2015年1月4日日曜日

「自分で帯を締められるうちに」


 聖書を読んでいると、なんだか気になってしまう文言に出くわします。たぶん、主筋とは関係のないことなのでしょうが、どうにも気になる表現なのです。 

「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」(ヨハネによる福音書21章 18節)

これは、イエスがシモン・ペトロに、「わたしを愛しているか。」と三度尋ね、そのたびに「わたしの羊を飼いなさい。」と言ったあとに述べた言葉です。ペトロがどのような死に方で神の栄光を現すようになるかを示そうとしてそう言ったと書いてあるのですが、私には何のことかさっぱりわかりません。しかし、なんだか尋常でない雰囲気があり、とても気になる表現です。

 帯を締めるというのは、きちんとするとか気を引き締めるという普通の解釈でいいのでしょうか。ここは私には休暇ごとに海外の行きたいところに行っていた若いころが思い出されて、とてもしっくりくる箇所です。思い出すと恐ろしいほどの情熱でしたが、今はすっかりそんな気がなくなってしまいました。そしてその直後に意味深で怖い言葉が続くのです。年をとると自分で帯を締めることもできなくなり行きたくもないところに連れて行かれる・・・そうかもしれません。終の棲家と定めた自宅で息を引き取る人は今では少ないでしょうから、ここは老人の見取りをする施設を思い浮かべてしまいます。これで述べられているのはたぶん人間一般の一生の終わり方なのでしょう。どんな王侯貴族も一国の首長も独裁者も、先が短いことが目に見えてはっきりしてくれば、誰も相手にしなくなるでしょう。

 正月早々もっと明るい話題はないのかと思われるかもしれませんが、これは明るい話なのです。私自身、まったく動揺がないのは昨年父の最期を見たからです。確かに父は病院で息を引き取りましたが、その4日前に病床聖餐を受けた時の様子をまざまざと思い出すのです。あれはなんと言ったらいいのでしょうか、こんな幸せそうな顔は見たことがないというくらいの表情で、ユーフォリアに包まれ、今思うとあれはこの世のものではなかった。父の国籍はすでに天に移されていた、だから誰も父を行きたくない場所に連れて行くことはできなかったのです。私も自分で帯を締められるうちに、最も安全な場所に移り住んで、少し慣れてから本格的に転居したいものだと思っています。