宗教改革500年の記念の年であることに促され、今年、旧約聖書にまつわる物語『ザ・ブックの誕生』を書いたのは、一つにはキリスト教と無縁な友人や知人に少しでも興味を持ってほしかったからです。聖書というと身構えてしまう方もいるでしょうし、特に旧約聖書は一般の方にはとっかかりがなく親近感がもてない書物でしょう。返信をくれた友人の言葉の中に「旧約は日本人にとって究極の異文化」とありましたが、その通りだと思います。また別の方から、「背景を知らないのですがお話として楽しみました」という返信をいただき、フィクションの枠組みにして、ミステリーの入ったビルドゥングスロマーンに仕上げてよかったなと思いました。皆様にただただ、「読んでくれてありがとう」です。
「なにゆえこのような本を書かれたのか、あとがきを書いてほしかった」という言葉もいただいたのですが、これはその時はどうにも書けませんでした。何を書いてもちょっとちがうという感じになってしまうからです。これまでちゃんと読んだことのなかった旧約聖書を集中的に読んでみたら、お話が浮かんだのは事実、二回目に読み込んだら様々なことが一挙に繋がってきたのも事実、口語訳と新共同訳を比べてみたら驚くような違いに気づき、そこから或る重大な推論に至ったのも事実です。その間ずっと面白かったし、苦しくも楽しく、子供時代からのことを思い返すこともでき感謝に満ちた時間でした。
つい最近福島教会でバザーがあった時、特に出すものがなかった私は一応本を出品させていただきました。バザーとは無関係にすでに献金して買ってくださった方もいたのですが、その日は自分で営業(押し売り?)もして本の紹介をしてみました。福島教会には、四人のお子さんがいる、教会にとって至宝のようなご家庭があります。いつも一家六人で礼拝に出席なさるので会堂がどれほど明るくなることか。今回そのご一家のお父さんがこころよく本を買ってくださってありがたかったのですが、もっとうれしかったのはその小・中学生の息子さん二人が興味を持ってくれたことです。このお子さんたちは活発で利発かつガッツのある兄弟です。私もつい、「君たちのような少年二人が出てくるよ。あと、ミステリー入ってるから」と宣伝してしまいました。子供にはこんな本は面白くないだろうと漠然と思っていた自分の考えを改めたのです。その瞬間、「ああ、私は自分が子供の頃こんな本があれば読みたかったと思う本をかいたのだ」ということがはっきりわかりました。イエス様の言動に度肝を抜かれてぐいぐい読めた新約聖書と違って、旧約聖書はハードルが高すぎて歯が立たなかったし、かといって子供向きに書かれた旧約聖書物語のようなものでは、なんだか物足りなかったのです。
そういう意味では、旧約聖書の異質さは大人も子供もあまり差がありません。大人であっても日本人がサラサラ読んで「なるほどそうか」とわかるようなものでないことは確かです。今回ひょんなことから、私は旧約聖書を日本人にわかるように現代誤訳したかったのだなと、自分の動機が理解できました。日本は明治以来あらゆる事柄や思想を猛然と翻訳してきた独特な国です。日本にはない概念にぶち当たっては新しい言葉を創造してまで貪欲に日本語に移し換えてきたのです。自然科学だけでなく、世界中のあらゆる人文科学、思想・宗教・哲学をも母国語で多少なりとも知ることができるという途方もないアドヴァンテージを、私もずっと享受してきました。特にまだ母国語以外それらにアクセスする手段を持たない子供にとってそれは死活的に重要なことです。そうして幼い者にも裾野が広がれば、興味を持って探求する者が現れ、研究者の層も厚くなって、中にはとんでもない達成をする者が出てきます。そういうことを私は深く切望しています。もちろん今の時点であの話を笑い飛ばし、旧約聖書の成立の真実を教えていただけるのならすぐにも聴きたいのですが、一方で未来において、「子供の頃、なんかヘンテコな旧約聖書の物語本を読んだけど、あれ間違ってるよね。本当は旧約聖書はこんなふうにして書かれたんだよ」と教えてくれる読者がいたら最高です。その意味で、あの本は否定されるために書いたのだということがすとんと胸に落ちた瞬間でした。
先日久しぶりに読み返してみて、ほんとに自分が書いたのかな」という変な感じがしました。そしてそう思うのも半分は無理もないことなのです。話の中に自分が疑問に思ってきたことを書きこんだり、あちこち読んで点と点がつながったところは意識して書きましたが、話の骨格自体は頭の中に既にきれいに出来上がった状態で湧き出てくるものをただ書き写したにすぎないからです。そういう意味では自分が書いたものとは到底言えず、これは2017年に与えられた大きな恵みとしか言いようのないものでした。
2017年12月30日土曜日
2017年12月26日火曜日
「大相撲の将来」
大相撲に関わる大騒動は発生から2カ月たっても解決の見通しはつかず、次の場所以降も尾を引くのは必至です。専門家の判断はわかりませんが、世間の方々はこの事件を学校での暴力行為とのアナロジーで見ているような気がします。高校に在籍した人なら誰でも在学中に暴力事件の1件や2件はあったでしょうし、その場合暴力行為の場に同席した人には場合によって暴力行為を行った人に準じるくらい重い罰が下ることがあるのも知っているのでしょう。その観点から見ると、この事件は子供を暴行された親が学校の指導を拒否して警察に駆け込み、一方で暴力を振るった生徒は自主退学(学校側の判断としても退学勧告)、暴力行為に同席した生徒への学校側の指導案は校長訓告程度といった具合に見えるようです。そのためかどうかわかりませんが、同席者への処分が軽すぎると一般の人は感じているようです。
