2014年9月29日月曜日

「空しさとのたたかい」


  人間の情動は大きく6つ(恐怖、驚き、怒り、嫌悪、喜び、悲しみ)に分類されるそうですが、現代人においてはそれ以外の感情の比重がとても高いのではないでしょうか。不安や倦怠や空しさといった感情です。平穏な生活を送っていても、何もかも空しくなってしまう時があります。何もやる気が起きず、無為に日々を過ごしてしまい、浮上することができないこともあるでしょう。大切な人やものを失くした場合はなおさらです。ところが、この空しさは現代人特有のものではなかったのです。

コヘレトの言葉1章2~3節
コヘレトは言う。なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。

1章 9節
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。

1章 14節
わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。

2章1節
わたしはこうつぶやいた。
「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」
見よ、それすらも空しかった。

2章 11節
しかし、わたしは顧みた
この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。
見よ、どれも空しく
風を追うようなことであった。
太陽の下に、益となるものは何もない。

2章 17節
わたしは生きることをいとう。
太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる。
どれもみな空しく、風を追うようなことだ。

2章 20節
太陽の下、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していった。

2章 22~23節
まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。
一生、人の務めは痛みと悩み。
夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。

3章 16節
太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。

4章1節
わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。

5章9節
銀を愛する者は銀に飽くことなく
富を愛する者は収益に満足しない。
これまた空しいことだ。

6章 12節
短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。

7章 15節
この空しい人生の日々に
わたしはすべてを見極めた。
善人がその善のゆえに滅びることもあり
悪人がその悪のゆえに長らえることもある。

8章 14節
この地上には空しいことが起こる。善人でありながら
悪人の業の報いを受ける者があり
悪人でありながら
善人の業の報いを受ける者がある。
これまた空しいと、わたしは言う。

8章 15節
それゆえ、わたしは快楽をたたえる。
太陽の下、人間にとって
飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。
それは、太陽の下、神が彼に与える人生の
日々の労苦に添えられたものなのだ。

12章8節
なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。


同じ空しさを何千年も前の詩人と共有していることに気づきます。現代を生きる私たちと何一つ変わらない現実があることを知ります。淡々と語る厳しい言葉に、自分の現実の方が少しだけましかもと思えるほどです。
 ところがこの書は次の言葉で終わっているのです。

12章 13~14節
すべてに耳を傾けて得た結論。
「神を畏れ、その戒めを守れ。」
これこそ、人間のすべて。
神は、善をも悪をも
一切の業を、隠れたこともすべて
裁きの座に引き出されるであろう。

何があったのかはわかりませんが、あれほど一切が空しいという言葉を言い連ねた人の結論がこれなのです。唐突な言葉にちょっとびっくりですが、突然訪れたある種の天啓なのでしょう。聖書の言葉は不思議です。いくら考えても理解できないこともありますし、初めて聴いたのにすとんと心に落ちることもあります。何年も前に聴いた言葉がわからないまま、それでも心にひっかかっているということもあります。しかし、コヘレトの言葉がなぜ何千年も読み継がれてきたのかははっきりわかります。

2014年9月25日木曜日

「人間とお墓」


 ハカトモ(墓友)という言葉を聞いた時はびっくりしましたが、今度は「墓じまい」。これには考えさせられました。少子化等による家族形態の変化が背景にあるのでしょうが、子供に「墓を残さないでほしい。」と言われてやむなく処分した人もいれば、子供に迷惑をかけたくない、無縁仏になりたくないという理由で自分から墓じまいを望む人もいます。

 人間を特徴づける定義は様々ありましょう(二足歩行する、道具を使う、火を使う、言語を使うなど)が、「墓を作る動物」というのもありかもしれません。(この点でアフリカゾウも仲間を弔うと知った時は本当に驚きました。) 墓作りは死後の世界や死者を想うことから始まるのでしょうから、非常に人間的な営みであることは間違いありません。「ワンピース」を待つまでもなく、人は人に忘れられた時に死ぬのですから、亡くなった人を偲ぶよすがとしての場を処分する墓じまいは、完全な死を先取りするものかもしれません。

 信夫山にあるお墓には私の父と母と連れ合いのお骨や遺灰があり、墓前礼拝等をする大事な場所ですのでおろそかにするつもりはありませんが、彼らがそこにいるわけではないこともわかっています。しかし、彼らはたとえこのお墓がなくなったとしても忘れられることはありません。もう天の国に入り名が記されているからです。イエス様のそばで安らいでいることでしょう。私も必ずそこへ行くつもりです。

