雨の降った翌日、水が増えていてもりくは様子を見に行きます。とにかく川が好きで川の番人のようにじっと流れをみているのです。それから水の量を見定めて入っていきますが、危なそうな時は近寄らせません。一方の岸より真ん中や向こう岸の方が水量の多いところもあるし、なにしろりくは軽い。少しでも水が出ればあっという間にもっていかれてしまうでしょう。危険がなければ、なるべくりくの希望をかなえてやりました。いつもお利口さんにお留守居してくれているもの。それにしてもこのところとんと太陽をみていないような・・・秋晴れの気持ちよい日を待ち望んでいます。
2016年9月29日木曜日
「紅春 94」
8月下旬からなんだか毎日雨ばかりの気がしますが、夏も半ばまでは猛暑で水不足の心配をしていたほどだったなと思い出します。川にもほとんど水がなかった。今はもちろん、その頃も朝の散歩はいつも長靴でした。りくの気分で川を渡りたい時、水を気にせずざぶざぶ行けるからです。暑さのせいでりくはほぼ必ず川に行きたがりました。川床の工事が済んでいるので、家の近くだけでも渡りやすい箇所が3つもあります。そのうち2箇所を使って往復していました。
雨の降った翌日、水が増えていてもりくは様子を見に行きます。とにかく川が好きで川の番人のようにじっと流れをみているのです。それから水の量を見定めて入っていきますが、危なそうな時は近寄らせません。一方の岸より真ん中や向こう岸の方が水量の多いところもあるし、なにしろりくは軽い。少しでも水が出ればあっという間にもっていかれてしまうでしょう。危険がなければ、なるべくりくの希望をかなえてやりました。いつもお利口さんにお留守居してくれているもの。それにしてもこのところとんと太陽をみていないような・・・秋晴れの気持ちよい日を待ち望んでいます。
雨の降った翌日、水が増えていてもりくは様子を見に行きます。とにかく川が好きで川の番人のようにじっと流れをみているのです。それから水の量を見定めて入っていきますが、危なそうな時は近寄らせません。一方の岸より真ん中や向こう岸の方が水量の多いところもあるし、なにしろりくは軽い。少しでも水が出ればあっという間にもっていかれてしまうでしょう。危険がなければ、なるべくりくの希望をかなえてやりました。いつもお利口さんにお留守居してくれているもの。それにしてもこのところとんと太陽をみていないような・・・秋晴れの気持ちよい日を待ち望んでいます。
2016年9月22日木曜日
「イザヤ書を読む 3」
イザヤの関心が第一義的には捕囚の民の苦難からの解放にあったのは確かでしょうが、神の支配がその歴史を通して世界のすべての民に及ぶことを告げている点で時代を画するものとなっています。
イザヤ書45章22節~23節
地の果てのすべての人々よ
わたしを仰いで、救いを得よ。
わたしは神、ほかにはいない。
わたしは自分にかけて誓う。
わたしの口から恵みの言葉が出されたならば
その言葉は決して取り消されない。
イザヤ書を読んでいて気づくのは、「初めから」という言葉が40章以降に頻出することです。第二イザヤは、神が初めからの民イスラエルに初めから告げていたことを心底受け入れ守ってこなかったことを捕囚の地であからさまにし、すべての民の救いという新しい視野を手にします。そういえばと思い出すのは新約聖書の使徒言行録第8章です。ここに出てくるエチオピアの宦官が馬車の中で読んでいたのはイザヤ書53章の「僕(しもべ)の歌」であったのは極めて示唆的です。イザヤは、「新しい天と、新しい地の創造」という幻に到達した初めての預言者でした。もちろんこれは具体的にはバビロン捕囚から帰還してなされるエルサレム神殿の再建を想定しているのでしょうが、それはいままでのイスラエル民族の救いという次元を超えた世界の再構築なのです。もちろん異邦人の救いの萌芽はルツ記やヨナ書にもあります。コミカルな短編のようなヨナ書はアッシリアの都ニニネベの民がヨナの言葉によって改心したことを伝えていますが、当時の人々にはビックリ仰天の話だったのではないでしょうか。この異邦の民への救いは、後にパリサイ人らからメシアのしるしを求められたイエスが「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(マタイによる福音書12章および16章)とヨナについて言及したということからもいかに核心的なことだったかがわかります。マタイ福音書において二度も述べられるこの言葉の意味を私はずっとよくわからなかったのですが、イザヤ書を迂回してようやく胸にすとんと落ちました。「救われるのは悔い改めて信じる異邦人であってあなたがたではない。」という意味でしょう。イザヤ書はやはり分量的にも内容的にも奇跡的な書でした。しかしこの書はバビロン捕囚という絶望的な数十年を経ずして書かれることはなかったということをどう考えるべきでしょうか。