しかし、学校に例えて言えば、今回のケースは加害生徒も被害生徒も指導案を決める職員会議の構成員の子供だという点が通常ではあり得ない事態なのです。言うまでもなく日本相撲協会は学校ではありません。理事はその運営に責任を持つ人々ですが、親方としては力士にとって疑似的な家族の長となり、相撲部屋は或る種の訓練・教育機関でもあるという込み入った構造になっています。そして何より力士は社会人としてお金を稼ぐ存在です。ただ、出し物の中身は武道に似てはいるが格闘技のようでもあり、親方でさえ「殴られて相撲を覚えてきたから全く手を出さないとなると、どう指導していいかわからない」といった側面も否定できないほど、訓練の場においても或る種の接触を伴う力の行使と切っても切れない世界のようだということがなんとなくわかってきました。加えて、相撲の発祥において神事があるのは確実で、国技として認められているとなると、事はさらに複雑になります。とはいえ、日本相撲協会ができてまだ百年もたっておらず、まして巨額の興行収入が動くようになったのは神代からのものであるはずがなく、ごく最近と言ってよいでしょう。
太古からの相撲という儀式とは別に、興行としての大相撲は百年たたずして制度疲労が顕在化してしまいましたが、この際、大相撲を抜本的に見直す機会としてはどうでしょうか。日本相撲協会は、これまで起きた稽古中の力士暴行致死事件や大麻服用問題及び賭博問題に比べたら小さい問題と高を括っていたのかもしれませんが、もう整理して考えた方がいいようです。決まり手や勝利までの闘い方が美しくない、勝つことだけに執着して横綱としての品格がないと言う、暴行事件とは直接関係のない意見も噴出しましたが、スポーツとしてはルール違反でなければ問題はないはずで、外国人力士がそこまで協会側の願望を忖度するわけもありません。大まかに言って、Judoのように世界的スポーツになる道を選択し、世界Sumo協会のような組織が決めるルールに則り、力と技を競うスポーツを目指すか、日本独自の美しい相撲道を極める道を選択し、外国人力士も日本の電灯を理解しその風儀に合う限りにおいて大金を手にするチャンスがあるといった国技としての大相撲を目指すかという、二者択一になるのではないかと思います。この場合、もちろん暴力はいけませんが、残念ながら、指導が行き過ぎてつい手が出てしまうといった事態を完全になくすのは難しいように思います。疑似家族制度の中で培われる伝統芸能ならそうなるでしょう。国民が「一つくらい青少年を丸ごと抱え込んで心身を成長させる格闘的武道があってもいい」と思えば相撲はその形で生き残り、日本はますます不思議の国としての希少価値を増すかもしれません。
しかし、学校に例えて言えば、今回のケースは加害生徒も被害生徒も指導案を決める職員会議の構成員の子供だという点が通常ではあり得ない事態なのです。言うまでもなく日本相撲協会は学校ではありません。理事はその運営に責任を持つ人々ですが、親方としては力士にとって疑似的な家族の長となり、相撲部屋は或る種の訓練・教育機関でもあるという込み入った構造になっています。そして何より力士は社会人としてお金を稼ぐ存在です。ただ、出し物の中身は武道に似てはいるが格闘技のようでもあり、親方でさえ「殴られて相撲を覚えてきたから全く手を出さないとなると、どう指導していいかわからない」といった側面も否定できないほど、訓練の場においても或る種の接触を伴う力の行使と切っても切れない世界のようだということがなんとなくわかってきました。加えて、相撲の発祥において神事があるのは確実で、国技として認められているとなると、事はさらに複雑になります。とはいえ、日本相撲協会ができてまだ百年もたっておらず、まして巨額の興行収入が動くようになったのは神代からのものであるはずがなく、ごく最近と言ってよいでしょう。
太古からの相撲という儀式とは別に、興行としての大相撲は百年たたずして制度疲労が顕在化してしまいましたが、この際、大相撲を抜本的に見直す機会としてはどうでしょうか。日本相撲協会は、これまで起きた稽古中の力士暴行致死事件や大麻服用問題及び賭博問題に比べたら小さい問題と高を括っていたのかもしれませんが、もう整理して考えた方がいいようです。決まり手や勝利までの闘い方が美しくない、勝つことだけに執着して横綱としての品格がないと言う、暴行事件とは直接関係のない意見も噴出しましたが、スポーツとしてはルール違反でなければ問題はないはずで、外国人力士がそこまで協会側の願望を忖度するわけもありません。大まかに言って、Judoのように世界的スポーツになる道を選択し、世界Sumo協会のような組織が決めるルールに則り、力と技を競うスポーツを目指すか、日本独自の美しい相撲道を極める道を選択し、外国人力士も日本の電灯を理解しその風儀に合う限りにおいて大金を手にするチャンスがあるといった国技としての大相撲を目指すかという、二者択一になるのではないかと思います。この場合、もちろん暴力はいけませんが、残念ながら、指導が行き過ぎてつい手が出てしまうといった事態を完全になくすのは難しいように思います。疑似家族制度の中で培われる伝統芸能ならそうなるでしょう。国民が「一つくらい青少年を丸ごと抱え込んで心身を成長させる格闘的武道があってもいい」と思えば相撲はその形で生き残り、日本はますます不思議の国としての希少価値を増すかもしれません。
2017年12月22日金曜日
「カナン的生き方と罪意識」