2014年9月21日日曜日

「ノンオイルフライヤー」


 ずっと気になっていたのですが、ついに手を出してしまいました。油を使わずに揚げ物ができるという話題の調理器具です。開発したフィリップス社の製品は、私の得た情報ではまだ完成品と言い難く、価格も高いし、何よりフランスの企業なのでアフターケアがまったくなっていないらしいということでずっと二の足を踏んでいたのです。このところ後発品がでてきて、社名を聞いてもどこの会社なのかわからないながら、フィリップス社製品の不満の残る部分をかなり改善してあるようです。値段も半値まできたので、調理器具好きの性癖がうずいて決断しました。

 まだ使い始めて間もないので正確なことは言えませんが、新たな調理器具としては合格点です。揚げ物は、実際油で揚げたものとは別物ですが、そもそも油を抜くということはそういうことでしょう。工夫によっては出来上がりをもう少し近いものにできるかもしれません。調理器具としては、オーブントースターに近いかもしれませんが、水分や油分を飛ばして調理するのが一番の特徴です。最近は出来合いの総菜を買うことがめったにないので聞いた話ですが、コロッケなどを入れて調理する(この場合は温める)と怖いくらい油が落ちるとか。水分を飛ばす典型的な食材はジャガイモですが(そもそもこの調理器具は、「唐揚げとフライドポテトができる」が一番の売りでしょう。)、ほかにカボチャやさつまいも、やりようによってはチーズ等をチップス風に仕上げるのに重宝します。これは面白い使い方です。あとはホームベーカリーでこねたパン生地やホットケーキミックスで作ったドーナツ生地を短時間で焼き上げたりするにも便利です。もちろん本格的な料理もできるらしいのですが、まだ試していません。


2014年9月18日木曜日

「紅春 50」

りくと散歩に出ていつも行くあたりまで行って帰ろうとしたら、りくは「まだ帰らない。」と言います。しかたなくもう少しつきあい、引き返そうとしたのですが、またもや「まだ帰らない。」とのこと。こんなことは珍しく、土手の散歩道に誰の姿もなかったので綱ひもを離し、
「姉ちゃんは帰るよ。じゃあね。」
とりくにくるりと背を向け歩き出しました。

「りくはどこへも行けやしない、すぐついてくるだろう。」
と思ったのですが、振り返ってみるとじっとこちらを見たままの姿勢。私はそのまま歩き続け、ちょっと走るまねをしたりしながら進むと、20メートル、30メートルと離れていきます。りくは身じろぎもせずに同じ姿勢でいます。
「おのれ、りく・・・」

私はそのままどんどん歩き、ついに距離は50メートルくらいになりました。りくを見ると相変わらずじっとしていましたが、その向こうに人がやってくるのがみえました。
あっ、これはまずい。

 私がりくに向かってダッシュすると、その瞬間、りくも私に向かって猛ダッシュ。りくと私は真ん中あたりで合流し、りくは小刻みに足踏みしながら私に体を摺り寄せてはしゃいでいます。再会を喜び合う姿は、そこだけ見たら、「南極物語」そのものでした。



「福島教会なう Fukushima Church Now」


 会堂建築は6月の起工から3か月経ちました。雨の影響で工期は当初の予定より若干長引き、竣工予定は12月20日となりました。施工業者は福島市の優良建設業者として今年表彰されたそうで、また大変丁寧な仕事ぶりと聞いています。

 さて、2週間ごとに福島に帰省していても2か月以上ずっと土台の基礎工事で、目に見える大きな変化があまりなかったため、私はちょっと油断していました。ところが、先日9月上旬に帰省し教会に行くと、「えーっ、何が起きたの?」と思うほど工事が進んでおりました。2週間見ない間に柱が立ち、側面の壁が建ち、一部屋根までできていたのです。

「小人の靴屋だ・・・」と思わず思いました。寝ている間に仕事をしてくれるあの小人の愉快な話が私は大好きでしたが、まさにそんな感じで想像できない早さで会堂が全貌を現し始めています。

 地元紙「民友」の取材もあったとのことで、9月9日に「福島教会 年内完成へ」の記事が載りました。「旧会堂の面影を宿したデザインで、再び市民から親しまれそうだ。」とあるのはうれしいかぎりです。今は一日ごとに形を成していく姿を、畏れと感謝と喜びをもって見守っております。 確か靴屋の夫婦は、小人に服や靴を作ってあげたはず、私たちは神様の御恵みにどのように報いたらよいのでしょうか。






