2016年9月14日水曜日

「イザヤ書を読む 1」


 この夏はイザヤ書を読みました。もちろん隅々まですっかり読んだわけでも読んでわかったわけでもありませんが、これまであまり読んでこなかっただけに様々な印象を得ました。イザヤ書はアモツの子イザヤによって書かれたと冒頭に示されていますが、アモツの子イザヤによって書かれた39章までといわゆる第二イザヤと呼ばれる40章以降の作者の間にざっと200年ほどの時間があいているというのが研究者の一致するところです。さらに40章~55章、56章~66章に分かれるという有力な説があります。

 第一イザヤが「ユダとエルサレムについて見た幻」について告げたのは王の統治としてはウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代ですが、世界史的にはイスラエル王国がサウルからダビデを経てソロモンによる全盛時代を経験したのち、南北に分裂し二百数十年たった頃です。一時的にはソロモン時代に匹敵する繁栄の時期もあったものの、やがてアッシリアの勃興により北のイスラエル王国は滅ぼされ(B.C.722)、南のユダ王国も属州となるという苦難の歴史が始まったのです。結局、大国の争いに翻弄される中で、アッシリア領からエジプト領、最終的にバビロニア領となり(B.C.597)、エルサレム神殿が破壊(B.C.586と有名なバビロン捕囚へと至る歴史を辿ります。第二イザヤが生きた時代はバビロン捕囚の時代ですから、イザヤ書が相当長い期間と激動する情勢をカバーしていることがわかります。

 まず、第一イザヤの39章までについて考えてみます。前半6章でイザヤ自身が語っているように、その預言の意味を知らない民に彼らが聞きたくない預言を告げるのは容易ではなかったでしょう。繁栄していようと滅亡の危機が迫っていようと、神により頼むことなく自らの考えと力に頼って生きようとする民に対してイザヤは神の言葉を語り続けたのです。

イザヤ書6章9節~11節
主は言われた。
「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
この民の心をかたくなにし
耳を鈍く、目を暗くせよ。
目で見ることなく、耳で聞くことなく
その心で理解することなく
悔い改めていやされることのないために。」
わたしは言った。
「主よ、いつまででしょうか。」
主は答えられた。
「町々が崩れ去って、住む者もなく
家々には人影もなく
大地が荒廃して崩れ去るときまで。」

 イザヤの生きたユダ王国は弱小国の常として、生き延びるためにどこと結んだらよいか、どこに頼るのがよいか等々、様々な局面で様々な周囲の情勢を聞いて「森の木々が風に揺れ動くように動揺(7章2節)」するのです。このあたりは現代と何も変わりません。「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない(7章4節)」というヤハウェの言葉を聞かず自分の力でなんとかしようとするのです。イザヤはよいぶどうがなることを望んだのにできたのは酸っぱいぶどうだったという神の言葉を告げます。

イザヤ書5章7節
イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑
主が楽しんで植えられたのはユダの人々。
主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに
見よ、流血(ミスパハ)。
正義(ツェダカ)を待っておられたのに
見よ、叫喚(ツェアカ)。

 そもそも現代人が旧約聖書(特に史書)を敬遠する理由の一つにとにかく戦いや流血が多いということがあると思います。少なくとも私はそうです。古代人だからしかたがないとは思うものの、地球規模で見ればこれは現代でも同じなのです。ひしひしと感じたのは人間は古代から変わっていないということであり、イザヤの生きた二千数百年前の人々と我々はほとんど同時代人だということです。しかし、イザヤが見た幻には神の怒りや裁きだけでなく、終わりの日の慰めに満ちた世界が告げられています。迫りくる厳しい現実の中でイザヤが人々に無視されながら語った幻を引用します。最後の部分は国連本部に刻まれていると言う有名な言葉です。

イザヤ書2章3節~4節
 多くの民が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。

 預言書の中でイザヤ書に特徴的なのは、やはり新約へつながる預言があることでしょう。よくクリスマスに読まれるイエス・キリストの誕生預言が有名です。

イザヤ書11章1節~10節
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
目に見えるところによって裁きを行わず
耳にするところによって弁護することはない。
弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。
(中略)
正義をその腰の帯とし
真実をその身に帯びる。
狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
その日が来れば
エッサイの根は
すべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。

エッサイはダビデの父であり、新約聖書の冒頭にあるアブラハムからイエス・キリストに至る民族の長い系図の中にその名も記されています。イザヤ書11章で語られているのは、このエッサイの末裔は「すべての民の旗印として立てられ」たということ、主を知る知識で満たされたところには今は幻としか思えない平和が実現するのだということです。実際ここに描かれた世界は想像を絶する目も眩むような平和な光景です。

 第13章の冒頭には、「アモツの子イザヤに示されたバビロンについての託宣」とあり、第27章まではバビロンの滅亡にまつわる記述があるところから年代的には第一イザヤの手になるものとは考えられませんが、イザヤ書の射程は現代人の常識を超えた長さで書かれており、それが初めから一つの書物として収められたことは驚くべきことです。イザヤが見た幻にはいくつかそれまでになかったものを包含する地平に至った感があります。