2016年9月19日月曜日

「イザヤ書を読む 2」

 イザヤ書40章以降で、イエス・キリストとの関係でどうしても触れなければならないのは「僕(しもべ)の歌」です。四か所ありますが、丸々一章分それにあてられている53章が特に有名です。

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。
(中略)
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。

何も知らなければイエス・キリストの死後にかかれた文書と考えられてもしかたのない預言です。実際そう考えられていた時期もあるようですが、いわゆる死海文書が発見された時このイザヤ書がそっくり丸ごと見つかったことから、イザヤ書が初めから一つのものとしてまとめられたことがはっきりしました。諸説あるようですが、第二イザヤ書が書かれたのは紀元前6世紀頃(最も遅く見積もったものでも紀元前5世紀頃)であり、このようなメシア象は、語る者自身が述べているように、当時の人々にとって「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。」という信じがたい預言でした。

 死海文書は今ではほぼ解読されたようですが、私が子供の頃はまだ新約聖書との関係をめぐってかなりセンセーショナルな扱いを受けていた記憶があります。現存するそれまでの旧約聖書の写本から一挙に千年もさかのぼる大発見だったのですから無理もありませんが、それにしてもその千年間に記述がほとんど誤写なく受け継がれたことは驚異的なことでした。神の言葉を変えてはならじと肝に銘じて筆写した写本家たちの執念を感じます。この写本の発見が旧約聖書学にもたらしたものはとてつもなく大きいものでしたが、新約聖書に関しては今ではクムラン教団とイエスの弟子たちの関係や死海文書と新約聖書の成立との間に関連を認める研究者はほぼいないようです。それにしても死海文書の中で断片ではなく全編が見つかった旧約聖書はイザヤ書だけという事実は、イザヤ書の並々ならぬ重要性を示していると思うのは私だけではないでしょう。イザヤ書は強運の書でもあるのです。

 イザヤ書は分量的にも長く手ごわい書物です。その中身はやはり驚くべきものでした。40章以降はペルシャ王キュロスによる捕囚からの解放への期待が目に見える現実としてあるだけに、新たな希望に満ちた言葉が多く語られています。いかにもイザヤらしい力強さを感じる言葉として次の言葉ははずせないでしょう。

イザヤ書40章31節
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

イザヤ書43章1節
ヤコブよ、あなたを創造された主は
イスラエルよ、あなたを造られた主は
今、こう言われる。
恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。

イザヤ書46章3節~4節
わたしに聞け、ヤコブの家よ
イスラエルの家の残りの者よ、共に。
あなたたちは生まれた時から負われ
胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。

ちなみに「ヤコブ」とか「イスラエル」とかいうのは民族名というより、万物を創造されたヤハウェ神(「私は在る」を意味する)を信じる民のことです。前述のようにその神を信じるすべての民に及ぶ呼び名であり、イザヤは神に背く民族を一括りにとらえるのではなく、その中にあっても神を信じる者たちを「残りの者」と呼んでいます。この呼び名には数的には少数という響きがあって私にはしっくりくる言い方です。