明六社の会員は、森有礼、西村茂樹、津田真道、西周、中村正直、加藤弘之、箕作秋坪、福澤諭吉、杉亨二、箕作麟祥らであり、定例演説会における個別テーマについての意見交換を基に筆記したものを発表するというスタイルが用いられた。明六雑誌は幅広く多くの官吏や学生、旧士族等の知識人に読まれただけでなく、新聞にも内容が転載されたため大きな影響力をもった。学術雑誌と言う体裁であったから政府の統制は受けなかったものの、欧米の諸制度や思想を紹介して、それを文明国基準として日本の制度や考え方に批判を加えることもあるとすれば、容易に自由民権運動の理論的正当性の根拠ともなり得た。明治8(1875)年6月の太政官布告、讒謗律・新聞紙条例の制定が直接的に関係したかどうかは定かでないが、結局明六雑誌の発行はこの年の9月をもって43号で停刊となり、明六社は事実上解散となった。解散の理由について、「明治期における『社会』概念」の執筆者はこのような提起をしている。
これについては従来、明六社員には多くの官僚が含まれていたためにこれらの条例が活動に打撃を与えたという外部要因主導説と、そもそもすでに明六社は理念を失っていた/自ずと消滅すべき運命にあったところで条例が決定打となったという内部要因主導説が唱えられてきたが、どちらもあまり正鵠を射ていない。「ソサエチー」から「社会」への移行のなかで、中心化される人間関係実践の原理が〈対等性と差異の尊重・社交・自己統治〉から〈人格権の保護〉に移動していたのである。政治権力によって与えられるルールが自己のルールを超越する状況の到来は、自ら制定したルールによる自己統治の原理の崩壊にほかならないのであり、そのような状況のなかで活動することは明六社「ソサエチー」の存在理由と完全に矛盾するということに、活動停止の提案者となった福澤諭吉はよく気づいていた。そしてそれに賛成した明六社員の過半数もまた、福澤のいわんとしたことを理解していたのである。 (254頁)
ここで「政治権力によって与えられるルールが自己のルールを超越する状況の到来」と述べられているのは讒謗律・新聞紙条例の制定を指すが、それが明六社設立の理念に関わっていたかどうかとは別の要因で、明六社は活動停止し解散となったのではないかと私には思われる。その理由を述べよう。福澤諭吉は森有礼より一回りも年長であるが、明六社の代表を受けることなく、明六雑誌にも論説を3本しか寄せていない。(津田真道は29本、西周は25本、森有礼、西村茂樹、中村正直が11本である。)しかし、その後明治12(1879)年1月に、研究者による議論や評論を通じ学術の発展を図る目的で設置された政府機関、東京学士会院において福澤は初代会長を務めている。福澤自身は、学士会院が文部省や明治政府に寄りかかることを嫌い、明治13(1880)年脱退することになるのだが、東京学士会院はやがて帝国学士院を経て、日本学士院へと至る。
私が福澤諭吉を希代のリアリストと認め、そのヴィジョンの射程が極めて遠いことに驚いたのは『痩我慢の記』を読んでからである。これは福澤が旧幕臣でありながら明治政府に出仕し高い地位に就いていた勝海舟と榎本武揚を非難して二人に送った書簡である。福澤がそれを送ったのはまさしく彼らを傑出した人物と認めていたからであり、国家存亡の危急の時こそ、傑物の身の振り方は試されると福澤は二人に自分の主張を突き付けている。。そしてさらに「痩我慢」を忘れた二人に向かって次のように言い放つ。
「我日本国民に固有する痩我慢の大主義を破り、以て立国の根本たる士気を弛めたるの罪は遁るべからず。一時の兵禍を免れしめたると、万世の士気を傷つけたると、その功罪相償うべきや。」
150年後の現在まさに、世の中は福澤が予見した通りになっている。本題に戻ろう。その福澤がわずか1年半で終りを迎える明六社の末路が予見できなかったはずがない。〝society″に対する自らの訳語「人間(じんかん)交際」をあっさり捨てて「社会」に乗り換えたわけも考え合わせると、導かれる結論は一つしかないように思われる。福澤が望んだのは、執筆者によって書かれた文中にあるように、「ソサェチー」から「社会」への移行、ただそれのみである。即ちそれは、英語(カタカナ語あるいはローマ字表記を含む)から国語への流れを確定することであった。