教会に初めて来た人の話でたまに聞くのが、「キリスト教で人を罪人扱いするのはいかがなものか」という話です。これは結構根が深い問題だと思います。「罪」という言葉は日本語なので理解できているような気になっていますが、キリスト教でいうこの言葉の概念は日本語のそれとは相当ずれています。本当は初めて渡来した時に別の単語を創出したほうがよかったのではないかと思うほどで、このずれがいろいろな場面で妨げになっている気がしてなりません。「罪」にあたる日本語を探せば、「悪しき思い」「汚れた思い」「ずるい思い」「卑しい思い」等、あるいはそういう思いから行ってしまう行為と言えば近いかもしれません。こう考えると、日本人の罪意識が千差万別である理由がわかるでしょう。普段、神を意識することなく生きていれば「悪さ」「汚さ」「ずるさ」「卑しさ」等の基準は自分になるのは当然であり、他者の基準としてはせいぜい法律でしかないからです。よく刑事ドラマなどで登場人物が「私、何か罰を受けるんですか? 何か悪いことしました?」と開き直る言葉を聞きますが、世の中は法に触れなければ罪ではないという明確な基準で動いています。しかしこのような言葉を発すること自体、いわゆる犯罪とは違う「罪」があることを暗示しています。昔風の日本語で言えば「お天道様」や「内なる心の声」ということになるでしょうが、キリスト教では神の義という絶対的な掟があります。掟というと厳しい決り事のように思えますが、おそらく大方の想像に反してこういう基準があるととても楽で、神の義に従って歩むことができれば人間にとって平安でありまことの幸いです。
先日大相撲の横綱が、「態度が悪い」後輩力士を指導しようとして暴力を振るうという事件がありました。暴行は犯罪ですから罰を受けねばなりません。被害者の方は自分の態度がよくなかったという意識はなく、認識は、すれ違ったままですが、本当のところは本人だけが知っているはずです。世の中で起きる全ての事件について言えることですが、どのように公表され決着がつこうと本当のところは本人しか知らないのです。この事件では、同席した他の横綱や理事にして被害力士の親方でもある人物の対応の仕方、さらには相撲道といった国技としての側面等が複雑に絡み合ってこじれにこじれ、皆が自分の正しさを主張し合ったまま不幸な結末に終わりそうです。めいめいが自分の正しさを主張し自らが神になる世界は結局神がいない世界であり、その結果は不幸なものにならざるをえないでしょう。
「神の義に従って歩むことができれば幸い」だと言いましたが、もちろんこれはたやすいことではありません。「クリスチャンになるということは日本人をやめることだ」と言った牧師がいます。真実の或る一面を衝いたこの言葉の意味は、『沈黙』を引き合いに出すまでもなく、直感的にわかります。しかしそれは日本的なものがキリスト教的なものと相容れないという意味ではありません。その言葉と対をなすかのように、「アメリカでクリスチャンとして生きるということはエイリアンになるということだ」と言ったアメリカ人牧師もいるからです。キリスト教国だからクリスチャンはたくさんいると思ったら大間違いなのです。「キリストの平和」ひとつを考えただけでも、アメリカの軍事政策と相容れないのは明らかです。つまるところ世界中どこにあろうと、キリスト者として神の掟に従って生きるということは至難の業であり、その道を歩むには狭き門から入らなければならないという現実があります。その者とて、「キリスト者として「歩もうと日々努めている」というにすぎず、決して歩めているというものではない。ただ、それができればどれほど幸いなことかは知らされているのです。
たとえば自分の楽しみだけを追求することに後ろめたさを感じるとか、物事を都合よく運ぶために相手を出し抜く形になって居心地の悪さを感じるとか、身を削ることなく他者を助けたいという虫のいい考えに対して自己嫌悪を感じるということがありますが、カナン的生き方すなわち一般世間では何の問題もないと思われる生き方をしていても、突き詰めれば神の前には正しくあり得ない自分を認めることになります。「ペシャー」、「ハッタート」、「アーウォーン」など罪を表すヘブライ語は幾つかあると聞いたことがありますが、どの言葉も人間が神と向か合うことをしない状態を示していると言います。正しさの基準が日本語とは違うのです。こういったこと全てを日本語の「罪」という言葉で表すのは到底無理なことです。何かいい方策はないのでしょうか。
先日大相撲の横綱が、「態度が悪い」後輩力士を指導しようとして暴力を振るうという事件がありました。暴行は犯罪ですから罰を受けねばなりません。被害者の方は自分の態度がよくなかったという意識はなく、認識は、すれ違ったままですが、本当のところは本人だけが知っているはずです。世の中で起きる全ての事件について言えることですが、どのように公表され決着がつこうと本当のところは本人しか知らないのです。この事件では、同席した他の横綱や理事にして被害力士の親方でもある人物の対応の仕方、さらには相撲道といった国技としての側面等が複雑に絡み合ってこじれにこじれ、皆が自分の正しさを主張し合ったまま不幸な結末に終わりそうです。めいめいが自分の正しさを主張し自らが神になる世界は結局神がいない世界であり、その結果は不幸なものにならざるをえないでしょう。
「神の義に従って歩むことができれば幸い」だと言いましたが、もちろんこれはたやすいことではありません。「クリスチャンになるということは日本人をやめることだ」と言った牧師がいます。真実の或る一面を衝いたこの言葉の意味は、『沈黙』を引き合いに出すまでもなく、直感的にわかります。しかしそれは日本的なものがキリスト教的なものと相容れないという意味ではありません。その言葉と対をなすかのように、「アメリカでクリスチャンとして生きるということはエイリアンになるということだ」と言ったアメリカ人牧師もいるからです。キリスト教国だからクリスチャンはたくさんいると思ったら大間違いなのです。「キリストの平和」ひとつを考えただけでも、アメリカの軍事政策と相容れないのは明らかです。つまるところ世界中どこにあろうと、キリスト者として神の掟に従って生きるということは至難の業であり、その道を歩むには狭き門から入らなければならないという現実があります。その者とて、「キリスト者として「歩もうと日々努めている」というにすぎず、決して歩めているというものではない。ただ、それができればどれほど幸いなことかは知らされているのです。
