2015年1月8日木曜日
「水が動くとき」
子供というのは案外疑い深いもので、私も当時読んだ聖書の奇跡物語をあまり信じていませんでした。まさしく子供だましのような話がどうしてこんなに載っているのか、あまりに非科学的なように感じて困っていたのです。しかし、中には気に入った物語もあり、その筆頭はベテスダの池の話でした。(新共同訳ではベトザタとなっています。)
こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた。
エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。 その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。 それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕 さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。 イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。 この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。 すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。
(ヨハネによる福音書5章1~9節 鍵括弧の部分は底本に欠けている節を異本によって補ったものとの説明があります。)
この話はヨハネによる福音書にしかない不思議な話ですが、子供心にも「水が動いた時真っ先に入るものはどんな病気も癒される」という設定は、いかにも怪しく童話や昔話のようでとても心を引き付けられました。その頃の感想は、「38年間も可哀そうになあ。水に入ったわけでもないのにどうして治ったんだろう。」というくらいのものでしたが、今読むといろいろ考えさせられます。
イエスは横たわっている男に向かって、「なおりたいのか。」と言います。心無い言葉のように聞こえますが、どこかで似たようなやりとりがあったなあと思い返すと、盲人に対してイエスが「何をしてほしいのか。」と問い、「目が見えるようになることです。」と答える場面が思い浮かびます。この話なら、マタイにもマルコにもルカにもあったはずです。しかしよく読んでみると、やはりかなり違う。盲人は「見えるようになることです。」とはっきり答えているのに対し、ベテスダの池の男は答えをすり替えています。「なおりたいです。なおしてください。」とは言わないのです。長年病気していると治るかも知れないという希望自体持てなくなるということもあるでしょうし、そこから生じる様々な葛藤もあるでしょう。つまり、イエスの問いは、「あなたは本当はなおりたいと思っていないでしょう。」という問いかけだった、おそらく男がうすうすは自分でも気づいていることを、イエスははっきり指摘したのだと思います。病も38年間ともなれば人生の最もよい時期のほとんどでしょうし、それなりの過ごし方も身について、むしろ治った時の生活がどうなるのかが不安になると言えるくらいの年月です。人権意識の薄かった古代世界ではどうかわかりませんが、現代では疾病利得という言葉もあるくらい病むことによって得る利益もあるというのは、ゴーストライター騒動を見てもよくわかります。
もう一つ思うのは、この男は38年間をこうして過ごしているのですからともかくもそれなりの人間関係をもっているはずですが、彼のことを本当に親身になって心配してくれる人はいなかったということです。ベテスダの池の話のポイントは、この男のように体の動きが不自由な人は他の人の手によって池に入れてもらうしか助かる道がなかったという点です。この話のすぐ前に、息子が死にかけている役人がカナまで20~30キロの道のりをやってきて、カファルナウムまで息子を癒しに来てくれるようにイエスに頼む話があります。この父親であれば、何をおいても池を見張っていて水が動いた時息子を真っ先に入れたことでしょう。しかし、男にはそういう人はいなかった、そこまで本気になってくれる人はいなかったのです。まわりにどれだけ人がいてもこの男は孤独だったでしょう。イエスはこの男の本当の問題を見抜き、それを男にはっきり示してこれまで避けてきた問題に直面させたのです。つらくても自分の姿を認めて受け入れる以外に人が立ち上がる道はないのですから。これは子供のころには気づかなかったことです。いつ水が動いてその時がくるのか誰にもわからないように、イエスは会ってすぐこの男の心に波紋を起こしました。そして水が動いたとき、この男は真っ先にそこへ飛び込んだのです。