2014年6月17日火曜日

「渋谷の街から」


 渋谷のスクランブル交差点が外国人に人気だと聞きます。あれだけ多くの人がぶつかりもせずなんでもないようにすれ違って行くのが驚きなのだとか。田舎から出てきた人があの場を見て、「ああ、今日はなんかのお祭りなのか。」と思ったという話も聞きます。私は東京にいるとき週に1、2度渋谷に行きますが、確かに人が多すぎてある意味、毎日がお祭りといっていいのかもしれません。

 ここにはいろいろな人がいろいろなことをしに現れるようです。夕方のテレビのニュース報道の中で思わず見入ってしまったのは、一見変な人たちの紹介です。選挙運動のようなたすきをかけて世直しソングを歌う年配の女性、手品の腕前を維持するために街頭で技を披露する若者(23歳にしてすでに10年の芸歴)、捨て猫が出ないよう猫の可愛さをしってもらうために十匹くらいカートにのせて散歩しているおじさん、「大好きな渋谷が汚いのは許せないんすよ。」といいながら、赤鬼の格好でゴミ拾いをする若者たち・・・。感心だと思ったのは、みんな自分の得になることでもないことを無料で行っていることです。

 外国であれば、大道芸人を見ればそれが彼らの生活の糧であるとみんな知っているのでかごにお金を入れるのですが、日本にはその習慣がないのです。(そのため習慣の違いからトラブルが起こることもあり、某国の街頭でフラメンコをぼんやり見ていたら料金を請求され不快な気持ちになったという話をきいたことがあります。) ストリート・パフォーマンスを純粋にプレゼントとして楽しむ、もしくは街頭での演技や演奏をアーティストになる武者修行の場としてとらえ、金銭をあげるのはかえって失礼だと考えるのは日本特有のものかもしれません。

 日本では1年中祝祭的が場所があります。祭りを待つ必要はないのです。行きたいと思ってディズニーランドに行けばたちどころに非日常的空間です。たぶんヨーロッパでは意図的にそれを抑制しているのではないかと思います。メリハリをつけることで得る利益は最終的にみれば、常時祝祭的な場合より大きいのです。しかし、もうそうもいかないだろうと思うのはインターネットがあるからです。ここでは常に祭りが行われ常に祝祭的空間が続くのです。もうこの流れは止められないでしょう。日常の無味乾燥さに人々は耐えられなくなっています。このことが人の心性と習性に与える影響は計り知れず、それが不可避的かつ不可逆的なものとなった結果、どんな社会が到来するのか末恐ろしい気がします。おそらくそれは予想以上の速さで現実のものとなるでしょう。つい最近体調を崩し丸2日テレビともインターネットとも無縁の生活を送りましたが、とても平和な時間でした。現代ではこんな平安は病気にでもならないと得られないものになりつつあると実感しています。