たとえば自分の楽しみだけを追求することに後ろめたさを感じるとか、物事を都合よく運ぶために相手を出し抜く形になって居心地の悪さを感じるとか、身を削ることなく他者を助けたいという虫のいい考えに対して自己嫌悪を感じるということがありますが、カナン的生き方すなわち一般世間では何の問題もないと思われる生き方をしていても、突き詰めれば神の前には正しくあり得ない自分を認めることになります。「ペシャー」、「ハッタート」、「アーウォーン」など罪を表すヘブライ語は幾つかあると聞いたことがありますが、どの言葉も人間が神と向か合うことをしない状態を示していると言います。正しさの基準が日本語とは違うのです。こういったこと全てを日本語の「罪」という言葉で表すのは到底無理なことです。何かいい方策はないのでしょうか。
2017年12月19日火曜日
「パスすること、パスされること」
勤めていた頃、なかなか大変だったのは年度末の仕事の受け渡しでした。組織として正常に業務を保つためには、新たにその任に就く人が前任者から手順やコツを受け継いでいかなければ新年度にうまく事が運びません。しかし世の中には、特に誰の仕事というわけではないが受け継がれてきた大事な事柄や、表立って口にすべきではないものの自分が体得した暗黙の知恵というものがあります。これは伝える相手を或る程度慎重に選ばなければなりません。伝えたところで活用されるとは限りませんし、途切れてしまうことの方が多いような微妙な事柄です。受け渡す方は明確な意思があるのですが、受け渡される方はそれに気づくことも気づかないこともあります。気づくのは大抵相手が「あなたに話しておくね」という言葉とともに話すからですが、気づかない場合もしばらくして「そう言えば・・・」と思い出すなら、受け渡しは成功です。
今年は宗教改革500年という特別な年でした。ちょうど準備が整って、ルターがヴィッテンベルクの城教会の扉にに95か条の論題を打ち付けた頃、旧約聖書を俯瞰した物語を本の形にして友人や親族、知り合いに配ることができました。殊にキリスト教や聖書と縁がない方々を意識して書いたもので、宗教改革500年に免じて受け取っていただこうと思ったのです。自分が今書きたいのはこれだけであり、今書けるのはここまでだという作品が出来ましたが、本に関しては読む気がない本が送られてくることくらい面倒なことはありません。感想等のご心配等は無きようにと申し添えて恐る恐る送りました。年末年始の時間に余裕のある時にでもパラパラ見ていただけたらいいなというくらいのつもりでしたが、予想に反して、非常に多くの受け取り手がお忙しい日々の生活の中で丁寧に読んでくださり、返信までいただけたのは本当にうれしく有り難いことでした。
東京でかよっている教会では、特にお世話になっている方や今でも福島のために様々な形でご支援をいただいている方にお礼の意味で手渡しています。行くときはいつも何冊か携帯し、渡すチャンスが巡ってきた時に渡せるようにしています。オンデマンド製本なので一冊からでも作成でき、在庫を抱えるということはないのですが、何冊か註文して手元に置いておくといつの間にか無くなっています。本というものは基本的に誰かに渡すしかないものです。ですからここで起こるのは、誰かにお渡ししたいのだが、それが誰なのかまだわからないというゲームのようなものなのです。先日、礼拝中にすばらしい美声で賛美の歌声を響かせていた隣の席の若い方に、礼拝後そのことを告げて少し言葉を交わした時、話の終わり頃その方に「あのう、○○さんから聞いたのですが・・・」と、本について切り出されました。こういう時は「あ、この方にお渡しすればよいのだ」とわかるので本当に楽です。ボールを求めてきた相手にすかさずパスを出せた時はとても気分の良いものです。「ともかくもパスがつながった」と安堵し、あとはお任せすればよいと感じるからです。パスを出す相手がわかったのに自分がボールを持っていなかったり、自分が不意にパスを出されてあたふたしないように日頃から準備を怠らぬことが大事だなと感じています。こうやって大昔から人間の生存にとって大切なことが受け渡されてきたことは確実だからです。
今年は宗教改革500年という特別な年でした。ちょうど準備が整って、ルターがヴィッテンベルクの城教会の扉にに95か条の論題を打ち付けた頃、旧約聖書を俯瞰した物語を本の形にして友人や親族、知り合いに配ることができました。殊にキリスト教や聖書と縁がない方々を意識して書いたもので、宗教改革500年に免じて受け取っていただこうと思ったのです。自分が今書きたいのはこれだけであり、今書けるのはここまでだという作品が出来ましたが、本に関しては読む気がない本が送られてくることくらい面倒なことはありません。感想等のご心配等は無きようにと申し添えて恐る恐る送りました。年末年始の時間に余裕のある時にでもパラパラ見ていただけたらいいなというくらいのつもりでしたが、予想に反して、非常に多くの受け取り手がお忙しい日々の生活の中で丁寧に読んでくださり、返信までいただけたのは本当にうれしく有り難いことでした。
東京でかよっている教会では、特にお世話になっている方や今でも福島のために様々な形でご支援をいただいている方にお礼の意味で手渡しています。行くときはいつも何冊か携帯し、渡すチャンスが巡ってきた時に渡せるようにしています。オンデマンド製本なので一冊からでも作成でき、在庫を抱えるということはないのですが、何冊か註文して手元に置いておくといつの間にか無くなっています。本というものは基本的に誰かに渡すしかないものです。ですからここで起こるのは、誰かにお渡ししたいのだが、それが誰なのかまだわからないというゲームのようなものなのです。先日、礼拝中にすばらしい美声で賛美の歌声を響かせていた隣の席の若い方に、礼拝後そのことを告げて少し言葉を交わした時、話の終わり頃その方に「あのう、○○さんから聞いたのですが・・・」と、本について切り出されました。こういう時は「あ、この方にお渡しすればよいのだ」とわかるので本当に楽です。ボールを求めてきた相手にすかさずパスを出せた時はとても気分の良いものです。「ともかくもパスがつながった」と安堵し、あとはお任せすればよいと感じるからです。パスを出す相手がわかったのに自分がボールを持っていなかったり、自分が不意にパスを出されてあたふたしないように日頃から準備を怠らぬことが大事だなと感じています。こうやって大昔から人間の生存にとって大切なことが受け渡されてきたことは確実だからです。
