2014年11月3日月曜日

「この世の務めが過剰になると」


 マルタとマリアという姉妹の話が聖書に伝えられています。イエスがある村でマルタの家に迎え入れられたのですが、女主人のマルタが接待のために忙しく立ち働いているのに、妹のマリアはイエスの足元に座って話に聴き入っており、その不満を口にしたマルタに対して、イエスが「なくてならないものは1つだけである。マリアは良い方を選んだのだ。」とたしなめたという話です。

 この話は思わず苦笑するようなささいなエピソードだと思っていたのですが、実はこの世の生活において本質的な話だと思うようになりました。マルタは当時の女性に求められていた大事な務めを誠実に果たしているのであり、実際、日々の生活の中ではこのような働きなくして事は何一つ進みません。これは奉仕であり、仕事なのです。しかし、その務めも忙しさの度合いが越えてしまうと心を損なうもとになります。それは最終的に神に対する不平不満となるのです。

2:ルカによる福音書10章40節
マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

 自分だけが仕事の負担を負い、われ関せずというような態度の妹にじりじりしている様子がうかがえて気の毒になります。ここで、マルタとマリアという二人の人物に見られる態度は、実は一人の人の二つの側面と言ってよいでしょう。マルタもイエスの言葉を聴きたいのであり、マリアもこのままイエスの話をずっと聴き続けるわけにはいかないでしょう。この二つは両方同時にすることができないのですから、実生活の中では要は比重の問題なのです。

 今振り返ってみると、勤めていた間私はまさしくマルタのごとく、「多くのことに思い悩み、心を乱して」いたのです。仕事には誠実に取り組まねばなりませんが、礼拝に行くのもやっとでなかなか安息を得られない多忙さでした。あまりに神をないがしろにした生活でした。ようやくイエス様の足元に座ってその言葉に耳を傾けられる生活がととのえられたのは神様の恵みというほかありません。