イザヤ書45章22節~23節
地の果てのすべての人々よ
わたしを仰いで、救いを得よ。
わたしは神、ほかにはいない。
わたしは自分にかけて誓う。
わたしの口から恵みの言葉が出されたならば
その言葉は決して取り消されない。
イザヤ書を読んでいて気づくのは、「初めから」という言葉が40章以降に頻出することです。第二イザヤは、神が初めからの民イスラエルに初めから告げていたことを心底受け入れ守ってこなかったことを捕囚の地であからさまにし、すべての民の救いという新しい視野を手にします。そういえばと思い出すのは新約聖書の使徒言行録第8章です。ここに出てくるエチオピアの宦官が馬車の中で読んでいたのはイザヤ書53章の「僕(しもべ)の歌」であったのは極めて示唆的です。イザヤは、「新しい天と、新しい地の創造」という幻に到達した初めての預言者でした。もちろんこれは具体的にはバビロン捕囚から帰還してなされるエルサレム神殿の再建を想定しているのでしょうが、それはいままでのイスラエル民族の救いという次元を超えた世界の再構築なのです。もちろん異邦人の救いの萌芽はルツ記やヨナ書にもあります。コミカルな短編のようなヨナ書はアッシリアの都ニニネベの民がヨナの言葉によって改心したことを伝えていますが、当時の人々にはビックリ仰天の話だったのではないでしょうか。この異邦の民への救いは、後にパリサイ人らからメシアのしるしを求められたイエスが「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(マタイによる福音書12章および16章)とヨナについて言及したということからもいかに核心的なことだったかがわかります。マタイ福音書において二度も述べられるこの言葉の意味を私はずっとよくわからなかったのですが、イザヤ書を迂回してようやく胸にすとんと落ちました。「救われるのは悔い改めて信じる異邦人であってあなたがたではない。」という意味でしょう。イザヤ書はやはり分量的にも内容的にも奇跡的な書でした。しかしこの書はバビロン捕囚という絶望的な数十年を経ずして書かれることはなかったということをどう考えるべきでしょうか。
2016年9月19日月曜日
「イザヤ書を読む 2」
イザヤ書40章以降で、イエス・キリストとの関係でどうしても触れなければならないのは「僕(しもべ)の歌」です。四か所ありますが、丸々一章分それにあてられている53章が特に有名です。
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。
(中略)
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。
何も知らなければイエス・キリストの死後にかかれた文書と考えられてもしかたのない預言です。実際そう考えられていた時期もあるようですが、いわゆる死海文書が発見された時このイザヤ書がそっくり丸ごと見つかったことから、イザヤ書が初めから一つのものとしてまとめられたことがはっきりしました。諸説あるようですが、第二イザヤ書が書かれたのは紀元前6世紀頃(最も遅く見積もったものでも紀元前5世紀頃)であり、このようなメシア象は、語る者自身が述べているように、当時の人々にとって「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。」という信じがたい預言でした。
死海文書は今ではほぼ解読されたようですが、私が子供の頃はまだ新約聖書との関係をめぐってかなりセンセーショナルな扱いを受けていた記憶があります。現存するそれまでの旧約聖書の写本から一挙に千年もさかのぼる大発見だったのですから無理もありませんが、それにしてもその千年間に記述がほとんど誤写なく受け継がれたことは驚異的なことでした。神の言葉を変えてはならじと肝に銘じて筆写した写本家たちの執念を感じます。この写本の発見が旧約聖書学にもたらしたものはとてつもなく大きいものでしたが、新約聖書に関しては今ではクムラン教団とイエスの弟子たちの関係や死海文書と新約聖書の成立との間に関連を認める研究者はほぼいないようです。それにしても死海文書の中で断片ではなく全編が見つかった旧約聖書はイザヤ書だけという事実は、イザヤ書の並々ならぬ重要性を示していると思うのは私だけではないでしょう。イザヤ書は強運の書でもあるのです。