2017年12月15日金曜日
「紅春 116」
翌朝、兄に話すと、「いつもいく夜中の散歩をしなかったからだろう」とのことでした。私がいない時は早朝起こされないように一度夜中に散歩しているようなのですが、りくにしてみれば昨夜吠えたのは「なんで今日は行かないの?」ということだったのです。普段は二階で寝ているとも言うし、私がいない時はいない時で、りくと兄の生活があるのです。しかし、りくには気の毒ですが、夜鳴きはいけません。用事があるなら二階に行って頼めばいいのに、階段の上り下りは不得意なので端折ったのでしょう。こういうちゃっかりしたところはやはりりくなのです。
2017年12月11日月曜日
「不思議なヨブ記」
「義人がなぜ苦しむのか」を主題とするこの書はあまりに有名なのでわかったような気になっていましたが、読み返してみて、まずどうにも片付かない気持ちになりました。堂々巡りが続いていて何一つ解決していないようなのです。因果応報の理屈を繰り返す友人たちに対して、自分の義を信じるヨブは自分がなにゆえこれほどの苦しみに遭うのかの理由を知りたいのですが、神はヨブが最も知りたいことについては最後まで何も答えません。あまりにあっさりヨブを不幸のどん底に落とす神の行為は、真面目に読めば、心理学者ユングが『ヨブへの答え』で述べていたように、「腑に落ちないのは、ヤハウェの示すものが、熟慮でも、後悔でも、同情でもなく、ただ無慈悲と残酷さだけだという点である」ということになるでしょう。
次々と災難に襲われたヨブが吐く呪いの言葉はまず「生まれてこなければよかった」ということ、そして「生きていたくない」ということであり。神に対して「構わないでください」と言うのです(7章16節)。友人とのやりとりが延々と続き、ヨブとの仲は険悪になり、やがて議論も止みます。そんなヨブが急転直下神の前にひれ伏すのは、神が創造主であることを示されたからです。まさにこの一点に尽きるのです。『ヨブ記』においては、この創造の業こそが人知では計り知れぬ神秘であると見なされています。人間の知恵など、「確かにあなたたちもひとかどの民。だが、死ねばあなたたちの知恵も死ぬ(12章2節 新共同訳)」と言うほどのものでしかないのです。創造主に向かって「わたしの生れた日は滅びうせよ」だの「わたしは命をいとう。わたしは長く生きることを望まない(7章16節)」だのと口にするとは、最大の不義であるということです。ヨブ自身の主張にもかかわらず、ヨブが義人であるという前提の間違いがあぶり出されたのです。
この物語で一番興味深い存在であるサタンは、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」というだけあってさすがによくこのことを知っています。神の子たちが来て神の前に立った時、サタンもその中にいた(1章6節、2章1節)というのは味わい深い言葉です。ルターの言う通り、やはり神のいるところにはサタンもいるのです。この物語の展開で鍵を握るのはサタンです。彼の提案でヨブは始め所有物と子供を失いますが、その時口にするのは、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(1章21節)という有名な言葉であり、サタンの二度目の提案でヨブ自身の体が腫物におかされた時には、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」と言う妻に対し、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(2章10節)という完璧な答えをします。
ここで終わっていたらヨブにとって或る意味さいわいなことだったかもしれませんが、それでは物語になりません。先ほど「真面目に読めば」と書きましたが、『ヨブ記』は実はあまり真面目に読んではいけないのではないかと思うのです。なぜなら、全体が寓話的であり、話を進めているのは、三度目はもはや舞台に登場しないサタンのように思えるからです。確かに1章でヨブの財産と子供たちを奪い、2章の冒頭でヨブの身体を撃ったサタンは、その後二度と姿を現しません。どこへ行ったのでしょう。地を行きめぐっている可能性もありますが、もう一つの仮説を立てることもできます。何度か読んで気づいたのですが、手掛かりは2章と3章のギャップにあります。すなわち、ヨブが神を呪うのは所有物を失ったからでも、自らの身体を傷つけられたからでもない。「すべてこの事においてそのくちびるをもって罪を犯さなかった」ヨブが、いきなり3章で自分の生まれた日を呪い始めるのは、なんと2章の終わりで友人たちが来た後なのです。ひょっとしていつのまにか論敵となってしまうこの友人たちはサタンの仮の姿かもしれません。こう考えると、深刻なテーマを扱っているように見える『ヨブ記』も案外単純な構成で書かれているような気がします。
次々と災難に襲われたヨブが吐く呪いの言葉はまず「生まれてこなければよかった」ということ、そして「生きていたくない」ということであり。神に対して「構わないでください」と言うのです(7章16節)。友人とのやりとりが延々と続き、ヨブとの仲は険悪になり、やがて議論も止みます。そんなヨブが急転直下神の前にひれ伏すのは、神が創造主であることを示されたからです。まさにこの一点に尽きるのです。『ヨブ記』においては、この創造の業こそが人知では計り知れぬ神秘であると見なされています。人間の知恵など、「確かにあなたたちもひとかどの民。だが、死ねばあなたたちの知恵も死ぬ(12章2節 新共同訳)」と言うほどのものでしかないのです。創造主に向かって「わたしの生れた日は滅びうせよ」だの「わたしは命をいとう。わたしは長く生きることを望まない(7章16節)」だのと口にするとは、最大の不義であるということです。ヨブ自身の主張にもかかわらず、ヨブが義人であるという前提の間違いがあぶり出されたのです。