森有礼と言う人は、私にはうまく理解できないのであるが、優れた英語の使い手で、ほとんどそれを唯一の武器にしてキャリアを形成していった人のように見える。彼は、すでに明治4(1871)年には英語の国語化を提唱しており(国語外国語化論)、明治5(1872)年にはイェール大学の言語学教授のウィリアム・ドワイト・ホイットニー宛てに「不規則動詞を規則化して簡略にした英語を日本の国語とするべきではないだろうか」という書簡を送っているほどである。その急進的な考えは当時の大衆の感覚とは乖離したものがあり、「明六の幽霊(有礼)」などと皮肉られてもいた。要するに何をするかわからない人物であった。これが川柳的笑いで済んでいるうちは良いが、森有礼が教育にも大いに関心をもっていたことは初期の役職からも明らかであるから、まかり間違ってそのような学校制度を提唱し、実行しないとも限らない。さらにこの時期、日本が学んだ相手先の外国は英語圏だけではなく、フランス語圏やドイツ語圏、ロシア語圏ほか、多くの国々であり、そこから外国人を招いたり、またそこへ留学生を送ったりもしていたのである。もし、外国語が国語に採用されるようなことがあれば、国内で言語戦争が起こるのは必定である。いや、もうその兆候を福澤は見て取っていたに違いない。〝society″一つにしても、ドイツ語で「社会」は〝Gesellschaft″(ゲゼルシャフト)であるから、「ソサエチ―」で済ますわけにはいかない。
福澤自身が若いころ緒方洪庵の適塾で蘭語を、それこそ昼夜の区別なく、一心不乱に学んだことは『福翁自伝』に詳しい。その後、英語を学ぶことになるのだが、それは英語が将来のキャリア形成に役に立つからではない。そもそも蘭語がいくらできても、江戸と違って大阪では幕府や諸藩に雇われるということはなかった。それにもかかわらず激しく蘭語を学んでいた有様を次のように述べている。
「それゆえ緒方の書生が幾年勉強して何ほどエライ学者になっても、頓と実際の仕事に縁がない。すなわち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めるということに思いも寄らぬので、しからば何のために苦学するかといえば、一寸と説明はない。前途自分の身体は如何なるであろうかと考えたこともなければ、名を求める気もない。名を求めるどころか、蘭学書生といえば世間に悪く言われるばかりで、既に已に焼けに成っている。ただ昼夜苦しんで六かしい原書を読んで面白がっているようなもので、実に訳のわからぬ身の有様とは申しながら、一方を進めて当時の書生の心の底を叩いてみれば、おのずから楽しみがある。これを一言すれば-西洋日進の書を望むことは日本国中の人に出来ないことだ、自分たちの仲間に限って斯様なことが出来る。貧乏をしていても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活発高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すという気位で、ただ六かしければ面白い、苦中有楽、苦即楽という境遇であったと思われる。」
これは一度でも本気で外国語に向き合ったことのある人なら、「よくぞ言った」と膝を打つ言葉であろう。どの言語であろうと、学ぶこと自体が苦しくも面白く、知れば知るほどその言語が奏でる総体の完全な美しさに魅了されてしまうのである。私もこの箇所で、ついふらふらと文学部の扉を開けて足を踏み入れてしまった十代の頃を思い出したほどだ。しかし、皆が皆そんな暢気な気持ちで語学を修めるわけではない。外国語をキャリアの階梯を上る手段と見なした者ももちろんいるであろう(今現在はその方が多数派であることを、私は深く憂慮している)。明治14(1881)年には森鷗外の義弟、小金井良精がベルリンへ留学をしているが、彼に先んじてドイツに送られていた三人の留学生は、「いずれもドイツ人の教授が感嘆するほどの成績を収めたが、一人は体調を崩して学業半ばで帰国、残る二人は卒業はしたが数年を出ずして早世した」という有様で、これは母語でない言語での学業がどれほど彼らの負担となっていたかを示す出来事と言ってよい。語学の学習は命を削るほどのものであることを、福澤は身をもって知っていたことだろう。そしてまた、まだまだ漢語の読み書きが知識人に当然のように要請される時代であってみれば、英語を公用語とするような発想は大混乱を招くものであることは火を見るより明らかである。福澤はそれだけは何としても避けようとしたに違いない。国内で意思疎通ができないような事態は悪夢であり、そのような無駄な時間もエネルギーも日本には到底ない時代であった。「日本語をこれまで通り堅持し、外国語は漢語による造語で切り抜ける」、それがリアリスト福澤の、言語をめぐる答えであった。