2014年9月11日木曜日

「医師が語る終末期の治療」


 ホスピスで緩和医療に務めた医師の本を読んで印象に残ったのは、治療に関して後悔する人が多いのだということでした。よくなる可能性があると思えばどうしても治療にとりかかってしまうものの、手術がうまくいかなかったり、化学療法に苦しんだ末に回復することなく亡くなったり、治験段階の療法を試してやってみたものの貴重な時間を失っただけの結果だったり、わらにもすがる気持ちで代替療法に手を出し財産を大方なくしたり・・・と、治療を目指す気持ちから始めたことを後悔する事例がそんなに多いのかと驚きました。家族が病名を本人に隠している場合などは、自分の納得する人生の幕引きを妨げられて取り返しのつかない最期となることも多いようです。そのほか、家族がいがみあていたり、入院中から相続のことでもめていたり、悲惨な最期を迎える人々もたくさんいると知りました。悲しいことです。

 病気別「死ぬ時の私の希望」という項目があり、長年ホスピスで勤務した医師の希望とはどんなものかと興味深く読んでみると、基本は、「助かる見込みが少ないのに、救命治療をやりすぎないこと」、「意識が正常でないのに、人工呼吸器、ペースメーカー、栄養補給などの延命治療を続けないこと」、「痛みなどの身体的苦痛は十分緩和してもらうこと」でした。

 病気別の対処方法の希望も詳細に書いてあったのですが、それによると、脳卒中の場合、転んだりして硬膜外血腫なら手術、脳梗塞が軽傷で発症から時間がたっていなければ血栓溶解治療、それ以外の脳梗塞、脳内出血、くも膜下出血は手術しない。人工呼吸器と胃ろうはいかなる場合もお断り。

 急性心不全の場合、人工呼吸器をつけたり、心臓動脈にステントを入れたり、不整脈にペースメーカーをつけたりしない。救急病院に運ばれるとあらゆる救命救急措置をされてしまうので、かかりつけ医に事前に蘇生処置をせず自然死させてくれるようお願いしておく。

 がんの場合、手術も抗がん剤治療も受けない。痛みがあればモルヒネなどの鎮痛剤をもらう往診を頼み、できる限り自宅で生活する。苦痛コントロールが自宅で困難になったり寝たきりになったらホスピスに入院する。入院したら早めに目を覚ますことのない眠りにつく「鎮静」をお願いする。

 徘徊したり寝たきりになったら、不眠時、徘徊時は睡眠薬、向精神薬を処方してもらう。寝たきりになったら、目を覚まさないように睡眠剤や麻酔剤で眠らせてほしい。これが難しい場合でも、強引に食事を与えず、低カロリー、低たんぱく食でゆるやかに最期にむかわせてほしいとのことでした。

 なかなかここまで割り切ることはできませんが、過剰な治療で後悔しないという視点もありだなと思わされました。

2014年9月6日土曜日

「変わらぬ希望をもつ人々」


「絶望の 虚妄なる 正に 希望と 相同じ」
これは若いころ友人に教えてもらった言葉で、魯迅が散文詩「野草」の中に、ハンガリーの愛国詩人ペトフィ・シャンドルの言葉として引用しているとのこと、確か、「吶喊」の原序にもとても似たような記述があった気がします。おぼろげな記憶ですが、「鉄の部屋の中で昏睡状態にある人を目覚めさせてなんになるのだ」という魯迅に、「一人起きたのならまた一人目覚めるかもしれず、そうすれば鉄の部屋を壊す可能性がないとは言えない。」と友人が答える。自分自身はそんなことは絶対にないと確信しているが、「希望」ということなら自分の確信をもってこの友人の言葉を否定することはできない。なぜなら、「希望」というものは未来に存するゆえである・・・というような話だったと思います。

 毎日多くの事件が起きます。自然現象のような災害はしかたがないとあきらめることができても、人間による身の毛もよだつような犯罪に関しては人間の邪悪さを深く感じ、絶望感にとらわれることも多いです。また、民族間の対立による殺戮の連鎖に関しては、あまりの残虐さと理不尽さになすすべもない現状を知り、考えるのをやめようと思います。昏睡状態のままもう目覚めない眠りについた方が幸せです。起き上がったところでできることなどないでしょうから。

 一般の人から見ると、クリスチャンというのはかなり変わった人たちです。神が人間の形をとって歴史上の一点としてひとたびこの世に存在し、人間の罪を背負って代わりに死んでくださった、その神性によって罪から人間を救ってくださった、そして復活し死に勝利されたということを信じているのです。今書いていても初めて聞く人にはなんのことやらわからないだろうなあと自分でも思います。理解できれば信じられるというものでもないのですが、それにしてもハードルが高すぎると思うのです。ただ、ごくまれにですが、初めて聞いてすぐに信じられるという人がいるのも事実で、これは本当に不思議なことです。

