2015年8月14日金曜日

「共感的な傍観者」

 岩手のいじめ事件で自殺した中学生が、先生と生活記録ノートの交換をしていたことが報道されました。いじめ自殺としては2011年10月の大津の事件以来の大事件として受けとめられました。大津の場合は、担任が葬式ごっこの追悼文に加担したのをはじめ、学校と教育委員会の悪質な隠蔽工作に日本中が憤激したのですが、今回は内容を知って別の意味で愕然とした方も多かったのではないでしょうか。生徒は明白に自殺をほのめかしており、どうしてこれで何も対応しなかったのか理解できないからです。

 担任については年齢や経験等の詳細は知らされておらず、女性教諭ということしかわかりませんが、「もうつかれました。もう氏にたいと思います」「しんでいいですか?(たぶんさいきんおきるかな)」「もう市ぬ場所は決まってるんですけどね」などと書かれたら、普通まず保護者のところにすっ飛んで行く事態でしょう。(「死」という文字に当て字をしているのが今更ながらあわれです。) 生活連絡ノートはおそらくクラス全員とやっていたのでしょうから、相当な手間をかけながら返事を書いていたであろうに、一番大事なことがまるで何も書かれていなかったかのようにスルーされたのでした。まるで言葉にさえしなければ存在しないものであるかのようです。忙しすぎて場当たり的な返事を書いていたのかもしれません。もう普通の反応ができないほど神経が麻痺するような現場なのかもしれません。今となっては本人も平常な精神状態ではおられないでしょうから、責めたくはありません。でもやはりあの時思考停止してはいけなかったのです。原発事故に関して東電がとったような方策、すなわち起きてはならないことは起こらないものとして処理するような心性が働いたのではないかというのが、最も真実に近い解釈だと私は思っています。