イザヤ書は分量的にも長く手ごわい書物です。その中身はやはり驚くべきものでした。40章以降はペルシャ王キュロスによる捕囚からの解放への期待が目に見える現実としてあるだけに、新たな希望に満ちた言葉が多く語られています。いかにもイザヤらしい力強さを感じる言葉として次の言葉ははずせないでしょう。
イザヤ書40章31節
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
イザヤ書43章1節
ヤコブよ、あなたを創造された主は
イスラエルよ、あなたを造られた主は
今、こう言われる。
恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。
イザヤ書46章3節~4節
わたしに聞け、ヤコブの家よ
イスラエルの家の残りの者よ、共に。
あなたたちは生まれた時から負われ
胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。
ちなみに「ヤコブ」とか「イスラエル」とかいうのは民族名というより、万物を創造されたヤハウェ神(「私は在る」を意味する)を信じる民のことです。前述のようにその神を信じるすべての民に及ぶ呼び名であり、イザヤは神に背く民族を一括りにとらえるのではなく、その中にあっても神を信じる者たちを「残りの者」と呼んでいます。この呼び名には数的には少数という響きがあって私にはしっくりくる言い方です。
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。
(中略)
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。
何も知らなければイエス・キリストの死後にかかれた文書と考えられてもしかたのない預言です。実際そう考えられていた時期もあるようですが、いわゆる死海文書が発見された時このイザヤ書がそっくり丸ごと見つかったことから、イザヤ書が初めから一つのものとしてまとめられたことがはっきりしました。諸説あるようですが、第二イザヤ書が書かれたのは紀元前6世紀頃(最も遅く見積もったものでも紀元前5世紀頃)であり、このようなメシア象は、語る者自身が述べているように、当時の人々にとって「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。」という信じがたい預言でした。
死海文書は今ではほぼ解読されたようですが、私が子供の頃はまだ新約聖書との関係をめぐってかなりセンセーショナルな扱いを受けていた記憶があります。現存するそれまでの旧約聖書の写本から一挙に千年もさかのぼる大発見だったのですから無理もありませんが、それにしてもその千年間に記述がほとんど誤写なく受け継がれたことは驚異的なことでした。神の言葉を変えてはならじと肝に銘じて筆写した写本家たちの執念を感じます。この写本の発見が旧約聖書学にもたらしたものはとてつもなく大きいものでしたが、新約聖書に関しては今ではクムラン教団とイエスの弟子たちの関係や死海文書と新約聖書の成立との間に関連を認める研究者はほぼいないようです。それにしても死海文書の中で断片ではなく全編が見つかった旧約聖書はイザヤ書だけという事実は、イザヤ書の並々ならぬ重要性を示していると思うのは私だけではないでしょう。イザヤ書は強運の書でもあるのです。
イザヤ書は分量的にも長く手ごわい書物です。その中身はやはり驚くべきものでした。40章以降はペルシャ王キュロスによる捕囚からの解放への期待が目に見える現実としてあるだけに、新たな希望に満ちた言葉が多く語られています。いかにもイザヤらしい力強さを感じる言葉として次の言葉ははずせないでしょう。
イザヤ書40章31節
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
イザヤ書43章1節
ヤコブよ、あなたを創造された主は
イスラエルよ、あなたを造られた主は
今、こう言われる。
恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。
イザヤ書46章3節~4節
わたしに聞け、ヤコブの家よ
イスラエルの家の残りの者よ、共に。
あなたたちは生まれた時から負われ
胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。