 人間の歴史というか、この世の状況は何千年も変わっていない。絶えず戦争があり、強いものが弱いものを支配し、虐げと収奪があります。正義とは強いものの論理で作られるものであり、強国の支配に屈する民は嘲笑される屈辱の日々です。

詩編42編4節
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。

・・・・・・・・

詩編42編11節
わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き
絶え間なく嘲って言う
「お前の神はどこにいる」と。 

 神などいないと言わざるを得ないような状況の中で、まさに不正と暴虐が吹き荒れる世の中のただ中で、神のささやくような声を聴き、「神はいます」と言う者たちがキリスト者なのです。世の人には理解しがたいのは当然です。それでもそう信じることをやめないのです。クリスチャンが「変わらぬ希望」を持ち続けるのは、希望が未来に存するゆえではなく、神への信頼ゆえです。


詩編58編 12節
人は言う。
「神に従う人は必ず実を結ぶ。
神はいます。
神はこの地を裁かれる。 」

2014年9月3日水曜日

「涙の映画鑑賞」


 一般にはあまり流行った映画でなくても、個人的には印象深い映画というものがあります。

 私が子供のころ、夏休みに体育館で(当時は講堂と呼ばれていました。)映画鑑賞会がありました。午後3時か4時頃から始まり2時間ほど映画を見ても夏だからまだ明るいうちに帰れるような時程だったと思います。登校日でもなく、夏休み中なので来られない人は来なくてよい、おそらくむしろ、どこにも行けない子供の娯楽のためだったのではないかと今では思っています。

 私が覚えているのは、「巨人の星」と「ボクは5才」。前者は知らぬ者のない国民的熱血ど根性漫画ですが、後者は知らない人も多いでしょう。40年以上前の映画で、5才の男の子が出稼ぎに行った父親会いたさに、以前行った時ランドマークを描きとめたスケッチブックを持って無銭旅行に出る話です。覚えていることは、ミヤコ蝶々が出演していたことと主題歌がチムチムチェリーに似ていたことくらいです。男の子の賢さや勇気を応援しつつ旅路にはらはらしながら、皆自分が主人公になったような気持ちで映画に熱中してしまいました。すれ違いで父親に会えない、「えー、可哀そうすぎる」と思った瞬間に、忘れ物を取りに来た父親に再会できたという結末で、その場にいた小学生全員から涙を搾り取った映画でした。

 もう一本忘れられない映画は、社会人になってから見た日本名「フォーエバー・フレンズ」という女の友情を描いた映画です。原題は”Beaches”で、家庭環境も性格も全く違う幼い二人の女の子が海辺で出会い一緒に遊んで親友になるのですが、大人になって再会すると立場も考え方も違うため確執が生じます。一人はショービズの世界で成功した女性でベット・ミドラーが演じ、もう一人は弁護士の奥さんでバーバラ・ハーシーが演じていることからもわかるように、この二人に共通点はほとんどないのですが、子供のころの友情は絶対的なもののようで、どんなけんかをしてもお互いをかけがえなく思っているのです。結局、バーバラ・ハーシーは不治の病を得て亡くなるのですが、ベット・ミドラーに娘を託し彼女が女の子を引き取るところで話が終わります。この娘は(二人が海辺で出会ったのとちょうど同じ年頃です。)母親が生きていた頃、二人の固い友情に気づいていてベット・ミドラーとの間に三角関係が生じ、お互いに意地悪をしあうところが可愛く描かれていました。

  文脈は忘れましたが、これをどういうわけか新京極の映画館で友人と見たのでした。映画の主人公の気持ちがわかりすぎて、最後は二人ともボロボロ泣いたのを覚えています。忘れられない映画です。

2014年9月1日月曜日

「ぶどう園の労働者のたとえ」


 聖書に出てくるたとえ話は単純ながら興味深いものが多いのですが、その中で何か1つ選ぶとしたら私は「ぶどう園の労働者のたとえ」を選びます。私はずいぶん前からこの話が断然好きでした。この世ではありえないことなので、もし天国がこのようなところだとしたらいいところだなと思ってきたのです。知っている方には「ああ、あの話か。」とすぐにわかるでしょうが、ここに再録しておきます。