この物語で一番興味深い存在であるサタンは、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」というだけあってさすがによくこのことを知っています。神の子たちが来て神の前に立った時、サタンもその中にいた(1章6節、2章1節)というのは味わい深い言葉です。ルターの言う通り、やはり神のいるところにはサタンもいるのです。この物語の展開で鍵を握るのはサタンです。彼の提案でヨブは始め所有物と子供を失いますが、その時口にするのは、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(1章21節)という有名な言葉であり、サタンの二度目の提案でヨブ自身の体が腫物におかされた時には、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」と言う妻に対し、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(2章10節)という完璧な答えをします。
ここで終わっていたらヨブにとって或る意味さいわいなことだったかもしれませんが、それでは物語になりません。先ほど「真面目に読めば」と書きましたが、『ヨブ記』は実はあまり真面目に読んではいけないのではないかと思うのです。なぜなら、全体が寓話的であり、話を進めているのは、三度目はもはや舞台に登場しないサタンのように思えるからです。確かに1章でヨブの財産と子供たちを奪い、2章の冒頭でヨブの身体を撃ったサタンは、その後二度と姿を現しません。どこへ行ったのでしょう。地を行きめぐっている可能性もありますが、もう一つの仮説を立てることもできます。何度か読んで気づいたのですが、手掛かりは2章と3章のギャップにあります。すなわち、ヨブが神を呪うのは所有物を失ったからでも、自らの身体を傷つけられたからでもない。「すべてこの事においてそのくちびるをもって罪を犯さなかった」ヨブが、いきなり3章で自分の生まれた日を呪い始めるのは、なんと2章の終わりで友人たちが来た後なのです。ひょっとしていつのまにか論敵となってしまうこの友人たちはサタンの仮の姿かもしれません。こう考えると、深刻なテーマを扱っているように見える『ヨブ記』も案外単純な構成で書かれているような気がします。
2017年12月6日水曜日
「赦すということ」
先日友人に、キリスト教でいう「赦す」とはどういう意味かと聞かれて、うまく答えられませんでした。「赦す」という言葉自体は自明なものと思っていたのです。「忘れる」でもない、「我慢する」でもない、事象としては「責めない、とがめない」ということなのでしょうが、相手に対する態度としてはそうできても、自分の心の中でそれができているとは限りません。常々人間にとって一番難しいことは、「謝る」ことと「赦す」ことだと思っていますが、考えてみればこれは罪をめぐる表裏一体のことです。つまり、人間にとって最も御しがたいのが罪の問題だということです。
キリスト教では「赦す」ということは人の力ではできないことと考えていると言ってよいでしょう。日本基督教団の「主の祈り」の中のこの部分に関する文言は、「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」となっていますが、聖公会やカトリックでは、「「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人を赦します」と唱えているようです。ちなみに新共同訳聖書では次のようになっています。
「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」 (マタイによる福音書6章12節)
「わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。」 (ルカによる福音書11章4節)
「神が人の罪をゆるすこと」と「自分が相手の罪をゆるすこと」の前後の連関は様々ですが、この2つを切り離せないものとして考えていることは明らかです。しかもこの祈りは、どう祈ればよいのか教えてほしいと願った弟子たちに向けて答えた一連の言葉の中にあるのですから、一般論として語っているわけではないのです。あなたがたは神によって赦されているのだから、人を赦しなさい」と言っているのだということです。
「私たちは赦された者として、そして、赦していない者として祈ります」と言った人がいます。その通りなのです。人を赦せない苦しみは、自分が神に赦されていることを知っているがゆえに生まれる苦しみだとも言えます。キリストの死を通して自分の罪が赦されていることを知ることは嬉しく感謝なことですが、そのとたん、「敵を赦しなさい」という言葉に直面し苦しむことになるのです。これは人間の力では解決できない。だからこそ神に祈る、なぜなら、生きていくためには、しかも平安のうちに幸せに生きるには、どうしても赦し・赦されるということが必要だからです。
変な話ですが、私はいつも犬の行動や自分との関係を考えます。楽しさを抑えきれず手を離れて遊びに行き、後で叱られた犬が私と目を合わさなかったこと、失意のうちに何時間化過ごし、その間先ほどの不従順をぼそぼそと犬に向かって蒸し返したこと・・・。「責めてもしかたない」と思ってはいたものの、赦してはいなかったのです。そのうち犬が「ごめんなさい」と言うように、天真爛漫な顔でやって来たので赦しました。やっぱり可愛かったからです。その後とても晴れやかな気持ちになり、犬との関係がいつも通りになりました。すなわち、この「赦す」というのは、言ってみれば「元の状態に戻る」ということに近いのではないかと思います。神と人間の関係を、自分と犬の関係のアナロジーとして考えるのは、真面目な方々の逆鱗に触れること必定ですが、私にとってはこれが一番しっくりくる理解です。神様は人間の罪や悪行に怒ったり落胆したりしながらも、人間が可愛いので見捨てることができないのではないでしょうか。
