イザヤの関心が第一義的には捕囚の民の苦難からの解放にあったのは確かでしょうが、神の支配がその歴史を通して世界のすべての民に及ぶことを告げている点で時代を画するものとなっています。
イザヤ書45章22節~23節
地の果てのすべての人々よ
わたしを仰いで、救いを得よ。
わたしは神、ほかにはいない。
わたしは自分にかけて誓う。
わたしの口から恵みの言葉が出されたならば
その言葉は決して取り消されない。
イザヤ書を読んでいて気づくのは、「初めから」という言葉が40章以降に頻出することです。第二イザヤは、神が初めからの民イスラエルに初めから告げていたことを心底受け入れ守ってこなかったことを捕囚の地であからさまにし、すべての民の救いという新しい視野を手にします。そういえばと思い出すのは新約聖書の使徒言行録第8章です。ここに出てくるエチオピアの宦官が馬車の中で読んでいたのはイザヤ書53章の「僕(しもべ)の歌」であったのは極めて示唆的です。イザヤは、「新しい天と、新しい地の創造」という幻に到達した初めての預言者でした。もちろんこれは具体的にはバビロン捕囚から帰還してなされるエルサレム神殿の再建を想定しているのでしょうが、それはいままでのイスラエル民族の救いという次元を超えた世界の再構築なのです。もちろん異邦人の救いの萌芽はルツ記やヨナ書にもあります。コミカルな短編のようなヨナ書はアッシリアの都ニニネベの民がヨナの言葉によって改心したことを伝えていますが、当時の人々にはビックリ仰天の話だったのではないでしょうか。この異邦の民への救いは、後にパリサイ人らからメシアのしるしを求められたイエスが「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(マタイによる福音書12章および16章)とヨナについて言及したということからもいかに核心的なことだったかがわかります。マタイ福音書において二度も述べられるこの言葉の意味を私はずっとよくわからなかったのですが、イザヤ書を迂回してようやく胸にすとんと落ちました。「救われるのは悔い改めて信じる異邦人であってあなたがたではない。」という意味でしょう。イザヤ書はやはり分量的にも内容的にも奇跡的な書でした。しかしこの書はバビロン捕囚という絶望的な数十年を経ずして書かれることはなかったということをどう考えるべきでしょうか。