられており、例えば福澤諭吉は「人間(じんかん)交際」、西周・津田真道は「相生養之道」と訳していましたが、森有礼のようにカタカナで音声を写す以外には翻訳不能だという意見もありました。福澤諭吉が自分の翻訳語をあっさり捨てて「社会」という翻訳後に切り替えていったことに私は興味を引かれなお読み進めながら、三人の人物とその関係をもとに考えたことを書きます。(ここから常体)
 
 ここで最も注視しなければならない人物は森有礼である。彼は薩摩の郷中教育が功を奏したのか、1865年に五代友厚らと英国に密航し(密航といってもこれは幕府から見てのことであって、薩摩藩の命を受けた留学生としての渡航である)、ロンドン大学で学んでいるが、ここで長州藩の井上馨、伊藤博文らと会っている。森有礼は語学の才能があったらしく、その時代切っての英語の使い手だったと思われる。それは、明治2 (1869)年の廃刀案否決で辞表提出による出入りはあったものの、ずっと明治政府の外国関係畑に身を置いており、なにより英語でいくつかの著作を残していることからもわかる。経歴をざっと見てみると

明治1 (1868) 年、徴士外国官権判事、学校取調兼勤
明治4(1871)年、1月に少弁務使として米国渡航
明治5 (1872)年、米国中弁務使、ついで米国代理公使に昇任
明治6 (1873) 年、 帰国後「明六社」結成,外務大丞に昇任
明治8 (1875) 年、 特命全公使として清国渡航。
明治10 (1877)年、 帰国後、外務卿代理に昇任。
明治11 (1878)年、 外務大輔に昇任。
明治12 (1879)年、 駐英公使として英国渡航。
明治17 (1884) 年、帰国後、参事院議官、文部省御用掛兼勤。
明治18 (1885) 年、第一次伊藤内閣初代文部大臣就任。「学政要領」立案。
明治19 (1886)年、 学位令、師範学校令、小学校令、中学校令、諸学校通則などを公布。
明治20 (1887)年、各地で学事巡視。伊勢神宮不敬事件が起こる。

こうしてみると、森有礼のキャリアは外国関係、教育関係のみであることがはっきりする。在野にいたのはほんの一時で、明治2(1869)年に辞表を出して、翌明治3(1870)年に興国寺跡で英学塾を開いていた森有礼が、その後すぐに少弁務使として米国に渡航していることには驚かされる。弁務使とはまさしくアメリカにおける岩倉使節団の世話役要員であり、わざわざそのために政府に呼び戻されたともみることができよう。それほど、森有礼の英語力は重宝され買われていたのである。(ちなみに、小説ではあるが古川薫の『桂小五郎(下)』には、森有礼についての興味深い記述がある:不平等条約改正のため、「一気に調印しようと使節団をけしかけたのは少弁務使の森有礼である。 …」、「少弁務使といえば、代理公使にあたる程度の身分だが、ひどく尊大に構えている。 …」、「少弁務使の森有礼は、使節団の世話をする立場にあり、岩倉大使のところにもよく顔を出していたが、そのうち次第に横柄な態度をとりはじめ、大使の許しも得ないでひとり旅行に出たりするようになった。 …」等の描写である。) そして、この使節団には後に大蔵官僚となる福地源一郎が一等書記官として加わっていた。福地が全面的に新聞界に転身するのはその後である。

森有礼は、明治6(1873)年9月の岩倉使節団帰国に合わせるかのように、7月に米国から帰国しているが、その後すぐ「明六社」の結成に動いている。この明六社という集まりは日本史を習った時にもどうにもよくわからなかたのであるが、「明治期における『社会』概念」の執筆者によると、次のように書かれている。少し長いが引用する。

 これは十八~十九世紀の西洋のシヴィル・ソサェティーに特徴的だった自発的アソシエーション結成の再現の試みであり(シュテファン・ルートヴィヒ・ホフマン『市民結社と民主主義』)、学術的な交流を看板にしつつ、めざされたのは近代的で普遍的な人間関係実践のルールの構築とその実現であった。アソシエーションは「デモクラシーの学校(トクヴィル『アメリカのデモクラシー』と呼ばれた通り、元来、政治的共同体の形成のための実験と教育の場であった。 
 具体的には相互の対等性と差異の尊重を原則とし、社交の絆によって結ばれながら、対話と議論をつうじた決定によって自己統治を目指す近代の普遍的人減関係実践は、明治初年の日本においてさまざまな面で焦眉の急として求められたものであった。とりわけ直近の過去である幕末に異論の封殺手段としてのテロリズムの横行を経験していたがゆえに、その必要は切実であった。「公儀輿論」に基づくことを原理原則として掲げた維新政権は、新しい統治システムのなかに最初から議事機構を組み込んでいた。明治政府首脳たちが本心ではそこまで乗り気でなかったにしても、実際に選出された議事員として議事行為に関わった人々はそこで、制定された議事運営を行うというまったく新しい自己統治の体験を積むことになった。そして彼らは苦い失敗や挫折を繰り返しつつ、新たな人間関係実践の編成の必要を痛感することになった。森有礼をはじめ明六社に参加した人々も、多くがこうした経験を背景にもっていたのである。明六社は自ら制定した「制規」にのっとって正規メンバーを少数に限定することで、人間関係実践の理念型を追及する実験の場であった。自らルールを制定してそれにのっとり自治的に運営される自発的アソシエーションとしての「ソサエチー」は議事機構経験者たちの媒介もあり、こののち各地で展開されていく。 (251頁~252頁)

 ここで言われているソサェティーとは、現代の日本人が使っている〝society″(社会)とは性格を異にしている。現在我々になじみ深い「社会」の表現は、例えば、〝aging society″ 高齢化社会、〝consumer society″消費社会、〝open society″ 開かれた社会、〝plural society ″(複数民族から成る)複合社会、〝throwaway society″ 使い捨て社会などであって、国とか相当大きな共同体に使うものであるが、明六社が実験の場として想定している〝society″は、例えば、〝American cancer society″ 米国癌学会、〝benefit society″共済組合、〝choral society″ 合唱団、〝Fabian Society″ フェビアン協会、〝Humane Society″ 動物愛護協会、〝Linnean Society″ リンネ協会、 〝Royal Society″ 王立協会、〝temperance society ″禁酒の会、〝voluntary Euthanasia Society ″尊厳死協会などの、個々の主張や特質を持つ人々の集まり、あるいは学究的な集まりであって、今日では「社会」とは呼ばれず、「組合」、「協会」、「学会」等という語があてられている。確かにこういったものは明治期の日本には見当たらず、森有礼が試みに「相互の対等性と差異の尊重を原則とし、社交の絆によって結ばれながら、対話と議論をつうじた決定によって自己統治を目指す近代の普遍的人減関係実践」を行うための場として明六社を作ったのだ、というところまでは本書を読んで理解できた。