ちなみに「ヤコブ」とか「イスラエル」とかいうのは民族名というより、万物を創造されたヤハウェ神(「私は在る」を意味する)を信じる民のことです。前述のようにその神を信じるすべての民に及ぶ呼び名であり、イザヤは神に背く民族を一括りにとらえるのではなく、その中にあっても神を信じる者たちを「残りの者」と呼んでいます。この呼び名には数的には少数という響きがあって私にはしっくりくる言い方です。
2016年9月14日水曜日
「イザヤ書を読む 1」
この夏はイザヤ書を読みました。もちろん隅々まですっかり読んだわけでも読んでわかったわけでもありませんが、これまであまり読んでこなかっただけに様々な印象を得ました。イザヤ書はアモツの子イザヤによって書かれたと冒頭に示されていますが、アモツの子イザヤによって書かれた39章までといわゆる第二イザヤと呼ばれる40章以降の作者の間にざっと200年ほどの時間があいているというのが研究者の一致するところです。さらに40章~55章、56章~66章に分かれるという有力な説があります。
第一イザヤが「ユダとエルサレムについて見た幻」について告げたのは王の統治としてはウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代ですが、世界史的にはイスラエル王国がサウルからダビデを経てソロモンによる全盛時代を経験したのち、南北に分裂し二百数十年たった頃です。一時的にはソロモン時代に匹敵する繁栄の時期もあったものの、やがてアッシリアの勃興により北のイスラエル王国は滅ぼされ(B.C.722)、南のユダ王国も属州となるという苦難の歴史が始まったのです。結局、大国の争いに翻弄される中で、アッシリア領からエジプト領、最終的にバビロニア領となり(B.C.597)、エルサレム神殿が破壊(B.C.586と有名なバビロン捕囚へと至る歴史を辿ります。第二イザヤが生きた時代はバビロン捕囚の時代ですから、イザヤ書が相当長い期間と激動する情勢をカバーしていることがわかります。
まず、第一イザヤの39章までについて考えてみます。前半6章でイザヤ自身が語っているように、その預言の意味を知らない民に彼らが聞きたくない預言を告げるのは容易ではなかったでしょう。繁栄していようと滅亡の危機が迫っていようと、神により頼むことなく自らの考えと力に頼って生きようとする民に対してイザヤは神の言葉を語り続けたのです。
イザヤ書6章9節~11節
主は言われた。
「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
この民の心をかたくなにし
耳を鈍く、目を暗くせよ。
目で見ることなく、耳で聞くことなく
その心で理解することなく
悔い改めていやされることのないために。」
わたしは言った。
「主よ、いつまででしょうか。」
主は答えられた。
「町々が崩れ去って、住む者もなく
家々には人影もなく
大地が荒廃して崩れ去るときまで。」
イザヤの生きたユダ王国は弱小国の常として、生き延びるためにどこと結んだらよいか、どこに頼るのがよいか等々、様々な局面で様々な周囲の情勢を聞いて「森の木々が風に揺れ動くように動揺(7章2節)」するのです。このあたりは現代と何も変わりません。「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない(7章4節)」というヤハウェの言葉を聞かず自分の力でなんとかしようとするのです。イザヤはよいぶどうがなることを望んだのにできたのは酸っぱいぶどうだったという神の言葉を告げます。
イザヤ書5章7節
イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑
主が楽しんで植えられたのはユダの人々。
主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに
見よ、流血(ミスパハ)。
正義(ツェダカ)を待っておられたのに
見よ、叫喚(ツェアカ)。
そもそも現代人が旧約聖書(特に史書)を敬遠する理由の一つにとにかく戦いや流血が多いということがあると思います。少なくとも私はそうです。古代人だからしかたがないとは思うものの、地球規模で見ればこれは現代でも同じなのです。ひしひしと感じたのは人間は古代から変わっていないということであり、イザヤの生きた二千数百年前の人々と我々はほとんど同時代人だということです。しかし、イザヤが見た幻には神の怒りや裁きだけでなく、終わりの日の慰めに満ちた世界が告げられています。迫りくる厳しい現実の中でイザヤが人々に無視されながら語った幻を引用します。最後の部分は国連本部に刻まれていると言う有名な言葉です。