マタイによる福音書20章1節
 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 1デナリオンをわかりやすいように勝手に1万円として考えると、最初に1日につき1万円の約束で雇われた人はおそらく時給1000円といったところでしょうか。一般的な水準です。9時、12時、3時に雇われた人は「ふさわしい賃金」としか言われていないので、いくらもらえるのかわからないいままとにかく仕事に行くことになります。5時に雇われた者たちは賃金がもらえるのかどうかすらわからないままぶどう園に出かけていくのです。最初に雇われたものは、とりあえず1日真面目に働けば1日家族を養えるだけの賃金がもらえるとわかっているので安心してその日を過ごせます。安泰な立場にいると公平な配分に敏感になるものです。長く働けば成果を積み重ねることができ、それは自分の能力と努力によるものだと思い、その分の報酬を望み求めるのが普通です。自分が夜明けから仕事にありついたのは運がよかっただけかもしれないのに、つまりただゆえなく恵まれていただけなのかもしれないのにそうとはつゆ思わす、安楽な立場にある者ほど成果主義に傾いてしまうのです。早朝雇われた時には、「やれやれありがたい、今日も生活の心配はなく過ごせる。さあ、がんばって仕事をするか。」と思っていたに違いないはずの人が、仕事に出た途端この世の論理に飲み込まれ、あっという間に効率主義の権化になってしまう、これが二千年変わらない現実です。

 その後に雇われた人たちは雇われた時、うれしかったに違いありません。しかし、自分より前から働いている人や自分の後にきた人の働きぶりをみているうち、おそらくこちらも効率至上主義に飲み込まれてしまうのです。勝手な想像ですが、9時に雇われた人は、「いくらもらえるのか額はきいていないけれど、きっと1日の生活費には少し足りないな。あとはなんとかするしかない。」と思い、12時の人は「半日分のちんぎんか、いったいどうしたらいいだろう。いや、そもそもそれだってきっちりもらえるかどうか・・・。」と思い、3時の人は「3時間分の賃金ではどうしようもない、ないよりましだが夕飯代にもならないだろう。そもそも『ふさわしい賃金』っていくらだ。相手の言い値にされてしまうのでは・・・。」と思ったりするもので、つまり雇われてもそれで安心ではなく、雇われたら雇われたで、様々な思いと不安が生まれるのがこの世の生活です。

 さて、一日の終わりに一律一万円の賃金が支払われた時、それに対してどう思ったかは最初に雇われた人たちの言葉しか書かれていません。最後の1時間だけ働いて1万円もらった人々は、最小の労働で最大の報酬を得た人たちであり、今ならさだめし時代の寵児になれるでしょう。夜明けから働いてきた人たちは思ったのです。「時給一万とはうまくやったな。」と。しかし1日働いて1万円というのは当初の約束どおりなのですから不平を言われる筋合いはないのです。主人は「不公平だ。」という彼らの意見を一蹴してこの話は終わります。

 今読んでもすごい話です。この話1つ残しただけでもイエス様というのはすごい人だと思います。人と言いましたが、この話をぽんと語るということは人間の属性を越えていることだと感じます。労働のたとえになっていますが、おそらくこれは人の救いに関する話なのです。5時に雇われた人というのは、絶望的な気持ちで広場にいた人たちです。黄昏の中、1日の終わりを空しく待つしかなかった人たちです。1日が終わる寸前で雇われたこと自体信じられなかったかもしれません。ましてや支払われた賃金1万円を目にした時は目を疑ったに違いありません。この人たちは、ゴルゴタの丘でイエスと一緒に十字架刑にかけられ、イエスに罪を悔いたた罪人の一人と同じです。絶望の中一生が終わろうとするまさにその時に、イエスから「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と言われたのです。救いは全員に平等に与えられるのですが、悲しいかなそこに至るまでに人間は様々なつぶやきをしてしまうのです。

 さて、最後に9時、12時、3時、5時のそれぞれの時間に雇われた人たちは、その時間までどうしていたのかという疑問があります。彼らはその時間になるまで広場にはいなかった、つまりその時間になるまで働こうとは思わなかった人たちか、もしくは「誰も雇ってくれないのです。」という言葉からわかるように、「彼のぶどう園」で働くよりも他の人に雇ってもらうことの方を望んでいた人たちです。ぶどう園の主人は決して人に労働を強制しようとはしません。そこは個人の意思を尊重しているので、話が厄介なのです。つまり、この世の中で満ち足りて毎日楽しく何の疑問も感じずに過ごしているのなら、いつまでたっても広場に行こうとは思わず、またもっとよさそうな働き口に引き寄せられてしまうかもしれません。となると、残念ながらこの人たちは救いにあずかれないのです。この世の現実をよいものとして全面的に肯定して生きて行けるかどうかと考えると、それぞれの人生のどこかでイエスに出会う機会はありそうな気がします。