人間の情動は大きく6つ(恐怖、驚き、怒り、嫌悪、喜び、悲しみ)に分類されるそうですが、現代人においてはそれ以外の感情の比重がとても高いのではないでしょうか。不安や倦怠や空しさといった感情です。平穏な生活を送っていても、何もかも空しくなってしまう時があります。何もやる気が起きず、無為に日々を過ごしてしまい、浮上することができないこともあるでしょう。大切な人やものを失くした場合はなおさらです。ところが、この空しさは現代人特有のものではなかったのです。
コヘレトの言葉1章2~3節
コヘレトは言う。なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。
1章 9節
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
1章 14節
わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。
2章1節
わたしはこうつぶやいた。
「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」
見よ、それすらも空しかった。
2章 11節
しかし、わたしは顧みた
この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。
見よ、どれも空しく
風を追うようなことであった。
太陽の下に、益となるものは何もない。
2章 17節
わたしは生きることをいとう。
太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる。
どれもみな空しく、風を追うようなことだ。
2章 20節
太陽の下、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していった。
2章 22~23節
まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。
一生、人の務めは痛みと悩み。
夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。
3章 16節
太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。
4章1節
わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。
5章9節
銀を愛する者は銀に飽くことなく
富を愛する者は収益に満足しない。
これまた空しいことだ。
6章 12節
短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。
7章 15節
この空しい人生の日々に
わたしはすべてを見極めた。
善人がその善のゆえに滅びることもあり
悪人がその悪のゆえに長らえることもある。
8章 14節
この地上には空しいことが起こる。善人でありながら
悪人の業の報いを受ける者があり
悪人でありながら
善人の業の報いを受ける者がある。
これまた空しいと、わたしは言う。
8章 15節
それゆえ、わたしは快楽をたたえる。
太陽の下、人間にとって
飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。
それは、太陽の下、神が彼に与える人生の
日々の労苦に添えられたものなのだ。
12章8節
なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。
同じ空しさを何千年も前の詩人と共有していることに気づきます。現代を生きる私たちと何一つ変わらない現実があることを知ります。淡々と語る厳しい言葉に、自分の現実の方が少しだけましかもと思えるほどです。
ところがこの書は次の言葉で終わっているのです。
12章 13~14節
すべてに耳を傾けて得た結論。
「神を畏れ、その戒めを守れ。」
これこそ、人間のすべて。
神は、善をも悪をも
一切の業を、隠れたこともすべて
裁きの座に引き出されるであろう。
何があったのかはわかりませんが、あれほど一切が空しいという言葉を言い連ねた人の結論がこれなのです。唐突な言葉にちょっとびっくりですが、突然訪れたある種の天啓なのでしょう。聖書の言葉は不思議です。いくら考えても理解できないこともありますし、初めて聴いたのにすとんと心に落ちることもあります。何年も前に聴いた言葉がわからないまま、それでも心にひっかかっているということもあります。しかし、コヘレトの言葉がなぜ何千年も読み継がれてきたのかははっきりわかります。