「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。」 (ホセア書11章 8節)
一つ確かなのは、そういうことが起こるのは、心から「ごめんなさい」という悔い改めがあってのことだということです。
キリスト教では「赦す」ということは人の力ではできないことと考えていると言ってよいでしょう。日本基督教団の「主の祈り」の中のこの部分に関する文言は、「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」となっていますが、聖公会やカトリックでは、「「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人を赦します」と唱えているようです。ちなみに新共同訳聖書では次のようになっています。
「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」 (マタイによる福音書6章12節)
「わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。」 (ルカによる福音書11章4節)
「神が人の罪をゆるすこと」と「自分が相手の罪をゆるすこと」の前後の連関は様々ですが、この2つを切り離せないものとして考えていることは明らかです。しかもこの祈りは、どう祈ればよいのか教えてほしいと願った弟子たちに向けて答えた一連の言葉の中にあるのですから、一般論として語っているわけではないのです。あなたがたは神によって赦されているのだから、人を赦しなさい」と言っているのだということです。
「私たちは赦された者として、そして、赦していない者として祈ります」と言った人がいます。その通りなのです。人を赦せない苦しみは、自分が神に赦されていることを知っているがゆえに生まれる苦しみだとも言えます。キリストの死を通して自分の罪が赦されていることを知ることは嬉しく感謝なことですが、そのとたん、「敵を赦しなさい」という言葉に直面し苦しむことになるのです。これは人間の力では解決できない。だからこそ神に祈る、なぜなら、生きていくためには、しかも平安のうちに幸せに生きるには、どうしても赦し・赦されるということが必要だからです。
変な話ですが、私はいつも犬の行動や自分との関係を考えます。楽しさを抑えきれず手を離れて遊びに行き、後で叱られた犬が私と目を合わさなかったこと、失意のうちに何時間化過ごし、その間先ほどの不従順をぼそぼそと犬に向かって蒸し返したこと・・・。「責めてもしかたない」と思ってはいたものの、赦してはいなかったのです。そのうち犬が「ごめんなさい」と言うように、天真爛漫な顔でやって来たので赦しました。やっぱり可愛かったからです。その後とても晴れやかな気持ちになり、犬との関係がいつも通りになりました。すなわち、この「赦す」というのは、言ってみれば「元の状態に戻る」ということに近いのではないかと思います。神と人間の関係を、自分と犬の関係のアナロジーとして考えるのは、真面目な方々の逆鱗に触れること必定ですが、私にとってはこれが一番しっくりくる理解です。神様は人間の罪や悪行に怒ったり落胆したりしながらも、人間が可愛いので見捨てることができないのではないでしょうか。
「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。」 (ホセア書11章 8節)
一つ確かなのは、そういうことが起こるのは、心から「ごめんなさい」という悔い改めがあってのことだということです。
2017年12月2日土曜日
「狂うメカニズム」
犬は群れの中で生きる動物ですが、家の中で一緒に暮らしているとほぼ人間のようになっていくようです。うちの犬は普段は昼間は独りで過ごしており、兄の帰宅を大喜びで迎えてご飯や散歩の世話をしてもらい、特に心配をかけることもなくちゃんとやっています。ところが、私が帰省するとこの生活が一変します。赤ちゃん返りをしてすっかり甘えた態度をとり、一言で言うとまるでダメな犬になるのです。兄の車が帰ってきても全く反応しないこともあり、お迎えにあがらないこともしばしばです。あまりの変貌ぶりに兄もあきれています。
先日、犬の発作が久しぶりに起きる事態に遭遇しました。以前、一番最初に発作が起きた時は多分長く歩いて足が痛かったことが原因だったのですが、この前は事情が違っていました。兄の休みに合わせてちょっと寝坊しようと思い、いつもより30分ほど長く寝ていたのです。犬が起こしにやってきても「もう少しいいか」と布団の中にいました。念のため付け加えますが、まだ6時前の出来事です。あとで知ったことですが、犬は二階の兄のところへも行って、顔の周りを二回まわるという普段しないような動きをしたとのこと。そのあとでした。一階に降りて来て「キャン」と鳴きました。発作の悲鳴をあげたのです。私がすっ飛んで行って対応しても止まらず、すぐ兄が散歩に連れ出し、だいぶ時間がたってから無事帰ってきてほっとしました。散歩中は何事もなかったとのことで、その後も注意して見ていましたが、一日何事もなく過ごしそれからも無事過ごしています。