イザヤ書2章3節~4節
多くの民が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
預言書の中でイザヤ書に特徴的なのは、やはり新約へつながる預言があることでしょう。よくクリスマスに読まれるイエス・キリストの誕生預言が有名です。
イザヤ書11章1節~10節
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
目に見えるところによって裁きを行わず
耳にするところによって弁護することはない。
弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。
(中略)
正義をその腰の帯とし
真実をその身に帯びる。
狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
その日が来れば
エッサイの根は
すべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。
エッサイはダビデの父であり、新約聖書の冒頭にあるアブラハムからイエス・キリストに至る民族の長い系図の中にその名も記されています。イザヤ書11章で語られているのは、このエッサイの末裔は「すべての民の旗印として立てられ」たということ、主を知る知識で満たされたところには今は幻としか思えない平和が実現するのだということです。実際ここに描かれた世界は想像を絶する目も眩むような平和な光景です。
第13章の冒頭には、「アモツの子イザヤに示されたバビロンについての託宣」とあり、第27章まではバビロンの滅亡にまつわる記述があるところから年代的には第一イザヤの手になるものとは考えられませんが、イザヤ書の射程は現代人の常識を超えた長さで書かれており、それが初めから一つの書物として収められたことは驚くべきことです。イザヤが見た幻にはいくつかそれまでになかったものを包含する地平に至った感があります。
2016年9月10日土曜日
「会報のお手伝い」
東京で通っている教会から今年は会報発行のお手伝いを頼まれました。正式な会員ではなく客員の私に声がかかるくらいだからやはりお困りなのでしょう。福島教会の会堂再建に多大な支援をいただいた教会なので、少しでもお役にたてればよいとお引き受けしました。たぶん社会のあらゆるところでそうなのだと思うのですが、今は過渡期なのです。人口ピラミッドからして全体の人数が減っていくのは避けがたく、また高齢者の割合が増える一方で中年以下の割合は減っていくという状況で、できる人ができることをし無理な場合は事柄自体を適宜縮小していかなければなりません。
会報の編集は今まで携わっていたプロの方が第一線を退かれ、人手不足の中なんとかしていかなければならない状況です。編集者だけでなく執筆者への依頼もなかなか難しくなり、これまで毎月発行されていた会報は隔月となりました。やむを得ません。
最初の2回をこれまでも会報委員だった方が作成してくださり、8月号が私の担当となりました。内容は先月の編集会議で決まっており、書式は前回のをそのまま使用し原稿は多くがデータで送られてくるので、案外すぐできるのではないかと高を括っていたのです。ところがやってみるととんでもなかった。わずか12ページの会報なのですが、縦書き3段組みの書式にテキストボックスや図が入るため、思わぬ動きをするのです。ワードの奥深さというか使いづらさを思い知らされました。執筆者あっての編集なので、原稿の文字数が予定より少ないため配置を大幅に見直したり、逆に1字多いために1段におさまらなかったりという、不測の事態もいろいろ起きました。そのたび他の主たる編集者二人へメールし相談するのですが、これも10回ではきかず、それぞれの生活スタイルが違うのでメールがなければとても無理でした。編集委員の一人からは、「夜討ち、夜中討ち、朝がけ、なんでもありで、大変嬉しいです。皆さま、いつ寝ていらっしゃるのでしょうか?」と本気とも冗談ともとれるメールが来ました。
三人で確認し一応出来上がった版を、「第三者の厳しい目でみてください。」というお願いとともに事前に他の会報委員にもお送りし委員会に臨みました。この席ではいろいろ貴重なご意見をいただきましたが、プロの方の目はさすがでそのご指摘は誠に的確、本当に恐れ入りました。編集委員は、「三人であれほど見たのに・・・。」とショックを隠し切れない会議でした。やってみてわかったのは、お勤めしながらこれを作成するのは無理だということ、大勢の目でみることは本当に大事だということなどです。一つうれしかったのは、今回挿し絵はあとで著作権の問題が起こると面倒だなと思い、パブリック・ドメインにあるもの以外はしかたなく必死で描いたのですが、「何かそういうソフトがあるのかと思った。」といってほめてもらえたことです。とりあえず出来上がって配布され、大きな失敗はなかったようでほっとしました。あとは作成過程で気づいたことや改善すべき点をまとめて、次回以降に生かしていくことが残された仕事です。
