2014年10月15日水曜日
「本来の姿で」
キリスト教の言葉で、日本人にとってまずわからないのが「罪」という言葉ではないでしょうか。聖書で使われている「罪」と一般に言う「罪」とは、重なっている部分はあるものの、やはり大きくずれているからです。福音書では、イエスは徴税人や罪人とよく一緒におり、食事をともにしたりしています。徴税人はいわばローマ帝国の手先として税金を集める者であることから考えると、罪人というのは犯罪者という意味ではなく、ユダヤ人社会の律法を守れない汚れた者という意味でしょう。
律法とは神が救いのしるしとしてイスラエルに与えられたものですが、その内容を一言で言えば、人はどのように生きるべきかが記されたものです。日本人の目には、道徳的な戒め・祭儀に関する決まり・社会生活全般における定め等が混然一体となっているように見えます。微二入り細を穿った判例法でもあるので、聖書が手元にあってさえさっぱりわからないのですから、当時の一般庶民には何が何だかわからなかったことでしょう。また、忠実に守りたくても実生活上の社会的、経済的制約のため到底守ることができない場合も多く、そうなると専門家の目には彼らが律法を守らない汚れた人々と映ったことでしょう。
しかし、イエスによれば、当時罪人と思われていた人だけでなく、律法を厳格に守って生活していた専門家たち(律法学者やファリサイ派)も同じ罪人なのです。この人たちがいきり立ってイエスを殺そうとするのは、イエスが彼らを断罪したからです。
ヨハネによる福音書9章41節
イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
「罪」に当たる日本語の言葉がないので困ってしまいますが、聖書でいう「罪」の原語は「的外れ」だといいます。だから言い換えるなら罪とは、「神が創造された本来の姿から外れている」様態であると考えてよいでしょう。現代風にいうなら「迷子」ということになるでしょうか。これなら実に多くの人が該当するだろうと思います。