この日は犬が瞬間的にであれ発狂する過程を目の当たりにし、心か頭かわかりませんが「狂う」という仕組みがだいぶ飲み込めました。つまりこうです。犬は犬で毎日自分のペースを守って暮らしていますが、私が帰省したために、この生活が大幅に乱れ、様々な日課を行う時間や内容が変わったのです。それでも、起床・朝の散歩・朝食・昼寝・夕方の散歩・夕食・就寝準備といった基本的な部分は守られていました。ところがそこに変化の第2波が来たのです。おそらくもう若くはなく、高齢犬の域に入ってきたことも影響しているでしょう。いつもの時間に散歩に行けず、家族を起こして回ったのですがうまくいかず、たぶんトイレにも行きたくなってどうしていいかわからなくなったのだと思います。犬の頭の中の小さなコンピュータはこの解けない問題に何度もトライし、堂々巡りを繰り返したことでしょう。そしてついに問題の解決方法が見つからず回線がショートしたのです。可哀想なことをしました。その後、普通の行動をたどったらすんなり回復し平常の状態に戻りました。
犬とはいえ、群れで生きる動物として相当程度人間化している生態を考えると、これは人間が狂う過程と同じだと思うのです。この犬は成犬になってからは家の中でトイレをすることはありませんが、こういった生真面目さが裏目に出るのも人間と同じです。屋内で排泄しても平気な性格の犬なら発狂することはなかったでしょう。また、我が強くてガンガン家族を起こしにくるような犬なら、これまたこんなことにはならなかったはずです。どうしたらいいかわからないという事態は生物にとって危険な状態です。そしてそれは遠慮がちで気の弱い易しい生物であればあるほど発狂という方向に収束してしまうのです。外につながれているときは縄張りを守るという仕事で緊張することはあるでしょうが、大部分は家の中で過ごし外敵はいないという環境にあってさえうちの犬はこの状態なのです。七人の敵がいるような世間で生きている人間、殊にますます競争が熾烈になっている現代社会に生きている人間にとって、精神が狂うのはあまりにたやすいことでしょう。どうしたものでしょうか。とりあえず、ある程度きちんと自己主張できる訓練をすることは大事でしょうが、これとて限界があります。生来おとなしくて穏やかな性格である場合、自己主張することさえなんだか苦痛で、よほど自分に喝を入れないとできないのですから。今回、犬の場合は狂った原因が取り除かれてすぐ復元しましたが、人間はそうはいかない。取り巻く状況が複雑すぎて根本的な解決は到底望めません。精神を病む人が増えるのは無理からぬことです。
先日、犬の発作が久しぶりに起きる事態に遭遇しました。以前、一番最初に発作が起きた時は多分長く歩いて足が痛かったことが原因だったのですが、この前は事情が違っていました。兄の休みに合わせてちょっと寝坊しようと思い、いつもより30分ほど長く寝ていたのです。犬が起こしにやってきても「もう少しいいか」と布団の中にいました。念のため付け加えますが、まだ6時前の出来事です。あとで知ったことですが、犬は二階の兄のところへも行って、顔の周りを二回まわるという普段しないような動きをしたとのこと。そのあとでした。一階に降りて来て「キャン」と鳴きました。発作の悲鳴をあげたのです。私がすっ飛んで行って対応しても止まらず、すぐ兄が散歩に連れ出し、だいぶ時間がたってから無事帰ってきてほっとしました。散歩中は何事もなかったとのことで、その後も注意して見ていましたが、一日何事もなく過ごしそれからも無事過ごしています。
この日は犬が瞬間的にであれ発狂する過程を目の当たりにし、心か頭かわかりませんが「狂う」という仕組みがだいぶ飲み込めました。つまりこうです。犬は犬で毎日自分のペースを守って暮らしていますが、私が帰省したために、この生活が大幅に乱れ、様々な日課を行う時間や内容が変わったのです。それでも、起床・朝の散歩・朝食・昼寝・夕方の散歩・夕食・就寝準備といった基本的な部分は守られていました。ところがそこに変化の第2波が来たのです。おそらくもう若くはなく、高齢犬の域に入ってきたことも影響しているでしょう。いつもの時間に散歩に行けず、家族を起こして回ったのですがうまくいかず、たぶんトイレにも行きたくなってどうしていいかわからなくなったのだと思います。犬の頭の中の小さなコンピュータはこの解けない問題に何度もトライし、堂々巡りを繰り返したことでしょう。そしてついに問題の解決方法が見つからず回線がショートしたのです。可哀想なことをしました。その後、普通の行動をたどったらすんなり回復し平常の状態に戻りました。
犬とはいえ、群れで生きる動物として相当程度人間化している生態を考えると、これは人間が狂う過程と同じだと思うのです。この犬は成犬になってからは家の中でトイレをすることはありませんが、こういった生真面目さが裏目に出るのも人間と同じです。屋内で排泄しても平気な性格の犬なら発狂することはなかったでしょう。また、我が強くてガンガン家族を起こしにくるような犬なら、これまたこんなことにはならなかったはずです。どうしたらいいかわからないという事態は生物にとって危険な状態です。そしてそれは遠慮がちで気の弱い易しい生物であればあるほど発狂という方向に収束してしまうのです。外につながれているときは縄張りを守るという仕事で緊張することはあるでしょうが、大部分は家の中で過ごし外敵はいないという環境にあってさえうちの犬はこの状態なのです。七人の敵がいるような世間で生きている人間、殊にますます競争が熾烈になっている現代社会に生きている人間にとって、精神が狂うのはあまりにたやすいことでしょう。どうしたものでしょうか。とりあえず、ある程度きちんと自己主張できる訓練をすることは大事でしょうが、これとて限界があります。生来おとなしくて穏やかな性格である場合、自己主張することさえなんだか苦痛で、よほど自分に喝を入れないとできないのですから。今回、犬の場合は狂った原因が取り除かれてすぐ復元しましたが、人間はそうはいかない。取り巻く状況が複雑すぎて根本的な解決は到底望めません。精神を病む人が増えるのは無理からぬことです。
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