会報の編集は今まで携わっていたプロの方が第一線を退かれ、人手不足の中なんとかしていかなければならない状況です。編集者だけでなく執筆者への依頼もなかなか難しくなり、これまで毎月発行されていた会報は隔月となりました。やむを得ません。
最初の2回をこれまでも会報委員だった方が作成してくださり、8月号が私の担当となりました。内容は先月の編集会議で決まっており、書式は前回のをそのまま使用し原稿は多くがデータで送られてくるので、案外すぐできるのではないかと高を括っていたのです。ところがやってみるととんでもなかった。わずか12ページの会報なのですが、縦書き3段組みの書式にテキストボックスや図が入るため、思わぬ動きをするのです。ワードの奥深さというか使いづらさを思い知らされました。執筆者あっての編集なので、原稿の文字数が予定より少ないため配置を大幅に見直したり、逆に1字多いために1段におさまらなかったりという、不測の事態もいろいろ起きました。そのたび他の主たる編集者二人へメールし相談するのですが、これも10回ではきかず、それぞれの生活スタイルが違うのでメールがなければとても無理でした。編集委員の一人からは、「夜討ち、夜中討ち、朝がけ、なんでもありで、大変嬉しいです。皆さま、いつ寝ていらっしゃるのでしょうか?」と本気とも冗談ともとれるメールが来ました。
三人で確認し一応出来上がった版を、「第三者の厳しい目でみてください。」というお願いとともに事前に他の会報委員にもお送りし委員会に臨みました。この席ではいろいろ貴重なご意見をいただきましたが、プロの方の目はさすがでそのご指摘は誠に的確、本当に恐れ入りました。編集委員は、「三人であれほど見たのに・・・。」とショックを隠し切れない会議でした。やってみてわかったのは、お勤めしながらこれを作成するのは無理だということ、大勢の目でみることは本当に大事だということなどです。一つうれしかったのは、今回挿し絵はあとで著作権の問題が起こると面倒だなと思い、パブリック・ドメインにあるもの以外はしかたなく必死で描いたのですが、「何かそういうソフトがあるのかと思った。」といってほめてもらえたことです。とりあえず出来上がって配布され、大きな失敗はなかったようでほっとしました。あとは作成過程で気づいたことや改善すべき点をまとめて、次回以降に生かしていくことが残された仕事です。
2016年9月7日水曜日
「紅春 93」
昨年あたりから散歩中たまにあう子柴ちゃんがいます。定年退職されたと思われる飼い主にかわいがられているようで、その頃まだ1歳にならない子犬でした。この子はりくとそっくりの顔をしています。柴犬なのだから当たり前だろうと思われるかもしれませんが。そうではないのです。八重丸君などは同じ柴でも種類が違うのではないかと思うほど、体系も顔つきも違いますし、例のドイツに住む柴犬アスカとセナも全く顔つきが違います。
さて、この子柴ちゃんは結構気合を入れてしつけをされているようで、昨年まだ半年ほどの頃だったでしょうか、なぜかすれちがうとき「伏せ。」のコマンドが出ていました。伏せて待たせる意味がわかりませんが、まあ訓練だったのでしょう。たぶん家ではちゃんとできているのでしょうが、そこは散歩道。いろいろな人や犬が通ります。子柴ちゃんは一瞬伏せてすぐ立ってしまい、ご主人様は「あれ、しないな。」などとつぶやいていました。
しかし、今では立派な若犬になり堂々としてきました。コマンドが出ると草原や道端でしっかり伏せて待つが定着しています。また、ご主人と脇目も振らず歩いている動じない態度に感心しました。で、一方りくはと言うと、この犬に気をとられて落ち着かない様子。「こんな小さい子に完全に負けた。」と一瞬動揺しましたが、心のどこかで「でも、りくはこれでいいもん。犬じゃないんだから。」と思っています。
さて、この子柴ちゃんは結構気合を入れてしつけをされているようで、昨年まだ半年ほどの頃だったでしょうか、なぜかすれちがうとき「伏せ。」のコマンドが出ていました。伏せて待たせる意味がわかりませんが、まあ訓練だったのでしょう。たぶん家ではちゃんとできているのでしょうが、そこは散歩道。いろいろな人や犬が通ります。子柴ちゃんは一瞬伏せてすぐ立ってしまい、ご主人様は「あれ、しないな。」などとつぶやいていました。
