2014年11月21日金曜日

「父の見ていたもの」


 東日本大震災が起きた当時私は東京で仕事についており、福島教会の状況をつぶさに知ることはできませんでした。食料やガソリンを手に入れるのに何時間も並ぶという生活の中で、教会堂から大事なものを伝道館に運び出し礼拝ができるように整えるという作業は、心身ともに疲労困憊することだったに違いありません。その後やむを得ず行われた会堂の取り壊しに、教会員皆がどれほど打ちひしがれ、さらなる悲嘆と疲労と混乱をもたらしたか想像に難くありません。

 現在福島教会の会堂建築工事は、工事用の覆いカバーもとれてその全貌見ることができるようになりました。あとは内装を中心に工事が進められることと思います。完成に近づくこのような教会堂を目にしてさえも、まだ幻ではないかと時々ふと思うのは、ここに至る迄の過程を思い起こすからです。震災直後4月末の祈祷会に奨励に訪れた牧師によると、その時の出席者は自分も含めて6名だったというし、その後に無牧の時期も経験し、信徒たちは伝道館で礼拝を続けて会堂の再建を思いつつも、一方でこのような小さな群れがそんな大それた負担を負えるのかという現実的な問題が頭をかすめた時期もあったに違いないと思うのです。

 父は震災を入院中のベッドの上で迎えましたが、その後、病院の態勢が整わないこともあり帰宅して家で療養しておりました。父が具体的に会堂建築とどう関わっていたか断片的にしかわからないのですが、一つはっきりしているのは、会堂の再建を父が確信していたことです。
「神様がここに教会を建てなさいと言ってできた教会なのだから、必ずここに会堂は再建されなければならない。会堂は必ず再建されるのだ。」
と父はきっぱり言いました。それから、何か書類を書いたり、放射能の心配のない山形まで山菜採りに行き会堂建築献金を捧げたりしていました。とても前向きな人で、一時的に落ち込んだり悩んだりすることはあっても、目標を決めたら手をこまねいている人ではありませんでした。

 2011年12月には似田先生を迎え会堂建築は大きく動き出し、2012年3月には会堂建築検討委員会が発足、2013年4月には教会総会において会堂建築を正式に決定し、今に至っています。

 父は2014年2月下旬3週間の入院の後亡くなりましたが、会堂建築の道筋が整い、基本設計もできて、あとは施工業者を決めて建築するだけというところまできていたので、入院中会堂建築に関する心配を口にすることはありませんでした。また、自分の寿命が新会堂の完成に間に合いそうもないと知っていたかもしれませんが、それも問題ではなかったのです。父の頭の中ではもう会堂は建っていたからです。もちろん今生きていたら、どれほど喜んだだろうかと思いますが、最期の表情があまりにも穏やかだったので、父が全く安らかな気持ちでこの世を去ったのは確かです。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」(ヘブライ人への手紙11:13)

 福島教会の会堂再建は人間の業ではありませんでした。そして今、私の眼前に建つものは、父がすでに見ていたものなのです。




      
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