しかし、今では立派な若犬になり堂々としてきました。コマンドが出ると草原や道端でしっかり伏せて待つが定着しています。また、ご主人と脇目も振らず歩いている動じない態度に感心しました。で、一方りくはと言うと、この犬に気をとられて落ち着かない様子。「こんな小さい子に完全に負けた。」と一瞬動揺しましたが、心のどこかで「でも、りくはこれでいいもん。犬じゃないんだから。」と思っています。
2016年9月4日日曜日
「愛らしきもの」
最近なんともかわいいと思ったのは、愛読するブログ「柴犬とオランダ人と」の8月30日の記事です。日本製の犬のおやつをあげたところよほどおいしかったらしく、アスカが妹分セナのおやつを強奪したという事件です。どこで食べようかと足元におやつを置いていたら、どどどっとやってきたアスカに盗られて茫然自失、「ママあ」と筆者を見上げているセナのショットが可愛すぎる。アスカはアスカで「セナいらないって床に置いてたから。」と言い訳しながら、強奪してきたおやつを一心不乱に食べています。知らない犬とは思えぬほどよく見るサイトで、この2匹の犬の特性がよく表れています。
このおやつは豚耳だそうでりくにはあげたことがありません。人間が食べない妙なものはあげないようにしています。アスカとセナに関して私がどうしても解せないのは二匹が野ネズミやモグラ、野ウサギ等を狩ること。もちろん狩って食べるのです。自慢げに持ってくることもあるようです。お誕生日には生肉もあげているようで、人間等をターゲットにすることはないのかちょっと心配。りくにあげるものは必ず火を通すようにしているので考えられないことです。さんまにしてもハンバーグにしても食べておいしかったらもそもそとお座りするのがりくの「おかわり!」の表現です。穏やかな子でよかったなあと思っています。散歩の時は始終道路っ端の匂いをを嗅いでいますが拾い食いをすることはありません。一口に犬と言ってもそれぞれなのが生き物のすばらしさです。
このおやつは豚耳だそうでりくにはあげたことがありません。人間が食べない妙なものはあげないようにしています。アスカとセナに関して私がどうしても解せないのは二匹が野ネズミやモグラ、野ウサギ等を狩ること。もちろん狩って食べるのです。自慢げに持ってくることもあるようです。お誕生日には生肉もあげているようで、人間等をターゲットにすることはないのかちょっと心配。りくにあげるものは必ず火を通すようにしているので考えられないことです。さんまにしてもハンバーグにしても食べておいしかったらもそもそとお座りするのがりくの「おかわり!」の表現です。穏やかな子でよかったなあと思っています。散歩の時は始終道路っ端の匂いをを嗅いでいますが拾い食いをすることはありません。一口に犬と言ってもそれぞれなのが生き物のすばらしさです。
2016年9月2日金曜日
「web上のお引越し」
先日KDDIからメールが来てが~んとショックだったのは、今提供されている無料のホームページサービスが1年後くらいで終了するという知らせです。いろいろなことが起こるものです。福島教会のホームページはこのサービスを利用して運営してきたのですが引越しを考えなければならなくなりました。作った時の経緯はおおかた忘れているし、あれをまたやるのかと思うと、かなりブルーです。まだ時間はあるのでいろいろ調べて引越し先を決めなければなりません。できれば無料のところがよいのですが、広告が入ったりするのは困ります。ブログならわりと簡単に提供しているプロバイダーが見つかりそうですが、ホームページというと結構限られてくるかも。形式が固定的でなく使い勝手がよいものとなると・・・そんなのあるのかしら。今回はKDDIだったから1年間の猶予がありますが、無料のホームページ提供プロバイダーとなるといきなり終了というリスクがないとは言えません。かといって、毎年それなりの料金のかかるレンタルサーバーもちょっとなあ。格安のところもあるけれど、同様のリスクがあるだろうと思います。技術的に引っ越し作業ができるかという心配もありますが、せっかく検索で「福島教会」と入力すると第一番目に表示されるところまで認知されるようになったのに、URLが変わればそれもなくなる。また一からやり直しかと気重な気分で、「万物は流転する」というヘラクレイトスの言葉をかみしめています。でもなんとかしなくっちゃ。
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